生年月日 明治12年頃

犬種 日本犬

性別 不明

地域 栃木縣

飼主 アルベルト・ヴィルヘルム・ハインリヒ氏

 

ハヰンリヒ親王殿下の海軍少尉たりし御時、本邦にご來朝あらせられしは、今より二十年の昔なりけるが、予が家は兼て栃木に写真業を開き居りしを、
たま〃流行病を避けむとて、郷里日光に引移り、父が目慣れたる山水廟社を撮影し折りなりき。
然れば殿下の日光御賞遊中、男體行人に御異装あり。一行五名にて写真業あらせらるゝ際、幸榮にも御命を拝しぬ。
然るに是と前後して、當時三歳の予が最愛の一疋の狗兒、九死の危きに陥りたるを、天資英邁にして御仁恵深き殿下の御手に、救助せられたる事ありき。
其狗は即ち殿下の御愛犬「日光」なるか、此事實は古今稀有の一奇談にして、又一美事と云ふべかりし。
故に殿下が再度の御來朝に接して、何となく當時の忍ばるゝまゝ、左に大要を録し、且つ父が写し撮りたる一行の真影を添へて紀念を表すと伝ふ。

予が住家は日光八景の一なる上鉢石の街灯にして、絵の如き朱欄の神橋、飛龍の如き大谷の激流を坐ながらながめられ、結構美を盡したる山内へも最と近かがりしかば、予は僅かに三歳の折柄なれば、母が膝下に餘念なく遊び暮して少しの退屈も覚ゑざりき。
或日、まだ乳房はなれぬ狗兒の、下馬の一隅に捨てありしとて、近所の兒女が持來るを見れば、ムク〃と肥ゑ太りたる三疋の狗兒にして、呱々として其が乳母を索るる様
如何にも可憐なり。
さるほどに家内のもの哀を催して、今は無情に逐ふに忍びず、寧ろ幼き子の為めに、よき友とらせむとて、其まゝに養ひぬ。
予が喜びは如何斗りか、傍近く抱き寄せては、三度の食以外に、菓子など與へつ、三疋の狗兒が踊り狂ふ様を見ては、己も踊りて娯みけり。
而して其が三疋のうち予は人の好まざりし黒斑を、いたく気に入りて、己が所持と寵愛しゝも、後にぞ思ひ當る不思議の縁因なれ。
其より三四月を過ぎて、予が寝覚めの心地勝れざる折なりき。
母には大谷の向岸に、御滞在の獨逸皇族一行の霧降より帰り來らるゝを認めけるが、御弱年の殿下只御一人、本宮坂の彼方より従者を残して、御足早に走らせ給ひしかば、母は何か仔細のなからめやと、予を背負ふて戸外に出ぬ。
殿下には此時疾く假橋を渡りて、三十間あまり岸邊を下られしが、何か水面を御指し、向の従者と問答しつ、屹と瞰下す御顔は、金玉の御身を忘れて、高さ五十尺餘はて
の断崖上より、激湍奔流の淵に抵らむず勇邁なる御気色、あまりの事に驚きし母は、不信の眉に淵を見やれば、アゝ無残、何れ小兒の悪戯なるべし、浪音荒ましき汀に捨てられたる狗兒の只一疋、聲を限りに泣き迷ふこそ、まがふ方なき予が最愛の斑犬なり。
されば予等いたく驚きたれど、婦人小兒の詮術なく、尚も殿下の御挙動如何にと見参らすれば、殿下の雄々しき、さしもの断崖に御身を躍らし、軈て可憐の斑犬を難なく救ひ上げ給ひぬ。
其より殿下には狗兒の不幸を憐み、御身を自身に御飼養せらるゝ御意なりけむ。
遥か隔てゝ控へたる予等に御用意深くも御意を傳へて、従者もろとも御帰館あらせられき、九死の淵より高貴の御手に救はれし斑犬こそ身にあまる光栄なれ。
殿下御帰館のゝちは、乳よ肉よと畜生に過分の美食を與へられしと洩れ聴きつるに、彌々日光御出發の際は、綿を敷きたる筺中に入りて送られき。
當時此事を傳へたる町民は、何れも殿下の天資御勇邁にして御仁恵の深きを称へ奉らざるはなかりき。
扨ても其のち、五年十年と多くの歳月を送りし間、談話の此事に及びしを、幾度と云ふを知らねば、一旦忘れ果てたる予も當時を追懐して、殿下には其の後ます〃御勇壮におはすらむ、斑犬も豆めで幸福なるべしなど徒に想像を畫くに過ぎざりき。
然るに二十年の星霜を経たる今日此頃、殿下再度の御來朝に接し、新聞紙は此間の消息を傳へられぬ。
今や殿下東洋艦隊に司令官長として、沈毅の御名高く、世間の人鎧袖親王を以て称へらるれど、明治十二年親しく此事實を拝観したる予等は、其時既に今日あらせらるべきを推し奉れり。
さはあれど、一旦愛でたる斑犬の、殿下の御傍近く飼養せられて、後には伯林の動物園に入り、萬里の海外に日本犬を代表すべしとは想ひ寄らざりき。
あはれ天下又と「日光」の如き光栄ある犬のあるべきぞ。

 

片岡武「獨逸皇弟殿下の御愛犬」より 明治32年

 

東洋艦隊の海軍士官候補生だったハインリヒ・フォン・プロイセンは、明治12年からたびたび日本へ寄港しています。

日本では狩猟や旅行を楽しんだようですが、そこで拾った仔犬をドイツへ連れ帰ったというエピソードは初めて知りました。
初期にヨーロッパへ渡った和犬の、貴重な記録でもあります。