関東大震災によって千葉の実家を失った朝倉氏は、東京へ出て警察官となります。

勤務中に拾ったエアデールの雑種が、後に南千住署の名犬となった「ベル公」。数々の事件解決に貢献したベルの功績によって、朝倉巡査も警視廳警察犬係に任命されました。警視廳警察犬復活の立役者であったこの主従ですが、日本警察犬史にその名が記されたことはありません。

 

モジャモジャのモッサリした犬が、帝都の窃盗犯を震え上がらせた名犬ベル公です。

 

殊勲のベル君は現在八歳、生後三ヶ月の時に野犬となつて放浪中を、當時四谷署に勤務してゐた朝倉巡査に救はれ、爾來八年間、吾子のやうに愛育する主人に忠實に仕へ、今日の功労までに既に、窃盗犯三名、密猟者一名を捕えさせ、當然撲殺される運命にあつたのを救つた朝倉巡査のため、五回の報恩を捧げてゐる。

ベルのほか、朝倉巡査宅には、ベルの弟エス君(三歳)、細君のクロ夫人(三歳)及び舊臘生れたばかりの愛息ジヨン君が同居し、更に愛猫から軍鶏までが座敷に土足を印して、典型的な動物愛護の家を形成してゐる。

主人朝倉巡査は、現在留置人の係りで、留置場では鬼の様に恐れられる峻厳さだが、いざ刑務所へ送られる犯人に對しては、慈父の様に愛情深く、持金をはたいて持たしてやる程の親切さ。従つて獄中からの感謝状も數限りないが、道楽といつては酒、莨、スポーツ、芝居、キネマ等すべて嫌。単に動物愛護だけに生きるといふ性格の持主で、九年間の巡査生活に、検挙したもの全部が強盗窃盗犯だけといふ點からも、稀に見る人情警官であるとの噂が高い。

四谷署に居た頃は、近所の人々に「デブの犬のお巡りさん」とか「西郷隆盛」の綽名をつけられ、嘗つて岡本一平氏の漫畫に「犬のお巡りさん」として取材されたこともあつた程の犬好きで、それも立派な犬を育てるといふわけではなく、野犬でも可愛さうだと思つてこれを育てる邊り、氏の面目が躍如としてゐる。

而も犬ばかりでなく、近く車に轢かれた鶏を食用として貰つたが、殺すのが可愛さうだと自ら手當をして飼養して居るといふ佳話もあり、奥さん、お嬢さんとの三人暮しよりも、それらの動物の飼育費の方が多いといつた有様である。

 

ジヨン君に顔をペロ〃舐められ乍ら、喜びに充ちた氏のお話―。

私は犬に對する見識を持ちませんから、別にお話も出來ませんが、現在のベルを飼ひ始めたのは八年前で、その頃四谷署に勤務して交番に立つてゐた頃、これが野犬としてうろついてゐるのを拾ひあげたもので、生後三ヶ月頃から手がけてゐます。

先づ、種類は何だらうと、犬屋に見せるとロシア系のシープドツグだが、それにエアデールテリアが加つた雑種だといふので、面倒見たら面白いものが出來るだらうと飼ひ始めたのです。

元來、犬を飼ふことは、私の趣味で、田舎に居た頃から飼つてゐましたが、當時は拝命を受けたばかりの薄給で、僅か四十五圓の月給の中、六畳の間代が十五圓、その他犬の税金から食物までを加えると、全く人間の方が食へない有様でした。然しこれを手鹽にかけてから二ヶ月目、犬として一通りの教育をしましたが、近所のお邸に飼つてある立派な犬よりも、鋭敏さの點では、優れてゐることを發見しました。

 

それからは、私獨特の素人訓練法と管理とで今日まで育てゝ來ましたが、今では私が風呂へ行くと、往きは随いて來ませんが、帰る時刻になると必ず迎へに來、私が話でもあつて長びく時は、石鹸を銜えさせると一旦家へ戻つて、それを置いて再び迎へに來る程になり、よく云ふことをきく様になりました。例へ野良犬の雑種でも、斯うしてゐると、他の良い犬にかへる氣は、私にはどうしても起りません。如何に苦勞しても生涯飼い殺す心算です。

ベルはまた、私が四谷にゐた頃、二階に間借りをしてゐたせいか、梯子段の上り降りは實に巧みで、普通の梯子でも、私が屋根へ上る時など随いて來ますが、上りだけは完全にやります。

面白いのは、自動車へ乗ることが大変好きなことで、自動車を止めると、お客さんを送る場合でも先づ眞先に飛載乗つてしまひます。一度乗りたがるのを無理に下ろして、九段まで行つたのですが、いざ下車しようとすると、ステツプの處にちやんと座つてゐるのを發見して、吃驚したことがあります。

 

今日も御覧になつたやうに、私が署を退けて帰宅すると、逸早く感附いて出迎へ、鞄を銜へて喜んで先に立ちます。また朝の見送りから、お弁當の運搬、肉屋のお使ひ、大抵のことは覚えてゐます。

私はまた巡査の仕事は犬と似てゐるんぢやないかと考へます。無産党あたりの代議士が、吾々のことを「資本家、地主の番犬」だと罵りますが、それはそれとして、何處か似たところがあるんぢやないかと思ひます。而も犬の方でもそれを認識してゐうrのではないでせうか。

私がベルを連れて、一定區を一定時に警邏すること三、四回で、悉皆覺え込んで了つて、私が時間が來て第一線に足を向けると、前に巡つた時と少しも変らぬ路順で先を行き、次の時間で第二線に一歩踏出すと、第二線を完全に見廻ります。

 

最近、漸く警察犬復活の機運が高まつて來たやうに思ひますが、ベル位の犬だつたら、大丈夫役に立つだらうと思ひます。捜索の方では、附近がこのやうな石ころだらけの處ですから、先づ一つの石に唾をつけて、その中へ投げると、屹度嗅ぎだして持つて來、分らぬ時は他の石を持つて來ません。私の家みたいな、詰らぬ犬でさえ、斯うしたところを持つてゐるのですから、ましてシエパードなどの優秀なものを使用したら、屹度効果を擧げることゝ思ひます。

「殊勲のベル君(昭和9年)」より