戦前の台湾でたくさんの畜犬団体と愛犬家が活動していた史実は、朝鮮・台湾編で解説したとおり。
台湾犬界は内地犬界とも良好な関係を構築していました。
その一方で、酷い仕打ちを受けるケースもあったのです。

台湾の愛犬家を悩ませていた、日本の悪徳ペット商たちに関する記録を。



臺湾支部がやつと産声を挙げやうとしてゐます。
臺湾は御承知の通りの熱帯にて、熱帯地獨特の軍用犬を作らねばならぬ使命を帯びております。
然るに未だその数も少なく、又殆んどシエパードとしての名のみにて實に恥しき次第です。
こうした発展の遅々たるや、飼育管理も幼稚乍ら気候風土に左右されてゐる事と察せられますが、モツト〃大きな事が発展阻害の一大原因をなしてゐる事を御記憶願上げます。

臺湾のシエパードは内地……就中便船の関係上九州方面及阪神地方に限られてゐますが、旅行その他の序に買つて来るもの又は信用ある蕃殖者から分譲されるのは、先づ間違ひなきものとして、過去半年に私が見聞した事の二、三を述べ、内地の先輩諸兄の御耳に達し度いと存じまして……。



一流名犬の仔だ。
値段は名犬の仔にしては此なに安いのは今後果して手に入るかどうかわからない。全く掘出物だ。
さあ本人は喜ぶまい事か、早速代金を送つて愛犬の成長を一日千秋の思ひソレコソ引伸し度い位の熱中振り。
犬舎としてもわざ〃一軒の人家を借り受けて犬様々の育て振り。
大した病気もなく名犬の仔は相當な犬となつた。
シエパード熱が段々と出て来るにつれ、心ある人は見に行つたり等。
然るに何ぞ計らん、自称名犬に三本もの欠歯あり、値段はと聞けば安かつた筈の犬が吃驚する程高い。
而もシエパードの稟性、體型一通りの知識を吹込まれた愛犬家の失望。



血統書付との事に安心して買つたが、血統書は送つて来ない。
後から何度催促しても只今手続中とか何や彼や、仕舞にはとうとうウヤムヤ……。



〇〇方面から這入つた犬に所謂〇〇〇なるものがある。
胴のつまつた眼玉のグリグリ出目金見た様な、之を立派な犬として、血統書も付く約束なるも、例に依つて送らばこそ、我が大KVの堂々たる血統書を取る事が出来ない。
終りには返答につまつて「御気に入らねば返してもらつてもよい」と。
一膳一椀でも一緒に喰つた愛犬、而も書状の往復には二週間乃至三週間を要する為とて、それやこれやで一月経ち、二月経ち、次第に家人には馴れて来る。
―こうした犬を只気に入らねば返して呉れとの一事でどうしてそう容易く返され様か?
海上遙か何百里、誰一人知つた人もない一人ボツチにて遊ぶ可き一木一草もない殺風景な船の上に、小さな箱に入れられて、いやな浪にゆられながら、夜を日につぐ事何日、淋しさとやるせなさにキヤン〃と幾度鳴いた事だらう。
そうしてやつと飼主の手に渡つて次第に馴れて来た。
それをどうして今更手離す事が出来よう。
大和民族の血を受けた、併も吾人大帝犬の會員として、人情はそう他安く返送さる可きでない。
こうした無邪気な愛犬の為には不本意ながら……。



犬界の王者を以て自ら任ずる、あの颯爽たる體型をもつシエパードが欲しい欲しいと寝言の様に言つてゐる時、申分なき犬のある事を紹介された書状には、顔貌、目の動き、耳の立ち具合、背の恰好、胸の張り方、尾の垂れ具合、何一つの欠點なく、背黒にて而も訓練はKV型にて基本、應用凡て済、声符、視符何れにしても可、おまけに血統は〇〇〇フオン〇〇〇(之れはウツヅ直仔の名犬)、牝犬はアメリカ産の〇〇〇、値段は最低〇〇〇圓、写真まで送つて来てゐる。
あまつさへ例によつて御気に入らねば返してもらつて差支へないと付記してある。
少しフルイにかけても大した間違いはあるまい。ようし、悪ければ返す……送金も普通ではまどろつこしい。
電報為替だ!

大阪商船の蓬莱丸は、やがて基隆埠頭に徐々に其の勇姿を現はした。
永い〃基隆桟橋も足音軽く、恰も久しく別れてゐた恋人にでも逢ふ心地。さて写真の主は如何なる美人か、否どんな名犬か。
やがて喧しい検査も無事済んで、一日千秋の恋人の手を握つた時、嗚呼百年の恋も何とかと、スグ様目立つ栄養不良、而も一種の褪色犬だ。
背黒と言つてもほんとうに背中に黒毛がある許り。ブラツク・タンではなくホワイト・ブラツク?
尾毛は抜けて、小さく、飛節の上まで。
その貧弱な事、おまけに巻グセあり。前肢に佝僂病的湾曲さへある。
こうした一部の観察のみにても種牡の〇〇〇が泣くだらう。
期待の半面に失望の怨は大きい。
併し彼には訓練済みと言ふ大眼目が残されてゐる。
せめてものなぐさめに出来る丈けの長所を捕へながら……、と。
併し訓練に至つても先づ前言に大同小異。

其の後、序にその旨申送つた處「尾部の曲つた點について、どんな名犬でも写真に撮つてゐる様な尾を持つたのは一匹もいない。
あれは昔型の犬で、最近では少し尾が巻いてゐないとシエパードらしくない」と。

茲まで徹底すれば、もう笑ふ事も出来ない。
シユテフアニツツ(獨逸シェパード犬協會マックス・フォン・シュテファニッツ総裁)のシエパード犬は第一番に落第だ。會誌の巻末を飾るアラゆる名犬も、ハダシで逃げ出さなければならない。
内地では尾に一寸癖のある犬が良い時、臺湾では薙刀型の尾の犬で、矢張り駄犬計りです。
内地の兄様方の権威者(?)がこんな事を教へられると、正直な弟はほんとうにしますよ。

極最近の事、我等の同好會から神戸の〇〇〇に注文して十数頭の犬が参りました。
みな注文者に配つたのですが、其の内には見知らぬ人が行けば死物ぐるひで逃げ出す名犬が居ります。
而も六ヶ月を過ぎた犬で。
之も矢張りシエパードでせうか。軍用犬でせうか。

臺湾はシエパードのカスの捨て處と違ひます。
内地の兄様、姉様、どうぞ純真な臺湾の弟をヒネクレない様に育てゝ下さい。
子供の腕をネヂ上げる様な事はなさらないで下さい。〇〇はいざ知らず、そうした不純な會員が一人でも吾が大帝犬の中に居られては、正しく大帝犬の恥辱です。
臺湾では今内臺人一體となつて、非常時南方の護、吾人の臺湾の為に軍犬報國に一路邁進してをります。
熱心なる會員の中にはあらゆる難関を見事突破して、十数頭の仔犬を挙げてゐます。
世界で一番雨の多い基隆にも、又臺北にも、臺中、臺南にも。

そしてやつと目が開くか開かない内に、早聞きなれぬ声に親のマネして吠えてゐます。時にはウルゝと威嚇もしてゐます。
五六ヶ月もして人の足音に逃げ出す様な内地の名犬とは少し違ふ様です。

大江山に鬼が居たのは昔の事、臺湾には現在蕃人(山岳民族。高砂族のこと)が居ります。
さき頃、霧社事件のモーナルダオ(セデック族マヘボ社蕃による武装蜂起事件。モーナル・ダオはマヘボ社の頭目)をよも御忘れではないでせう。

北海道には熊狩のアイヌ犬が居る如く、臺湾には猪狩に使ふ生蕃犬(フォルモサ・マウンテンドッグ)が居ます。
今内地から来てゐる様なシエパードですと一ペンに噛み殺されて了ひます。
又あの蕃人に出合したらどうでせう。防御衣よりも物凄い風體、面魂に一ぺんに参つて、尻尾を肢に一目散とくるでせう。
シユテフアニツツが泣きます。
シエパードが泣きます。
今後何卒警戒心なき犬、シヤイな犬を臺湾の方に売りつけないで下さい。
再び言ひます。
臺湾はシエパードのカスの捨て處ではありませんと。

一部の兄様や姉様、又は〇〇の心なき人の為には臺湾犬界は余程かきみだされてゐます。
名犬をとは言ひません。
シエパードらしきシエパードを相當の代価で御譲り下さるなら安心して御願も出来ます。
キツト〃発展も早くなる事でせう。

内地のお兄様、どうぞ産れた計りの純真な弟を、このまゝ真すぐに育んで下さい。
色々なインチキをされるとすぐ覚えてしまいひます。

最後に昨年六月、芽もない臺湾軍犬界の為に覚醒の第一声を挙げられた砲兵学校の高橋力氏、常に臺湾犬界の先覚者に萬腔の敬意を表すると共に、一年を経た今日、早くも百頭を越える軍用犬を擁し、百に余る會員を集めて目出度く支部設立の運びに至つた事を御知らせ申上て筆を擱きます。

木下早夫「内地の諸兄に御願ひ 臺湾の弟より」 昭和10年

読むだけで気の毒になってきますね。
軍犬報國運動は美談ばかりではなく、このような詐欺行為も横行していました。
警察沙汰に発展したのが、死亡犬の血統書を横流しして利益を得たアンゴラウサギ事件。
似たような行為は、帝國軍用犬協會、日本シェパード犬協會双方で何度も噂にのぼりました。詐欺が発覚して除名された人も少なくありません。
優良なペット店やブリーダーが増加すると共に、それまで跳梁跋扈していた悪徳ペット商は駆逐されていきましした。
商売あがったりとなった彼等は、日本の外へターゲットを移します。

狙われたのは、海の向こうに浮ぶ台湾でした。

各地に支部を開設していた帝國軍用犬協會のネットワークにより、詐欺行為への注意喚起は共有されていました。
帝國軍用犬協會自身も、KS(帝國畜犬商組合)を結成して悪徳業者の排除に動きました。
しかし、詐欺行為はナカナカ根絶できなかった様ですね。

因みに、同じ様な事例はヨーロッパから日本へ輸入される犬でも起きていました。
途中寄港地で名犬がすり替えられ、血統書と「身代わりの犬」が神戸や横浜に上陸するという具合に。