和漢今昔犬之草紙(全6巻)
作・絵 暁鐘成 
出版 嘉永7年(1854年)


犬


秀吉公大坂の城に虎を飼せ給ふ時、其餌に近國の村里より犬をめされしに、津の國府丹生の山田より、白黒斑の犬頬(つら)長く眼大きに、脚ふとく逞しきを曳來る。
實(げに)も尋常(よのつね)の形には異なり。件の犬、虎の籠に入とひとしく、隅をかたどり毛を逆に立て、虎を睨む。
虎日來は犬を見て尾をふり、跳上つて喜びいさみけるが、此犬を見て日月の如くかゞやく眼を見はり、尾を立て、左右なく噬(かみ)かゝらんともせず、嗔(いか)りをなせし気色、恐しなんと言ふばかりなし。
人ゝすはや珍しき事の有ば、あれ見よとて走りあつまり、息を詰めて見る所に、虎は遉に猛きものにて飛かゝりしが、犬は飛違へて虎の咽に齩きし所を離さずして、共に死にけり。
此事御所に聞召されて、其犬の出所を尋ねさせ給ふに、丹生の山田に夫婦の猟師あり。
朝毎に能物を喰せて、早く帰れよといえば、尾をふりて疾山(とくやま)にゆく。主は犬の帰るべき時をはかりて、鉄砲を提行くに、近き邊まで猪鹿を追廻して、主に渡して打たせける。
しかるを荘屋より頻に所望せしかと、此犬は我〃を養ひたれば、いかに申さるゝとも遣はす事なり難きとて、遣ざりしを深く妬みけるにや、此度の犬駆に、此犬の代りを出さんと頻に願ひしかと、此儀なりがたしとて聞届けざりし程に、夫婦もろとも犬に對(むか)ひ、涙を流していふやう、汝いかなる宿縁によりてや、今まで夫婦を養ひつらん。今般荘官が所為(しわざ)にて。無理に虎の餌食になす事、口惜く思へども今更に力及ばず。我ゝをな恨みそ、敵(かたき)を取て死すべしと掻口説きしかば、能く言ことをや聞知りけん、凋ゝ(しおしお)としてして出行きしと。
上聞に達しければ、御所にも哀れがらせ給ひ、荘官が心根不届なりとて刑罰に仰付けられ、犬の跡よく弔へとて、荘官が財寶残りなく、夫婦の者に賜ひけるとなり。
新著聞集