中国で漢奸狩り(親日派の粛清)が頻発していた昭和12年9月、「黄少将が処刑された」という噂話が伝えられます。
幸いにも誤報だったのですが、その後黄瀛氏の消息はぷっつりと途絶えました。

彼が率いる特種通信隊について報じられたのは、南京侵攻後のことです。

 

【中国特種通信隊の壊滅】

昭和12年10月、日本軍は杭州湾に上陸。背後を衝かれて潰走する中国軍を追い、南京へ侵攻します。
南京交輜学校を占拠した日本軍が見たのは、もぬけの空となった特種通信隊伝令犬訓練所でした。

帝國ノ犬達-中国軍用犬2
放棄された直後の南京中央陸軍軍犬所

 

上旬南京に迫り十三日日の丸の雪崩を以て入城した。未だ城壁外には便衣の敗残兵が多數に倒れてゐる。十四日朝、城内東端國民政府附近より陸軍軍官學校附近一帯には、正服の支那兵が逃げ場を失ひ右往左往してゐる。又城内西端陸軍交輜學校(通信自動車學校)には立派なる軍犬育成所(中央陸軍々犬所)が設けられてゐる。
民國二十五年(昭和十年)建設のもので、我部隊の一部は該學校を馬繋場として一ヶ月餘使用した。犬舎は約七○頭を収容し得べく、周囲には白壁を巡らし、日當りもよく、各個室は高さ約一米、長さ四米の金網張(小指大鉄線)にて區畫され、各房床は斜面を附し、コンクリート製である。
又産室並幼犬育成舎ありて學生教育用教室もあり、標本材料室、薬室、診療室等一通りの設備あり。訓練用具も内地のものと略同様にして、板壁、高飛、濠の飛越設備あり。該軍犬所の建築場は鳩と合同なるも主として犬舎に重點を置き整備しあり。
最近迄犬の存在せし形跡あるも、仔犬一匹も居ない。周囲の桑畑内には支那兵の死體が散在して、雑犬が黒山の如く群がつて、もう臀部の半面を食尽してをる。雑犬中にはシエパード種の仔犬と思はるゝもの相當に混在してゐる様に思はれた。
市内を巡視すると小路より急にシエパードが尾を振つて尾行して來る。馬繋場には既にニ、三名の兵が荒縄を以て優秀なるシエパード種成犬を繋伴してをるものもある。尋ねて見ると、此附近よりひろつて來たと言ふことである。
斯の如く、該學校付近には相當の軍犬が散在して、恐らく學校のものが逃げたか逃がしたかに違ひないと思つた。訓練の状況を試むるも、言葉が異るので何等反應がないが、通譯に頼んで座れ、起て、飛べ等の軍用語を繰り返すと先づ理解して應ずるものもあつた。
然し何分にも食物に飢えたと見えて、昼食時になれば炊事場や飯盒の置場に集合し離れない状況である。
而して體格は大型シエパードのもの多く、殊に栄養不良、被毛の光澤を失してゐるから劣悪の如く感じたが、中には實に鋭敏なる、而も體格強壮、四肢頑強、歩行軽快、後肢の踏込良好のものを散見した。
然れども、過半數は長腰にして歩様に當り著しく後躯動揺して力なく、又前肢のX状及び趾の過長臥過のもの、或は後肢の屈曲過度にして下肢に力乏しきもの等相當あり。
要するに近親蕃殖上の欠陥、並飼養管理の不適、運動不足に基因する體質尫弱なるもの過半數を占む。
以上述べたるシエパード種の體格、素質、訓練程度並に犬舎建設状態より判断せば、最近一、二年前より他國に模擬して一通りの軍犬に對する備へをなしたるに過ぎずして、今回の戰闘に於て利用せる程度に至らざりしものと思考せる。又實際第一線に於て(中国軍)軍犬の携行を目撃せるものなく、上海ー南京間の大都市には一匹も存在せず、南京城内にて始めて多數のシエパード種を見たる状態なり」
○○部隊附陸軍獣醫少佐 立原十六氏『南京に於ける支那軍用犬に就て(昭和13年)』より

 

こうして黄瀛の伝令犬部隊は壊滅しますが、国民党軍は軍用犬部隊の再編成に取り掛かりました。

帝國ノ犬達-中国軍用犬3
中国陸軍交輜学校特殊通信隊軍用犬舎(南京占領時、日本軍部隊が撮影したもの)

 

斯の中原會戰の直後でしたが、捕虜敵將官に支那側にも軍用犬を使用して居るか否かを尋ねてみましたら
『居ることは居るが日本軍程多く使われて居らぬ。私の師團では犬使ひが居ないから使つた事が無いが、西安本部には上海から來た犬使ひが居て仕込んで居るから其の内數も殖へるだらう。片足を負傷した日本狗が一匹捕虜になつて西安に居るが、種犬として使われることになるだらう』と云つて居りました。
本當かどうかわかりませんが、彼氏捕虜犬の所は得意氣に話して居ましたが、日本狗とはシエパードの事です。大概の支那人はシエパードの事を日本狗と云つて居ます。


中山博資『帰還者とエアデールを語る(昭和18年)』より

 

【国民党軍軍犬局の設立計画】

昭和20年、日本は敗北。
毛沢東の八路軍と蒋介石の国民党軍は、戦闘終結と同時に日本軍が遺棄していった犬達の接収を開始しました。
隣の満洲国でも、関東軍軍犬育成所を占拠した八路軍は徹底的に軍用犬をかき集めます。
しかし、主人と違って「敗戦」や「降伏」を理解できない日本軍犬達は、かつての敵に対する戦意を失おうとしませんでした。
中国語のコマンドに従わない“捕虜”達の運命は、悲惨なものと決まっています。日本軍犬の扱いに困り、結局は殺処分したというケースもあったのだとか。

戦後、国民党軍は数十頭規模の軍用犬部隊を再編成し、共産党軍が軍用犬部隊の本格編成に着手したのは1960年代になってからのことです。

台湾軍も日本でシェパードを調達しており、戦後日本生まれの台湾軍用犬達は、海を挟んで大陸の軍用犬と対峙しました。
 
国民党軍は軍用犬部隊再編に関して、日本人の手を借りる計画をしていたとのこと。錦西県副参事官で満洲軍用犬協会メンバーだった一水公道氏は、満洲崩壊直後のことを下記のように記しています。
 
終戦後指名手配で東西南北に逃げ廻っていたある日、園部政光氏から国府空軍の少佐クラスの人と接触ができ、いよいよ軍犬局を作るようになったから力を貸して欲しいとのことで、ソ連、中共の指名手配を逃れる一手段にもなろうかという気持ちも走り、「よしやろう」ということにしてその空軍将校にも松本さん(※日活脚本家の松本有義。満洲軍用犬協会登録部長)のアジトで会うことにした。
そして松本さんを軍犬局長該当者に模して局の編成を先ず作ることにした。園部氏は局の訓練部長で大佐相当、私は総務部長。園部氏と同格の案で、松本さんは少将担当として局案を練り上げたものである。
空軍将校にも松本さん宅で会いスキ焼をご馳走したものであった。話は極くスムーズかつ、速やかに進みそうなので、昭和二十一年春には持ち上がってきた日本への引揚も場合には無視して、国府のために軍犬局を作り、本来の犬の行政に専念したいというのが私共の心に盟った申し合せみたいなものであった。
その後空軍将校からの連絡は自然にうとくなり、私共が接待に使った金などについても素知らぬ風であった。お互いの間に「あてにならない」という不信の念が昂じ始めた。
日本人の引揚は澎海海岸の名港といわれたコロ島港が選ばれた。奉天(今の瀋陽)からの引揚が終了すると、次は当然新京(当時の国都)ということになり引揚者の一切の管理事務は奉天地区から派遣されたものが行なっていたが、今度は新京と交替ということになり交通部簡任三時間柳田桃太郎氏(後の門司市長、現在の参議院議員)がコロ島引揚弁事処長、筆者が副処長ということで派遣されることになった。
園部氏は依然軍犬局案を確信している風であり、引揚についても態度は消極的に見えた。筆者も後ろ髪を引かれる思いで、奉天との交替要員約四〇〇名と共にコロ島に向かった。前記した渡辺宅平氏を帯同することになったのもこの時である。
結局軍犬局は不調に終り、松本夫妻宅には筆者の郷里の後輩福間という青年医師が京都大学で学位研修をしているのを世話して同居して貰うことになったが、後日松本さんがガンにかかられた時随分力になって呉れたものと確信している。
 
一水公道『国滅びる頃の満州国S犬界人脈の思い出(昭和48年)』より
 
満洲軍用犬協会や満鉄、満州国税関、華北交通社などの警備犬ハンドラーも帰国の途についたため、中華民国軍の軍犬部隊がどのように再建されたのかは不明です。
国共内戦の経過を見れば、彼らは大陸に残らずに正解だったのでしょう。
 

特種通信隊長だった黄瀛も、苛酷な人生を歩む事となります。
戦争を生き抜いた黄氏は、戦後の南京にて草野心平と再会。蒋介石に軍事顧問として迎えられた辻正信参謀と接見したり、漢奸と見做されていた李香蘭が日本人であると証言し、帰国に協力したのも黄氏でした。
日本との戦いが終わった中国では、やがて国共内戦が始まります。
国民党軍少将だった黄氏は台湾への脱出に失敗。共産党によって拘束され、重労働の刑に処せられました。
其の後は共産党軍への転向、文化大革命での11年に亘る拘禁生活を経て日本文学の教授となり、2005年に亡くなるまで何度か再来日もされていたとか。

幻となった日中軍用犬部隊の交流計画を、老境の氏が回想することはあったのでしょうか。