部隊の前進が早いのと、高粱の茂みに妨害されてどうしても連絡がつかない。そこでその連絡をとるために軍用犬を使用することゝなり、末富上等兵の飼育する軍用犬さくら號が選ばれ、第一回の使命は無事に果した。今度はその第二回目である。

「さくら、頼むぞ」

末富上等兵はさくら號の耳元に囁いた。そしてその頭を撫でてやつた。さくらは低く身を構へて合圖次第で飛出す姿勢だ。

「ソラ!」

末富上等兵の聲の下、矢のやうにさくら號は駈け出した。両耳をピンと立て、必死と駈ける勇ましい姿が、砲煙を飛び抜け、彈雨をくゞり、高粱畑を縫つて、忽ち見えなくなつた。使命は重い。賢くて勇敢な犬だが、果してとげるかどうか。末富上等兵は、さくらの姿を見るまでは氣が氣でなかつた。自分の命はつゆ惜しいとは思はぬ末富上等兵が、思はず神に祈り、(無事に歸つて來てくれ、無事に)胸の中で両手を合はせ、あつちへ行つたり、こつちへ來たり、砲煙の中を透し見たり、高粱の上に伸び上つたり、一心に前方を見つめてゐた。

が、行つたきりで、さくらはなか〃戻つて來なかつた。われを忘れて、末富上等兵はいつか彈雨の中に立つてゐるのも氣がつかなかつた。

 

佐々平八郎『上等兵と軍用犬(昭和16年)』より

 

内地から戦地へ赴く軍犬(撮影年不明)

 

早期に終結するどころか、日中戦争は泥沼化していきました。和平工作も失敗した日本は、国際的にも孤立。果ての無い戦いに、数多くの軍用動物が呑み込まれてゆきます。

 

 

内地の新聞や雑誌で報道されるのは、敵を蹴散らして戦場を雄々しく駆ける日本軍犬の姿でした。それを読んだ人々も、軍犬の大活躍に喝采を送ったことでしょう。

同じ頃、前線の軍犬班は過酷な状況下で苦闘を続けていました。満洲国で相手にしていた抗日ゲリラとは違い、今度の相手はドイツ式の近代兵器で武装した中国軍です。

 

歩兵学校軍犬育成所出身の柚木崎大尉は、下記のような戦地便りを書き送っています。軍犬の専門家だけあって、バタバタ倒れていく犬、指揮官の無理解、非効率な運用、銃後犬界の将来など、相当の危機感を抱いていたことが読み取れます。

戦場の現実と、脚色された軍犬美談は全く違っていたのです。

 

扨て、小生の見たる現地軍犬の状態御紹介申上候。當地戦線は山西の首都〇〇に於て軍犬に関する集合教育をなし、各隊へ逐次補充し、中には小生購買したる犬もありなつかしく再教育致居候。

各隊共軍用犬の訓練をする兵は出來、犬も交付されても之を使用し得る認識ある隊長なく、未だ充分之が偉勲を奏するに至らず、猛烈なる行軍に逐次貧弱なる犬は斃死し、二分の一か三分の一の頑健なもの残りあり。各隊は専ら傳令訓練を施し、未だ警戒訓練に服せしめしことを聞かず。後方の倉庫等の事情は承知せざるも、補充所幹部の言にては、専ら軍隊のみに補充し、それを以て精一杯なり。倉庫等の警戒にと云ふ事を耳にするも、實効果、取扱者等に疑念を存し、未だ實施せずとの事に候。各隊傳令用役も前述の如く、之を有効に使用せんとする認識ある幹部少く、兵犬共アクビしある状況に候。

當隊もかくの如き状況にありしを、小官着任以來小生の隊に兵犬を配属され、爾來本部と小生の間の命令文、報告文の送受に使用し、數回偉勲を奏し候。今回の路安作戰には薫封鎮付近の戰闘に於て敵に全く包囲され、大隊本部と中隊の連絡全く困難となり、傳令兵は次々に死傷せし時、小生の隊の命令受領者のみは軍犬であつたが爲め最後迄敵弾下、特に敵狙撃下を連絡致候。然乍らその命令受領の下士官も最後には犬に命令文を交付せんとせし時、迫撃砲弾落下し軍犬は即死、軍犬兵及その下士官は負傷致候。

軍犬の飼糧は戦地に於て肉類不足を心配せる陸軍軍犬関係者の疑念を一掃し、牛は我等の食事に頻繁に又豊富に殺して喰ひ、今頃肉不足になやめる内地諸君には羨ましい程にて、犬にも大に馳走致居候。但し調味品は作戰間全く補給なく困難する時あり。通常粉味噌、粉醤油にて過し居候。ヒレ、ロースありとするも砂糖なき肉料理お考へになりしことありや。之れ全くからい許りで結局粉味噌の汁の味つけしかならず、犬には大して不自由は感ぜず。

糧食の補給途絶えて一ヶ月、殆どカユかメリケン粉にて團子を作りしのぎたる事あり。この際にても犬は牛肉に不足せず、又野には羊、山羊あり。之等をたをして喰はせ、未だかつて犬の飼糧に不自由せしこと少し。軍馬の過労の爲め、或は戰死せるもの數を知らず。然し未だ馬肉を利用する程戰場の地方物資不足せず。軍犬の損耗中最も多きは難行軍に耐久力不足と趾球磨滅の爲め歩行不能に至りたるものに候。

小生在葉間力説し、止まざりしもの立證して餘りあり。

内地犬界、特に軍犬の趨勢如何。國家總動員下に於て畜生の存在も逐次圧迫を受けつゝあるにや、此の際軍犬をも一般犬と共に圧迫を受くるに於ては一大事と心配致居候。

 

柚木崎好武『軍犬の現地報告(昭和14年)』より

 

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