作品名 女按摩雲霧お辰(浮世之写真人情世界 第廿五號収録)
作者 翠葉外史(恋菊園翠葉)
発行 日本舘本部 明治30年

明治期における狂犬病対策の説話(嘘です)。
いや、野犬に咬まれた時の容赦ない救急療法とか、ナカナカ興味深い内容です。
外国人のカタコト日本語描写も、この時代からあったんですねえ。

というか、メキシコ産の大型犬って何ぞ?

犬
山賀りん子狂犬に苦む圖(左脚に喰い付く白黒斑の物体が犬です)。

俯せば萌芽る野路の若草緑なし、仰げば紅雲靉(たなび)く、花王樹や、狂ふ胡蝶の愛らしく、花に戯る野面の風韻。
そゞろ心も浮きたちて、春風徐かに、綾羅(りょうら)の袖を拂へども、四方の景色は目も触れず、左の指端水晶の珠数捻ぐり右手に美しき花一束を提げつゝ、頸を低れて歩み來る令嬢は山賀りん子にて、姉の静子が変死の報を聞てよりは、世を味氣なく思ひつめ、既に一二度自殺を謀りしを清に認められ、厚き説諭に死を思ひ止まり、朝起きれば食事もなさず、梶谷の邸より、殆ど一里に近き北方村善行寺へ参詣するは静子の白骨を埋めある墳墓に向ひ満腔の悲哀を現し、香花を手向け、弔ふ心の殊勝には、住職日善も感涙に常にむせびける。

今日も平素に変らず夙に起きて従者もつれず、善行寺をさして來懸る田舎道、何處よりか現れけん、メキシゴ種の小牛とも見違へる一頭の狂犬、りん子の姿を見るより、輝々たる目を光らせ、炎も吐かん紅の耳まで裂けしと思るゝ口を開いて、鋭き牙を噛み鳴らし、ウゝ……ウ……と一声高く吼けつて、唐突におりんの右の袖を噛へける其恐ろしさ。

思ハずキヤツと叫んで後居に摚と打倒れしが、狂犬は容易くは噛みつかず、猶も凄く吼つて、一二度おりんの身邊を延ぐり顔手足等ベロリ〃と三四回嘗められしが、早や此時は、りん子は氣絶して人心持ちなく、痛痒を感ぜざりしが、憐れや狂犬の為めに左の太股を一咬みかまれ、アハヤ近世稀なる淑女を無惨にも、狂犬の餌食とする手に汗握る一刹那。
疾風の如くに走り来たりし、鬚髯逢々たる一外國人、右手に携へし太やかなる洋杖(ステッキ)にて、骨も砕けよと狂犬の頭部を打据へしに、狂犬は牙を鳴らして、外國人に飛つくを又一打ち續けざまに、洋杖の折れしまで、打ち伏せしに、遉がの猛けき狂犬も苦痛に耐へず、氣力衰へしか尾を巻き、畦道の方へ一目散に迯出す(にげだす)に、己れ憎き畜生……と外國人は叱咤して、一丁余りも追掛けしが、倒れし負傷美人の心元なしと思へば、直ちに引返し悶絶せしおりんを抱き起し
ポケツトより薬水の瓶を拿り出し、口に注入して介抱せし効果あつて、息吹かへせしが、身は鍾鬼の如き碧眼赤髯の大兵肥満の外國人に抱かれ居るに、溌と再び驚き、身体ブル〃と顫はして飛退くは、外國人は永らく日本に滞在の人と見へ、日本語に能く熟し、

「貴女……、モー恐怖事(こわいこと)ありません。貴女傷つけました犬、私し澤山打あります。彼方の山逃げて行きました。貴女気絶してあります、私薬進上直ぐ蘇生ります。
私澤山嬉しいです。けれども貴女足澤山負傷あります。
早く薬つけないと犬の毒……皆な〃、身体中廻ります。私それ……澤山心配……療治して上ます。モー少も心配ない。私……ドクトルあります。心配ない……」
と、進み寄り、閃々たる洋刀(ナイフ)を持つて太腿を、切らんとするに、おりんは、思はず知らずアツト叫んで踟蹰る(あとずさる)に、ドクトルは
「貴女……、恐いない。少し痛い我慢する宜敷……」と、不憫とは思へでも、手荒き治療をなさゞれば、生命に罹る一大事と勇を奮つておりんの身体を確と押へて、犬の噛つきたる負傷の部分を洋刀にて斫りとり、仮朋帯を施し、半ば生氣を失ふおりんを背に負ふて、三四町歩みける時、折よく通行の人力車夫、空車をしぼつて來りけるを認めしかば
「車夫……、此娘さん私屋敷まで乗せる宜敷……」
車夫は「ハイ旦那、何處です」
「山の十八番です。病院です……」
車夫とドクトルの両人は、苦痛に悩むおりんを漸く車に乗せて、山手を指して急がせたり。

山手拾八番舘の舘主は米國ヲハイヲ洲のひとにして、元と海軍に籍を置き、其司どる職務は医学士なれば、海軍を辞して後、日本に來り八年以前より横濱英吉利海軍病院の院長となりし人なれど、今は何行へも勤めず獨立病院を設立して、専ら慈善を行ふを此上なき楽とする、ジヨージ、エルボンと呼ぶ名医なり。

今日しも郊外散歩を試みなんと、本牧岬界隈を徜徉(しょうよう)し、其帰るに、圖りなくも、おりんの遭難を救ひ、腕車に乗せて今しも居舘に帰り來て、おりんを一等室に入れ、自ら亦た手厚き治療を施せしかば、元より軽きと言ふにあらねども、重傷と言ふ程にもあらざれば、大に精神沈まり、痛みも稍薄らぎし容子を見て、医学士エルボンは、大に喜び
「貴嬢、モー大丈夫あります。私安心しました。貴嬢宅……私から知せて上ます。何處ありますか……」と優しく問はれ、おりんは寝臺の上にて充分厚意を謝し、目下伊勢山の梶谷の扣邸(ひかえてい)に寄寓する趣きを話せしかば、エルボンは常(よろこ)ばし氣に
「アゝ其様ですか、……只今療治する前、興奮剤進上します……」と言つゝ……ボーイ……、ボーイ……と呼ばはれば
「ハイ……」と答へて駈來る給仕人は扉を開き、寝臺の上のおりんを見るより、甚ゝ驚き顔色極めて青し。

(続きません)