群馬には十國にも柴犬が居る。

現在同縣には上州日本犬協會と云ふのが設立されてをり、會員四十名位であつて、春秋に會誌を發行して、地方團體としては有力なものであるが、此の會員中には十國の柴犬の禮讃者が澤山にある。

然し會員中には大體二つの流れが見出される。

一は此の十國犬を主として飼育し、現状維持で進むべしと云ふのと、他は筆者の説と同じく、刷新向上を會の方針とするものである。大きな聲では云はれないけれど、十國犬萬能主義者は、實は十國犬を知らない連中なのである。

同地の古老に聞いても判るが、以前のものは性能體格共に堂々たるものであつたが、何處も同じで大物の野獣が居らなくなつたと共に追々信州から柴犬が入り込んで來た。

七八年前迄は、まだ昔の儘の十國犬と、そして信州から來た柴犬と両方居たが、今は殆んど柴犬のみになつて仕舞つたのが真實である。

勿論此の柴犬中には昔の十國犬の血の混じたものも居るので、性能的に言ふと中々優秀なものも居る。

筆者は持論である改良論を屢々説いたけれど聞き入れず、殊に昨年頃は文部省に申請して天然記念物の指定を受ける運動をなさんとするものさへ生じたが、會の方針が刷新主義なので揉み潰されて仕舞つた。全く時代の波は恐ろしいもので、幹部中にも率先して、十國犬の長所を備へたもので、體型も現代人の要望に副ふものを作出せんと努力し、既に着々實績を挙げて居るのであるから、数年を出ずして優秀な犬が群馬縣から出る事を確信して居る。

現在の十國の柴犬とはドンナものかと云ふと、筆者は今年四月上州日本犬協會主催の展覧會に出席して、親しく今の十國犬なるものを観察したが、大體数年前のものに比して細型のものが多く、筆者の郷里で云ふ兎犬式のものが多かつた。

尤も中に三四頭良犬も居たし、内容の中々優れたものも居たので、今にして何んとかしたらよいと思つた。

西洋人には元來が遊牧民から出發し、今の様な文化生活に這入つても、尚ほ種々な家畜に親しみを持つて居り、犬の改良なぞと云ふ事は常識であるが、日本人は農耕生活を出發點としたので、盆栽とか植木草花には親しみを持つて居るが、家畜に親しみを持つた人が少く、従つて蕃殖の方法なぞは無智識のものが多く、犬の改良なぞと云ふと奇異な感を起すものさへある。

畜犬界にも子供の云ふ様な説が採用されて居るのだから驚く。十國犬の柴犬としての位置は、内容は良いとしても、優秀なる柴犬なりとの折紙は付けられない。

犬と云ふものは何んとしても大衆の支持を得なければ、其犬種の命脈を保つ事は出來ないのであるから、内容ばかり良くても、外型が大衆に向かなければ駄目で、一人よがりでは世に出ない事を忘れてはならない。

高浜兵四郎「日本犬観察」より 昭和12年