「開業獸醫者流の團体は如何なる分子の綜合より成れるやを知らんと欲せバ、試験規則發布前、即ち徳川治世に遡て講究せざるべからず。
該時伯樂と稱す獸畜の治療等に從事せし者の多くは、世襲の家にあらざれば、馬商、馬乗、乗馬丁、若くは馬好き。
尤も甚だしきに至りては賭博者其他一二種類の等者進化して伯樂と自称し、自由に其業を營みたりて、下つて明治の治世に至り未だ試験規則を發布せずと雖も、獸醫改良の必要を認め、獸醫學校を創設して真性獸醫の種子を蕃殖し、幾年ならずして試験規則を發布せば、之れ伯樂者流の一大驚愕を感じ初めて淘汰の端緒を開きざる者にして、各府縣に於ては爲めに學校を興し講習所を設け、舊伯樂其他廣く有志者を募りて就學せしめ、其意に應じ多くは毎歳之に改良を加へ、今日まで繼續して獸醫の進化を促したり。
 然りと雖も、諸學校講習所其他多くハ、世襲伯樂中の品位賤劣ならざる者を除くの外、多分劣等より進化して獸醫の名詞を冠したる者詳言せば、假令獸醫には熟達するも其位地を高むるに欠くべからざる所の品位賤劣にして、即ち無教育なるにあり人或は大に迷惑を感ずる者もあらんなれども、統計上より論ずる時は又然らざるを得ず」
飛田登能衛『獸醫の位置低きは何ぞ(明治27年)』より


帝國ノ犬達-麻布獣医


統一された専門教育機関や資格審査すらなく、自称医者が容易に開業でき、アヤシゲな民間療法や薬草・漢方頼りだった江戸時代の獣医学。
幕末の開国により、日本の獣医学は新世代への移行を始めました。

明治政府は、西洋列強に対抗するため富国強兵・殖産興業政策に着手。
国家を挙げて軍馬増産、馬匹改良、畜産や綿羊を拡大した結果、「家畜の健康管理者」が大量に必要となりました。国際化とともに侵入した獣疫を前に、江戸時代から受け継がれた漢方医学なんか全く役に立ちません。
欧米から農事指導者や獣医師が招聘され、日本は技術知識の習得に乗り出します。
軍馬の大量配備に踏み切った日本陸軍も、アウギュスト・アンゴーらを招いて馬医教育にあたらせました。

こうして、軍馬の配備や畜産の拡大と共に日本の獣医学は飛躍的に発展。明治20年代までに獣医学校が次々と開設され、多くの若者が入学しました。
西洋の最新知識を学んだ新世代の獣医師が誕生したのです。

獣医学校を卒業した若き獣医師たちは各地で開業するのですが、それまで地域に根付いていた旧世代の馬医は彼らと対立。
しかし、江戸時代の治療法では畜産業の拡大に対応できず、科学的な治療法や防疫の知識を持つ新世代の獣医にその座を譲るしかありませんでした。

帝國ノ犬達-東京獣医専門学校

獣医界が世代交代して行く中で、「ペット医療」「畜犬行政」という新たな分野へ進出する獣医師が現れます。
大きな影響を与えた要因が、狂犬病対策と洋犬の渡来でした。

島国という有利な地理的条件を備えながら、我が国の狂犬病対策は苦戦を強いられます。
最大の原因は放し飼いと捨て犬による野犬の増加。江戸時代は高嶺の花だった洋犬が庶民に飼えるペットとなり、愛犬家の数は激増していきます。
そのような顧客が生れたことで、犬猫病院を開業する獣医師が現れました。

狂犬病対策に奔走する行政機関が頼ったのも、犬猫を専門に診る獣医師たちでした。
狂犬病感染源である野犬の数を減らす手段は、飼育者のマナー向上と野犬駆除しかありません。
行政機関は畜犬取締規則によって「畜犬(ペット)」と「野犬」を区分。畜犬税による飼育統制の抑制と、野犬駆除による被害の減少へ乗出しました。
狂犬病感染の検査をはじめ、、行政と獣医師がタッグを組んだ畜犬行政がスタートしたのです。

獣医師がいない山間部の犬はどうだったのかといいますと、昭和に入っても民間療法頼りの状態でした。

「現在に於ても山間獵師は犬の病氣には所謂草根木皮を以て治療し、猪に依る傷口等も獵師が手縫いに治して居るものである。
例へば、寄生蟲駆除には、ざくろの根を煎じてのませ、ヂステンパーには蝮酒、眼の傷には馬ぶどうの枝の汁、其の他には熊の膽等を與へて結構治癒さして居る。
最奥の山間獵師の犬病氣手當法をよく調査せば、昔の民間治療法がやゝ判明することと思はれる。秋田の大舘、土佐の高知等には、昔の犬の手當法を今日もなして居る者あるも、秘傳として中々教へて呉れぬ。
土佐なぞでは心臓の弱つた犬には極く古い乾大根を煎じて飲ませて居り、特効あると實験されて居る。
今後所謂郷土研究と相俟つて、此の方面の研究を進める必要があらう」
日本犬保存会 齋藤弘『犬の諸病薬方の傳』より 昭和8年

近代日本の愛犬家を苦しめたのが、西洋獣医学ですら太刀打ちできなかったジステンパー、フィラリア、狂犬病の三大疾病。
意外にも、一番初めに対抗策を確立できたのが狂犬病でした。

明治28年、長崎県一帯で狂犬病が大流行します。
県側による必死の封じ込め作戦も効果はナシ。そこで、医療関係者はイチかバチかの強行策に踏み切りました。
パスツール式狂犬病豫防注射を、ぶっつけ本番で人間に対しておこなったのです。
人体実験に等しい行為でしたが、これによって長崎の狂犬病発症者は激減。日本人は狂犬病への対抗策を手に入れました。
以降、警察によって飼育登録と畜犬税および狂犬病豫防注射を紐づける制度が確立されます(畜犬行政が警察から保健所へ移管されたのは、昭和26年の狂犬病予防法制定時)。
問題は、畜犬税納付を嫌がる飼主が多かったこと。脱税犬は狂犬病予防注射も受けられず、狂犬病感染源が潜在化するという問題を惹き起こしてしまいました。
放し飼いや捨て犬は減る気配がなく、狂犬病の根絶には長い年月を要することとなります。

狂犬病に続いて、感染ルートすら不明だったジステンパーやフィラリアの研究も着手されます。
獣医学の発達は、恐ろしい病気をひとつひとつ克服していきました。それによって、愛犬家も安心して犬を飼うことが出来るようになったのです。
大正時代になると狩猟雑誌などに愛犬の健康相談コーナーが設けられ、獣医師によるリモート問診が始まっています。犬猫病院の数も増え、手軽に診察を受けられる環境も整っていきましtあ。

帝國ノ犬達-獣医
狩猟雑誌に掲載された猟犬の健康相談コーナー。大正14年

犬猫病院の記録が目立ち始めるのは大正時代から。輸入される洋犬の種類が爆発的に増加したことで、開業する獣医師も増えたのです。
これに打撃を与えたのが大正12年の関東大震災でした。せっかく育ちはじめた関東犬界は、国際港横浜もろとも壊滅してしまったのです。
日本犬界の中心は一時的に関西方面へ移行。国際港神戸には続々と名犬が上陸し、「関東の人間が審査し、関西の犬が受賞する」と揶揄される状況へ至りました。

東葛家畜病院亀戸分院『診察簿 大正十二年六月二十一日以降』より、大正12年9月1日の関東大震災を挟んだ8月26日と9月9日の診察記録。同院では震災直後からペット診療や狂犬病予防注射を再開、被災した飼主たちを支えました。

昭和に入ると、更に多数の犬猫病院が開業。昭和10年前後にはトリマー業務も一般化し、アメリカで資格取得したトリマーさんも現れました。
それらのペット業界を支えるのは膨大な数の愛犬家たち。当時の日本に、巨大な畜犬界が構築されていた証拠でもありますね。
愛犬家、ペット商、獣医師たちは犬界ネットワークを介して飼育訓練や健康管理の知識を共有し、畜犬団体は海外書籍を翻訳して最新ニュースを伝え、軍犬報国運動によって陸軍の軍犬訓練技術も民間へ拡散。
愛犬を亡くした平岩米吉の直訴により帝大ではフヰラリア研究會も発足し、北里研究所ではジステンパー治療の研究も進められます。
動物愛護運動の拡大に伴い、動物愛護団体、警察、獣医師が連携して犬の里親マーケットも開催されるようになりました。
明治、大正という揺籃期を経て、昭和犬界は凄まじい勢いで発展。人々が安心して犬を飼うことができるのは、それを支えたペット業界や獣医界が存在したからこそです。

「犬猫病院が現れたのは戦後になってから」なんて通説は、何の根拠もないホラ話です。
要するに、調べていないのを誤魔化しているだけでしょう?
戦前の東京エリアに限定しても、こんなにたくさんの犬猫病院が在るじゃないですか↓

帝國ノ犬達-有名獣医
昭和12年の『東京有名獸醫一覧』より一部抜粋。
画像はあくまで関東エリア限定です。関西方面でもこれに匹敵する数の犬猫病院がありました。

日中戦争が始まるまでに、南樺太、朝鮮半島、台湾といった外地犬界、そして日本犬界の双生児たる満州国犬界を含めた近代日本犬界は、巨大な規模へ発達。
「戦前の日本人は犬の知識がない」どころか、現代犬界を遥かに凌駕する規模を誇っていたのです。
戦前の愛犬家達は、海外の最新知識を吸収しつつ豊かなペット文化を構築しました。それを推進し、やがて破滅へと導いたのが、15年に亘る戦争の時代です。

昭和6年、満州事変勃発と同時に日本軍は大量の軍犬を実戦投入します。
戦時の15年間に亘って軍犬の大規模配備を可能としたのは、調達資源母体たる銃後ペット界の分厚い基盤があったからこそ。
ドイツから遙か遠い東洋の島国で、何万頭ものシェパードが飼われていた理由を考えたことがありますか?
「日本人に犬の知識がなかった」というなら、それらの洋犬を誰が輸入し、誰が繁殖し、誰が登録し、誰が流通し、誰が育て、誰が訓練し、誰が治療していたのでしょう?
軍部にはそんな予算や時間や人手はありませんよ。
民間シェパードの購買調達を維持するためには、シェパードの飼育者を増やす必要があります。帝国軍用犬協会を介し、陸軍の有する高度な飼育訓練、交配、医療衛生の知識が民間へ広められました。
民間の愛犬家が育て上げたシェパードは、仲介窓口である帝国軍用犬協会を介して「大手就職先」である軍部へ売却するシステムが構築されます(これを「軍犬報国運動」と呼びました)。
シェパード飼育ブームの到来により、戦時ペット界は一時的な活況を呈したのです。

帝國ノ犬達-トリマー
戦前のペットショップによるトリミング業務

残念ながら、戦時体制下でペット業界は衰退していきます。戦争末期には犬の健康を案じる余裕すらなくなっていました。
飼糧の確保どころか人間の食糧さえ配給という末期状況へ陥ると、犬を飼う事自体が白眼視されてしまったのです。
また、軍馬や軍犬の健康管理を担うため、獣医師たちは次々と戦地へと出征。それに伴う狂犬病対策の不備と食糧不足の憤りはペットへと向けられます。

昭和13年、軍需原皮の確保を急ぐ商工省は野犬毛皮を統制対象としました。昭和14年の節米運動を機に、政治家や農林省の官僚が「無駄飯を食む駄犬は毛皮にしてしまえ」と主張。戦時体制に加担したマスコミは「畜犬撲滅」を新聞ラジオで唱え、扇動された一般大衆は隣近所の愛犬家を「非国民」と罵ります。
サイパン玉砕により絶対国防圏が突破されると、銃後犬界の状況は更に悪化しました。
物資不足が深刻化した昭和19年末、厚生省と軍需省は全国の知事あてに「畜犬献納」を通達。20年3月にかけて、夥しい数のペットが毛皮目的で殺処分されました。

愛犬の健やかな暮らしを願う。
そんなささやかな幸せですら、戦時下の日本では許されなかったのです。

戦況が悪化しつつあった昭和18年、東京の亀戸で開業していた犬猫病院の狂犬病予防注射受付簿。
まだ個々の愛犬家はペットの飼育を続けており、名簿からもシェパードや日本犬に混じってポメラニアンや雑種犬などが確認できます。

このジェノサイドに何かしらの成果を求めるとすれば、獣医師の出征で機能不全となった狂犬病対策に貢献したこと位でしょうか。
事実、畜犬献納運動が始まる前は「帝都だけでも今年二月から九月末までに被害者七百十四名、内死亡十三名此他千葉神奈川等を合する時は更に驚くべき數字に上り、實に近來にない大流行の厄年となつたのである。
勿論此數字の内には單なる咬傷によるものも多數含まれてゐるが、兎に角恐るべき状況にしていやしくも犬を飼育するものはたゞちに豫防注射は勿論、あらゆる對策を講じて一日も早く之れが終息を期さねばならないのは云ふまでもない事である。今や時局は愈々急。帝都空襲が必至を叫ばれてゐる折から之れが益々猖獗を極めんか、實に想像するに戰慄を禁じ得ないのである(武蔵野生『軍用犬と狂犬病(附輸送問題)』より 昭和19年)」という惨状でしたが、殺処分の後は感染犬も94頭にまで激減。敗戦時は24頭にまで抑え込まれました。

しかし戦後復興が進んだ昭和22年から、狂犬病は再び猛威を振るいはじめます。
昭和23年には141頭、24年には614頭、25年には867頭が感染、1866人が噛まれて52人が死亡するという、26年振りの大流行となりました。

「終戰の年には日本全國の犬の數は非常に少なくなつて居ました。戰争中軍犬以外は殺して毛皮を軍需に用い、又食料の節約を圖つた結果です。
ところが終戰後の短期間の間に、犬は物凄い勢で増え、忽ち戰争前と同じ位になつたのです。現在鑑札を持つている犬が百十萬頭程居りますから、本當の犬の數は二百萬頭前後とみて良いでしょう。終戰後の社會不安で泥棒よけに番犬を飼う人がふえたことが大きな理由で、近頃の食糧事情の好転が犬の増加に更に拍車をかけたわけです。ところで戰争後の社會は相當秩序が乱れておりましたし、何事も闇が盛んで犬の飼育についても正規の届出をしないで飼う人が多く、それらの人は當然狂犬病の豫防注射を受けさせないので狂犬病發生の温床となつたのです。そうして狂犬病が出て、犬の放し飼がとめられても平氣で野放しにしておき、社會の迷惑などお構い無しという状態だつたのです。
今迄出た狂犬の七割迄がこの無届かつ未注射の犬で、殘りの三割が野犬や未注射の届出犬でした。要するに犬を飼つている人たちの多くが狂犬病のことに餘り關心が無かつた結果、このような不幸な結果を來したと云うことができましよう」
厚生省狂犬病豫防協會 厚生技官徳富剛二郎『狂犬病の話』より 昭和26年



日本人と犬との関係は、1万年にも亘ります。
その間、この島国の歴史は大きな変化を繰返して来ました。
日本人と犬との関係も同じです。

「戦前の日本人は~」「戦後にアメリカから~」などとしたり顔で語る人々によって、我が国の大切な犬の歴史は歪められてきました。
ああいう思考停止は止めにして、日本人と犬が辿って来た途をきちんと振返ってみましょう。

戦後復興期の愛犬家も、
戦時中の愛犬家も、
戦前の愛犬家も、
大正の愛犬家も、
明治の愛犬家も、
江戸時代の愛犬家も、
現代の愛犬家と同じように、愛犬の健康を願っていたのですから。
(現在作成中です)