生年月日 昭和8年頃
犬種 雑種
性別 牡
地域 東京府
飼主 酒屋さん

下谷旅籠町で車を捨て、廣小路に向つてトコ〃歩くと、左側に昔乍らの紺ノレンに黒焼と染め抜いた、名代の黒焼屋がある。
私は或る日、足に任せて珍犬探訪にと出かけたのであるが、遂にこれから書く様な犬を見出した。
それはかうである。
前記の黒焼屋の前を通りかゝると、自転車を乗り捨てた小僧さん、或は通りがゝりの紳士達が、二重三重に半圓を作つて何かをのぞき、笑ひ興じてゐるのだ。
何事ならんと走り寄つて見ると、それは雑種ではあるが小型の一匹の犬がチン〃をやつて居る。それは黒焼屋の店に向つて舗道でやつて居るのである。
隣の人に訊ねてみると、もう二十分許りも續けて、いつかなやめようとしないと云ふ事。
私は先づ黒焼屋の主人に伺ひをたててみると
「この犬は私んところの犬ではないのですが、何時もこうしてやつて來ては、食物を請求するんです。此の犬も、もう三四年前此の邊に居ますが、なか〃名物犬でしてね」
といふ返事。ところが此の黒焼屋さん、犬膽と称して犬の膽を賣つてゐるといふのだから愉快だ。

此の犬の飼主はその黒焼屋さんから二軒離れた酒屋さん。そのオカミさんに訊ねてみると
「ジヨン公(犬の名)は今から四年前、本郷の方から生れた許りの時に貰つて來たのです」
と言ふから四歳の牡犬である。
何時も小僧さんと一緒にお得意廻りして、腹がすくと家を構はずチン〃をして食物にありつくといふのだから、相當の心臓の持主だ。別に好物と言つてはないさうだが、ライスカレーが大好きと言ふモダンさで、ライスカレーだと三人前位ペロリと喰ふといふ。

さて、話を前に戻して、黒焼屋の前の人垣は却々散らない。
これ位芸が出来る犬でも可愛いゝわね、といふオカミさんがあれば、こいつ食物を貰ふまで續ける積りだなといふ小僧さん、とかくして、黒焼屋からパンを貰つたジヨン公は、スタコラ自分の寝屋に帰つた。
と、向ふからルンペン氏が籠をシヨつてやつて來た。それを見たジヨン公盛に吠えたてる。さつきのパンのお禮心かも知れぬ。
この様に夜もコソ〃歩き廻つてゐるので、近年コソ泥の入つたためしがないといふ近所の人の話だから、ジヨン公押太く他家で飯を請求するのも當り前と考へてゐるのだらう。

ところでさつきの人垣だが、ジヨン公スタコラ歩き出したので、何だい圖々しいと言ふ顔をしてゐたが、吠えつくのを見ると、ホホウと言つた顔をして散つて行く。ルンペン氏こそ好い面の皮だ。
子供達からはヤーイヤーイと囃され、ジヨン公には吠えつかれ、ほう〃の體で細道に逃げて行つた。
ところがジヨン公にも一つの芸がある。
それは酒屋さんの店で舗道に向つてお出で〃をするのだ。お蔭で酒屋さんも客足が繁くなると言ふのだから、ジヨン公益々我物顔するのも致方ないだらう。

下谷犬吉 昭和12年