野犬狩週間が終つて、大阪府だけでも數千の犬が撲殺されてしまつた。

吾等の住居は郊外にあることであるが、純粋の野犬は山の奥に隠れて、捕まつたのは大部分飼犬であつた。週間が終ると野犬どもが再び姿を現はして、我物顔に闊歩してゐる。

犬狩の通の話によると、女犬を連れて行くと、五六匹の犬を捕へることは譯はない。これが一匹五十銭になると、これ程いゝ商賣はないさうである。

恐るべき狂犬病豫防のために、ある程度の犠牲は餘儀ないことであらうが、さりとて罪のない良家の良犬が、五十銭のために命を落すことは、堪へられない出來事であるに相違ない。

動物愛護といふことも、つきつめて申せば、生物を殺すことなしに人類は生存出來ないのであるから、つまりは程度の問題であるが、吾等が動物を愛撫する美しい愛情は能ふ限り尊重されねばならない筈である。

たゞ単に届出での手續きを怠つたといふ如き、形式上の問題で飼犬を直ちに野犬と見做すやうなことは面白くない。

犬には「私は良犬です。私は何人にも危害を加へるものではありません」と弁解する機會が與へられてゐないだけ、それだけ一層愛隣の情を以て遇せらるべきものではないか。

といつて吾等はさら〃今度の當局の企てを非難しようとも野犬狩を無用だと思つて居ないのであるが、餘り形式張つたやり方は、兎角人情の疑を招く虞がある。

形式主義は我官廳の通弁である。

動物に對してすらも愛隣の心のない人は、對人関係においては酷薄の人である。

「野犬狩」より