新国劇「恐怖の家」

出演
前川清(島田省吾)
前川春美(二葉早苗)
楠瀬警部(辰巳柳太郎)
ドクトル久木田(秋月正夫)
久木田陽子夫人(長島丸子)
警察犬(ウィンゴルフ・フォム・ブラジェンベルヒ)
劇中映画の警察犬(アンティオス・バルダ)


上演
昭和11年6月


新国劇の俵藤理事(戦後は東宝舞台社長)は、自分の愛犬を舞台に出演させていました。
それがウィンゴルフです。
今回掲載するのは、新国劇「恐怖の家」に彼が出演するまでの記録。

日本の映画・演劇史から無視されて来た、俳優犬の舞台裏をどうぞ。

ウィンゴルフ
楠瀬警部(辰巳柳太郎)とウィンゴルフ

「スグコイ」と、京都にゐる主人からの招電によつて、私は勘ちやんに伴はれ、五月十九日の夜汽車で東京驛を發ちました。
翌朝七時には京都驛へ着くと、プラツトホ^ムに主人が迎えに來てゐまして、輸送箱から私が出されるのを待ちきれず「どうだ、コンデイシヨンは……?」と訊いてゐる主人の声が聞えました。

去る四月の展覧會に出場すべく、その用意とてか、三月のまだうすら寒い中旬の或る日、勘ちやんに洗つてもらつたのが原因で風邪をひき、腸加答兒を併發して、一時ひどく痩せ細つて元気がなかつたものですから、主人はそれを心配してゐたものと思はれます。
「大ぶん恢復しました。もう少しです」と勘ちやんは答えてゐました。

その通りです。その後の勘ちやんの手あて宜しきを得ましたので、人前に出るのは未だ萬全でないまでも、元気だけは充分といふところでした。
「今日はこれから撮影をやる」とのことで、主人の宿に三十分と落ちつく間もなく、自動車で比叡山の麓の八潮に行きました。
東京附近ではちよつと味へない景色のいゝ、幽邃な地で、そこには、京都警察犬協會所属、高谷三平氏の愛犬アンテオス・バルダ號も来てゐました。
今日の撮影の應援出場だといふのであります。

バルダの捜索シーンはこちら
http://ameblo.jp/wa500/entry-12025837476.html


私は、此處で先づ、足跡を辿つて急流の川を渡るところを、フイルムに納めされ、それが済むと登山電車で比叡山の中腹へ登りました。
仕事はこれからです。
バルダ嬢と二人、でない二頭で、バルダ嬢は古井戸に隠された死體捜索へ、私は殺人に使用された凶器の発掘へ、共に足跡を嗅いで大捜査、大撮影といふところ……。

これで思ひ當ることがあります。
京都へ行く前、勘ちやんが、駒込の家の近くの廣場へ私をつれ出しては、ハンマーをくはへさせていろ〃の訓練をやる。おかしなことをすると思つてゐましたら、今日のための豫備訓練をやつてゐたんだといふことが、やつと判りました。
どうやら、六月有楽座で、主人が関係してゐる新國劇が上演するといふ、甲賀三郎氏原作の探偵劇「恐怖の家」の劇中に挿入使用する映畫の撮影らしいことも判りました。

ヘンな帽子を冠り、襟のない洋服を着て、指揮をしてゐる人があるので、訓練士かと思ひましたら監督さんでした。
濱田さんと云つて、芝居の方の装置をする人だと聞いてゐましたが、映畫撮影の方も、どうして心得たものです。
「キヤメラ用意、アクシヨン、オーライ」とか何とか云つて、なか〃要領がいゝのです。

犬のことに就ても、相當知識を持つてゐるらしく見えましたが、私の傍で話してゐることがちよつと癪に障りました。
濱田さんの家にゐる、私の直血仔で昨年十二月生れの六ヶ月の幼犬が、既に私に劣らぬくらゐだと自慢しながら、私をじつと見てゐるのです。
どうせ、犬を持つてゐる人はみな自惚れ天狗ばかりだし、それに私の直血仔の自慢をしてゐるのですから、私も半ば嬉しく思つて我慢してゐましたけれど、そうでなかつたら、一ト噛みガブリとやつてやらうかと思ひました。

新国劇
前川清(島田省吾)と楠瀬警部

これはマア餘談で、兎に角私とバルダ嬢は、仮想犯人の足跡を辿つて、山また山を駆け廻り、初夏の陽が西丹波の連山に沈み落ちる頃まで撮影に従事させられました。
後になつて私が気になりましたのは、私の指導手である勘ちやんが、芝居氣がないといふのか捜索の時紐を短く持ちすぎて、折角の私の捜査作業が引立たなくなりはしないかとのことでしたが、試写をみますと、案の定さうでした。
が、もう致し方ありません。叡山まで再び撮り直しにゆくことは、大へんな努力と費用とを要するのださうですから。
その夜は、南座の芝居が済んでから島田さんや辰巳さんたちと一しよに、晝よりも明るい強烈なライトに照されながら、別な方面の撮影です。
斯うして一日で撮影は終つて、私は加茂川に臨み、東山の眺めをほしいままにした主人の宿屋で、二日間の休養を與へられました。實は勘ちやんが、一楽荘や高谷氏の訓練所を見学に行き度いと云ふので、私だけ宿の一室に寂しく取り残されたやうな譯であります。

人々は「ウインゴルフも附かれただらう。體を悪くしないでせうか」などと憂慮してくれてゐましたが、「こんな事くらゐにへたばるやうで、どうして犬の役目がつとまりますか」と、私は腹の中で笑つてゐました。

新国劇
前川晴美(二葉早苗)と楠瀬警部

東京へ帰つて待つてゐますと、新國劇の一座も帰京して、五月二十九日はいよ〃舞臺稽古です。
舞臺に於ける私の仕事は、第二幕第一場で、ハンマーをくはえて下手から出で、舞臺中央に落して去る。久木田ドクトルに扮した人が、それを見て驚き、ハンマーをポケツトに隠すといふ場面と、最後の犯人襲撃のクライマツクスの場面であります。
巽さんの役である楠瀬警部のトリツクで、ハンマーをくはへて舞臺へ出て、定められた位置近くに置いて帰つて來るといふ簡単な仕事のやうでありますが、ニ三日演つてをりますと、私は最後の場で私に追ひ詰められる犯人を覚えてしまひまして、その犯人が、このハンマーの場面での上手の一室に隠れてゐるものですから、それがとても気になつて、置いて帰るべきハンマーの位置が狂ひがちになるのです。
そんな日は、大層不機嫌らしい主人の顔色を見ますが、訓練すれば出来る技とは云へ、噛みつきたくてたまらない犯人の足跡や體臭などの誘惑が眼と鼻の先の直前にある處で、毎日同じ位置に狂ひなく置いて來いと云つたつて、畜生の私には少し無理でないかと思ひます。
で、芝居を進めてゆく上に、支障を來たさない程度に出来たら、まあ成功とみてもらはうと思つて、一生懸命やつてをります。
「出ろ」「落とせ」「帰つて來い」の獨逸語の命令一つで出来る仕事ではありますがね。

新国劇
前川夫妻

問題は最後の場の襲撃です。
SchH(防衛犬資格犬)の私には十八番の誂へ向きで最も演り易い筈なのが、却つて演り難くて困ります。
何故なら、ピストルを射つて逃げる犯人を噛み倒してやらうと思つて、私は全力を張り切つて追ひかけるのですが、芝居では、ほんとうに噛みついたら大事だから、噛みつかないで、それ以上の凄絶な効果を出さなければならないと、私の頸輪に紐をつけて、フアツシユ(襲へ!)の命令をかけられるのですから、私たるもの、實際つまらないのであります。
冬の服ならオーバーに仕掛けをして噛みつかせる法もあるさうですが、夏服ではそれが出来ないから危ない。と主人たちは申してをります。
専門の人たちが見ましたら物足りないかも知れませんが、一般の観客諸氏は、硝子の大扉を破つて突撃するところなど度肝を抜かれたかのやうに緊張して、大喝采を贈つてくれるのであります。

新国劇

五月三十日から六月二十五日まで二十七日間、私の任務も首尾よく全ふされ、怪我人もなく無事に済むやうにと主人たちは専心祈つてゐるやうでありますが、私にしてみますと、一度くらい噛みつかせてもらはなければ、毎日フアツシユの命令だけで、ある間隔をおいて飛びついてばかりゐたのでは、もう神経衰弱になりさうです。
然し私も日本へ來て、これまでは時々の種付に使はれるか、主人の子供二人の部屋に夜寝かされ番をするかの他、役立てられてゐなかつたのですが、今度初めて、直接主人の仕事に有効に使用せられて、獨逸からはる〃來た甲斐があつたと思はなければなりますまい。
軍用犬整備の急務であることは肯けます。が然し、警察犬といつても警察で私たちを直ちに使用するまでには未だ至つてをらず、牧羊犬たらうとしても日本にはその牧場が尠いし、ただ、犬舎の金網の中に閉ぢ込められて、展覧會や訓練會に引つ張り出されるだけでは、智能犬として生れて來た我々S犬種の意義がない事になりますからネ。
演ることは。拙劣粗雑でありませうけれど、私のこの舞臺出場が、演劇の興味的効果の助長たるのみに止まらず、シエパード犬向上普及のために聊かたりとも役立ち得ますならば、また存外の喜びとするところであります。

犬

犬を飼育する人間たちは、ジーガーとか、V賞とか、SG賞とか云つて騒ぎ廻り、喜んだり、憤慨したり嫉視したりしてをります。
私の主人なども、春の展覧會で私が好成績を勝ち得なかつたのをその日の健康状態のためだとして「武蔵山は今春場所の成績芳ばしくなかつたけれど、これは彼れ病気であつた故で、健康さへ恢復すれば、依然天下の横綱である。我がウインゴルフとても、コンデイシヨンさへ取り戻せば、これS犬界の武蔵山である」
などと負け惜みを云つてをります。

一體、さうした賞歴を私たちに持たせて得意がつたり、失望したりするのは人間たちだけで、私たち自身は、嬉しくも何ともありません。私たちが一番有難いと思ふのは、好きな食物を適度に給せられ、適度の運動と仕事を與へられ、主人一家の人々に適度に愛されること、それであります。
たかが私たち犬ふぜいのことで、萬物の霊長たる人間たちが、吠え合つたり、傷つけ合つたりすることは、滑稽でもあり、見苦しいことでもあり、大いに自重してもらひたいと思ふのであります。

終りに、私の勘ちやんとは、主人の義弟加藤勘二君であり、二十三歳、體高五尺七寸、獣医学校に通つてゐます。
私はこの勘ちやんなる人には、毎日食事を與へられ、朝夕の運動を施され訓練を励まされてゐるのであります(六月十五日記)。

柳蛙生筆記「ウインゴルフの遠吠え」より 昭和11年