交戰中狗を役して傷兵を救ふことは、歐洲人の既に久しく試驗せる所なり。 馬をして人を載せ車を輓かしめ、鳩をして書信を傳へしむる等、動物の特長を利用するものにして、現に軍陣の必須物たり。
然らば即ち軍隊の他日大いに狗を用ゐるに至らんも亦知るべからず。
明治四十五年六月

陸軍省醫務局長 陸軍軍醫總監 森林太郎

 

この森さんは、あの文豪の森さんです。
森鴎外と犬といえば、『阿部一族』に犬牽きの五助とか出ていましたね。あとはレオニイド・アンドレイエフの『犬』を邦訳していたりもします。
ただ、レスキュー犬の知識があったとは知りませんでした。

さて、我が国のレスキュー犬史はどうなのでしょうか?
たぶん、例によって例の如く「外国の畜犬史は詳しく語れるのに、自国の話になったら黙り込む」本末転倒状態になっているんだろうなあ。
そう思ってネットを検索したらその通りだったので、自分で史料を漁る派目になりました。

帝國ノ犬達-捜索
負傷兵発見を報告するため、その帽子を咥えて救助隊の元へ急ぐ衛生犬アルノ號。
アルノは日本軍所属ではなく民間人のペットです(国内での訓練風景より)。

「日本のレスキュー犬」については、阪神大震災の救助活動を機に登場したようなイメージがありませんか?
救助犬の解説サイトでも、取り上げているのは戦後の話ばかりですし。

実は、我が国のレスキュー犬史は明治時代に遡ります。

消防(当時は内務省の管轄)や山岳界ではなく、陸軍が主導したものでありましたが。

 

明治37年の日露戦争で遭遇したロシア軍負傷犬捜索犬に注目し、日本陸軍歩兵学校が研究課目として採用したのは大正8年度のこと。

第一次世界大戦で欧州各国軍が編纂した負傷兵捜索犬の運用レポートを邦訳し、日本のレスキュー犬運用法は世界レベルにまで磨き上げられました。
そのノウハウは民間にも応用され、当時の行方不明者や遭難者のレスキュー活動には捜索訓練を受けた在郷軍用犬たちが参加しています。

現代日本では負傷兵捜索犬の存在など忘れ去られ、血に飢えた日本軍犬のイメージだけが喧伝され続けています。
酷いのになると殺人犬などと罵る始末。
すべては「忌むべき歴史」として日本軍犬の実態から目を逸らせ続けた、犬の研究者たちの怠慢に尽きます。彼等の主張を鵜呑みにした結果、日本人は自国のレスキュー犬史すら辿れなくなりました。
それは現代のレスキュー犬にとっても不幸なことでしょう。明治時代から積み上げてきた実績も無視され、新参者扱いされるんですから。

それでは、戦う為ではなく、人の命を救う為に働いた軍用犬達のお話を。

【日本の救助犬史】

さて、我が国で人命救助に犬が使われたのはいつ頃なのか。
主人を危機から救った忠犬談は、それこそ大昔から伝えられています。
ただし、いずれも「偶然居合わせた犬が危機から救ってくれた」というお話ばかり。
いかに忠犬といえど、当時の犬が専門のレスキュー訓練を受けていた訳ではありません。


帝國ノ犬達-犬
寛文三年(1663年)に駿府の在番、酒井伊豫守殿おはせしに、小屋に白犬の有りしが、常に豫州どのゝ前に出るを、小坊主に仰せて物を喰せ給ひし。
ある時豫州殿遠まわりに、とうめと言所に出給ふ。
小坊主も供にまいりしが、過つて谷へ落たりしに、何方より来りしやらん、件の白犬はしりより、帯の結めを噛へ曳て、岡を見上げて吠けれバ、各(おのおの)これに驚き引上げて助けけり。
是を見聞くもの感ぜぬハなかりしとぞ。新著聞集


絵と文・暁鐘成『茶道坊を助けて犬恩を報ず(嘉永7年)』より


明治初期から、海外の書籍を介してレスキュー犬の情報が齎されるようになりました。
アルプスの遭難者を救うセントバーナードや、難破した船から海へ飛び込んで岸までロープを曳いて行ったニューファウンドランドの話は、当時の少年雑誌や動物物語でも盛んに取り上げられています。
日本人は、明治時代からレスキュー犬の存在を知っていたのです。

【明治時代のレスキュー犬】
 

日本在来の和犬は、狆を除いて原種に近い状態のまま維持されてきました(狩猟能力が高い個体へ淘汰されるなど、地域ごとにある程度の手は加えられています)。

いっぽう、品種改良が重ねられ、さまざまな用途に特化していった洋犬たち。
中でもレスキュー犬の話は、昔から義犬・忠犬談が大好きな日本人の心情とマッチしたのでしょう。
 
 

明治初期には、西洋の猟犬・レスキュー犬・牧羊犬が書籍で紹介されました。一番下は人を襲っているのではなく、「巨獒、善泗(泳ぎの上手い大型犬)」というニューファンドランドによる水難救助です(『博物新編(明治3年)』より)

 

明治中期になると、レスキュー犬の詳細な情報が入手できるようになりました。

明治26年には、ドイツ軍の伝令犬や負傷兵捜索犬の運用法が邦訳されています。一頭の犬が一人の遭難者につき従うアルプスの救助犬とは違い、近代のレスキュー犬は「犬が負傷兵を探し出し、救助チームが回収していく」という分業制へ進化しつつありました。

 

 

欧州における伝令犬・負傷兵捜索犬と、負傷兵救助方法のイラスト
 
※伝令犬の解説部分は省略
又此犬は負傷者を捜索するに最も妙にして、毫(すこし)も誤まることなし。故に戰時に在つて此犬を使用する時は、負傷者を觀過するの過なし。
殊に荊棘(いばら)凸凹の嫌ひなく、探索すること頗る精密なり。
其負傷者(ておひ)を見出したるときは、一種の吠聲を發して所在を人に告知す。夜中の業(わざ)に於ては、犬に小さき燭(あかり)を付し、其馳走の方向を知らしむ。
負傷者を運搬するも此犬を使用するを得るなり。
即ち犬に車を付し、之を輓かせ、其車臺には、二人の負傷者を臥さしめ、且つ彈力強き構造にして、凸凹不整(たかひく)の道路と雖も、負傷者に痛苦を覺はしめざるべし。此載車運搬は、此れまでの擔荷卒(かつぎをとこ)の運搬よりも、負傷者は痛苦を感ずること少し。
此車は、犬一匹にて輓くを得るを以て、只之を宰領する者二人あれば可なり。
此れ迄の担荷卒にて二人の負傷者を運搬するには、四人を要するを以て見れば、實に半分の人數にて足れり。若し此軍用犬の需要益増加する時は、衛生隊の利益に於て大なる滿足を見るべし。
 
絵と文・在獨逸 拙誠居士譯送『軍用の犬(明治26年)』より
 
拙誠居士氏が紹介した「レスキュー犬が負傷兵を捜索し、救護チームを誘導して担架や荷車で後送する」という人犬連携の救護方法は、戦後になって大きな誤解を生んでしまいます。
1974年のミリタリー雑誌『GUN』掲載記事では、「負傷兵を載せた荷車を犬が牽引する」という記述を「レスキュー犬が負傷兵を引きずって運搬する」と勘違い。
これを著したのが、軍事研究家の寺田近雄氏でした。実際に内容も優れていたため、次世代のライターたちも内容を検証しないまま劣化コピーを重ねてしまいます。
 
21世紀になっても、軍事オタクの間では1970年代の解説が再利用され続けているようですね。「間違った常識」を正すのはナカナカ大変なのです。
 
【八甲田山遭難事件とレスキュー犬】
 
日本で本物のレスキュー犬が使用されたのは、拙誠居士氏のレポート邦訳から9年後のことです。
明治35年1月、八甲田山を雪中行軍していた青森歩兵第5聯隊第2大隊の210名が遭難。いわゆる「八甲田山雪中行軍遭難事件」が発生しました。

すぐさま大規模な救助隊が投入されますが、生存者は僅かに11名のみ。残る199名の捜索は、極寒と猛吹雪に阻まれて難航します。
救助隊にも、過労や凍傷、インフルエンザによって倒れる者が続出。過酷な状況に耐えかねた人夫が作業を拒否するほどでした。
そのような極限状態での救助活動の中、八甲田山に救助犬が姿を現しました。

2月2日から2月9日にかけての第2期捜索で、民間のセントバーナードや猟犬が使われたのです。
「明治時代の日本にセント・バーナードがいたのか?」と思われるかもしれませんが、幕末の開国から40年が経過していた時期です。その年月の間には、さまざまな洋犬が輸入されていたんですよ。
 
新聞報道や青森歩兵第5連隊が編纂した『遭難始末』などの事故報告書より、当時の状況を引用してみましょう。
 

獵犬の無効 

東京より來たりたる獵犬ハ雪の深き爲め其効なく明日連れ歸るよし。又青森の獵犬二頭ハ曩に結果良かりしやに聞きたるが、捜索隊の多人數なるを恐れ實際効果なかりしと云へり(2月9日 以上東京朝日新聞 より)
 
有名なアイヌ捜索隊の北海道犬以外に、東京や青森からもレスキュー犬が参加していた記述もありますね。
八甲田遭難事件関連の書籍には出てこないし、一体何だコレ?と思ってアレコレ調べたら、捜索期間中に出されたレポートに掲載されていた記録を発見しました。
捜索に投入されたレスキュー犬は
1月30日に青森・柿崎己十郎氏の猟犬
2月5日に東京・小林善兵衛氏のセント・バーナード
2月10日に北海道・弁開凧次郎氏らのアイヌ犬
という順番だった様です。
 
捜索隊は一の哨所を作りて捜索を爲さんとするには、先づ一望概然たる雪を踏み堅めて一條の雪道を作らざるべからず、踏み堅むるには三人一隊となりカンヂキを使用せざるべきあらず。斯て成りたる細經も吹雪にして一度至らば忽ち消へ去りて、一望概然の景状に復する恐あり。幸に此の兩三日晴天打續きたるより無難なりしも、一朝風雪の起るあらば折角の苦心忽ち水泡に歸すべし。聯隊本部の一意天候を案ずる故なきにあらず。
●先鋒は獵犬
青森市役所の意見を採用し、田茂木野に於ける五聯隊出張所は獵師一名を雇ひ獵犬を牽かしめて捜索隊の先鋒となし、一月三十日朝六時より捜索に從事したり。生存者約三十名を發見し屍体十個を發掘したるも、獵犬の効なるべしとの説あり。
 
柿崎氏による捜索状況は下記のとおり。
 
●獵犬と死体捜索
獵夫柿崎某の獵犬が如何にして死体を發見するかと云ふに、先づ英敏なる鼻をうごめかして此方彼方と駈け廻り、死体の埋れある場所に至る時はうゑに佇んで主人己十郎の來るまで動かず、斯くて主人至れば其の任を果せるが如き様して又駈け出して目と鼻をうろつかせ好く捜索の意を了して孜々努むるが如き状、一見感ずべき程なりと云ふ。
犬の佇立せる場所に捜索兵を呼んで發掘すれば必ず死体の埋れありしと、流石は平常主人が獵用に練らせし甲斐ありて此回其の効を奏せしか。
獵犬二頭はあまりに勞疲せるものにや病んで主人と共に休養し居たりと。
 
いずれも千城生『悲慘雪風・雪中行軍隊(明治35年)』より
 
青森の猟犬が撤収した後も、第5連隊ではレスキュー犬の派遣を陸軍省へ要請し続けていました。
 
捜索用獵犬派遣
本日陸軍省より捜索の爲め獵犬派遣の事を照會あり。第五聯隊にてハ依頼の旨返電せり(2月3日)
 

洋犬使用者の青森行
日本橋通り塩町小林善兵衛なるもの洋犬(※セントバーナード)を使用して凍死者の死體を捜索せんことを願出で、昨日許可を受けて青森に向け出發したり(2月5日)」

 
獵犬遭難地に向ふ
東京より來れる獵犬ハ昨日遭難地へ向ひたり。又北海道よりも來たる筈なり(2月6日)
 
本日天候宜し。頗る見込みある地點を發見し大捜索を爲したり。犬も使用しつゝあり(2月8日)
 
しかし、いくらアルプスで伝説をつくったセントバーナードであっても無訓練では役には立ちません。翌日にはこのような結果が報告されています。
 

第五章 捜索救護計劃並に實施 
第三、實施第二期 
自二月二日 至二月九日

二月七日
本日は特に東京の人小林善兵衛が特志を以て死體捜索に使用せんが爲、店員岡部某をして携行せしめたる「セントバーナート」種獵犬を監澤捜索(※監澤義夫大尉指揮の第2捜索隊)に附して之を試みしも、犬は未だ其目的を解せざる者の如く効果を収むる能はざりき
八日
捜索諸隊は午前八時より捜索に從事し小林氏の飼犬は更に種々なる方法を以て捜索に試みしも
遂に効果を得ずして歸還せしむるに至れり

 
どうやらセントバーナードは役に立たなかった様ですね。
それで犬の使用は諦められたかと思いきや、2月9日から2月18日にかけての第3期捜索では新たな猟犬が投入されています。
この時北海道から招聘されたのが、雪山での狩猟経験豊富なアイヌの猟師たちでした。
 
八甲田山駒込川上流域で捜索中の弁開隊。両端の小さな点が猟犬です(陸奥青森寫眞師:柴田一奇撮影)
 

2月10日、陸軍より協力要請を受けた弁開凧次郎氏ら一行はアイヌ犬(現在の北海道犬)を連れて青森に到着。捜索部隊と共に雪の八甲田へと入山します。

 

第四、實施第三期 
自二月九日 至二月十八日。

此日(2月10日)北海道土人辨開凧次郎以下七名各獵犬一匹を携え來着す。
是より先、津川聯隊長は土人の雪國に生長し其經驗の多からんことを思ひ、之を雇用して捜索に使用せんと欲し第八師団参謀長林大佐に語る。
大佐其言を然りとし函館要塞司令官谷澤砲兵少佐に計る。司令官斡旋即ち七名を得て派遣す。
由て翌日より捜索に從事せしむ。
(中略)
司令官因を北海道膽振国茅部郡森村醫師村岡格に嘱す。
村岡格斡旋の結果同郡落部村辨開凧次郎、同勇吉、有櫛力蔵、板坂是松、碇宇三郎、板木力松、明日見米蔵を得たり。
由て直に之の聯隊に報じ二月十日を以て屯營に到着し翌十一日より捜索業務に從事することなれり。

 
駒込川渓谷での捜索に従事した弁開隊は、「死力を尽す」と宣言した通りの活躍を見せました。
峻嶮な地形をものともせずに深雪を踏破し、凍りつくような冷たい川に腰まで浸かって遺体を回収するなど「地方人夫をして驚嘆舌を捲かしめたり」と記されています。
 
此の數日間は天候不良の爲め到底捜索の目的を達するを得ず、空しく數千の軍隊をして恨みを呑ましめしが、去る十一日捜索大隊の新編成と其の翌十二日の朝に至りて天候一變、近來稀れなる好天氣となりたるを以て、何れも大に喜び勇みに勇みて各哨所を出發し、捜索地に向へり。是れより先き十一日夜、平岡大隊長より左の命令ありたり。
一、第七哨所(爾今豊田、馬渡、後藤の三捜索隊所在地を第七哨所と稱す)は明日の捜索に關しては昨夜命令の通りとす(捜索進行の都合に依り第五捜索區域の捜索をなすべし)
二、鎌田捜索隊は明十二日鳴澤附近の捜索をなし、且つ去る九日石丸中尉の發見せし死体を運搬し歸るべし
三、アイヌ捜索班は明日午前八時鎌田捜索隊を續行し、駒込川の河谷を捜索すべし
 
アイヌと獵犬
北海道より來れる辯開外六名には獵犬と共に遭難地にありて、捜索に從事し居ること別項にあるよしとなるが、獵犬は從來の犬と同様其の効果を認めざるもアイヌ丈けは經驗あるものから人跡の容易に到るべからざる渓澗斷崖等を跋踄し大に捜索の力となり居る由(柴田一奇)
 
其の被服たる襦袢、袴下に綿入一枚を着し股引を穿ち麻製脚絆を用ゆ。
而して其上所謂「アツシ」なるものを被ひ足には鮭皮鹿皮若くは馬皮製の靴を穿ち、而して各人悉く懐に狐の頭骨を携ふ。
曰く護身の神なりと。
斯の如くして身體輕捷、其働や敏活山野を跋渉する平地を行くが如し。
 
此一行は四月十九日に至るまで六十七日間連續捜索に從事し得る所、死體十一、其他行軍隊の遺棄せる武器装具等を得たるは蓋し枚擧に遑あらず。

其賃金は一日の額辨開凧次郎、有櫛力蔵は二圓他は一圓五十錢宛を支給し、且つ三月上旬賞與として金圓を與え、歸還に際しては聯隊長の名を以て各人に感謝状を附與し添ゆるに同じく金圓を以てす。
 
而して猶彼等の志願により三神少尉報告の爲め、弘前師團司令部に赴くの便を以て該所に誘導せしめ、市内を一巡して師団司令部並に官衙兵營の状況市街の光景を觀覧せしめたり(歩兵第五聯隊) 
 
明治時代の日本軍は、軍用犬の知識など皆無でした。だから、アイヌ犬の活躍にも関わらず「負傷兵捜索犬を導入しよう」という流れにはならなかった様です。

八甲田山雪中行軍は、もともと対ロシア戦を想定しておこなわれたもの。そして、想定は現実となります。
この大惨事から2年後の明治37年、大陸での権益を巡って日露両国は軍事衝突。
日露戦争へ赴いた日本兵は、高度な専門訓練を受けたロシア軍レスキュー犬部隊と遭遇するのです。

帝國ノ犬達-衛生
 
帝國ノ犬達-衛生

明治37年、日本の雑誌で紹介されたヨーロッパの負傷兵捜索犬。

ロシア軍は開戦前から英独の軍用犬専門家を招き、負傷兵捜索犬部隊を配備しています。
これらロシア軍の衛生犬は、落伍した兵を捜し出したり、負傷兵の元へ医薬品を運ぶのが任務でした。

 

沙河に於ける露國軍は多く犬を飼養せり。是等の犬は戰鬪後負傷兵を捜索するに非常の働きを現はせり。
殊に荒野、森林、絶壁等に於て其の効用於て其の最も多し。
彼等は牧羊犬の一種にして英国少佐リチャードソン氏の訓練に係はるものなり。
犬は其の背に赤十字號を施せる包を負ひ其の中には繃帯及『ブランデー』と水とを容れたる小瓶を携ふ。
負傷兵を發見せば犬は負傷兵をして(若し能ふべくんば)件の包を解かしめ其の内容物を使用せしむ。
若し又負傷兵にして歩行するを得ば、犬は野戰病院の位置に之を導き、若し又歩行する能はざるときは捜索兵の處に行き之を報道す。
其の怜悧にして忠實なる點は彼の有名なるセントバーナードの犬と比較して毫も遜色を見ず

 

日露戰爭は吾人に教ゆるに負傷兵が夜間に於て捜索さるる場合殊に多きを以てしたり。
而して又夜間に於て燈光を使用すれば必ず敵の銃砲火を誘ふものなることをも教へたり。故に電氣燈具其の他の燈火は命令に依り一切之を使用することを禁じ、又縦し之を使用するとするも燈光は其の効用決して大なるものにあらず。
何となれば燈火の光力強きに従ひ其の投射する蔭は一層暗黑なるを常とすればなり。
退却の場合に於て、我が負傷兵を収容するは敵の任務なり。
歐洲の軍隊は彼我を分たず負傷兵は悉く之を収容して適當の手當を施すものなれども、若し不知の國に於て其の國人の敵對行爲等のある場合には、容易に負傷兵の捜索に從事すること能はざるか故に其の仕事は非常に困難なり。
又平坦にして道路の多き地方に於ては負傷兵の収容極めて容易なれども丘陵森林の多き山地にては此の事業は最も困難のことに属す。
演習に於ても山地に在ては落伍者の一旦其の属する隊列より離れたるときは諸方に彷徨するものなるを以て、之を追跡發見することは極めて困難なり。
是等は毎日起る出來事にして苟くも犬を使用して捜索せざる限りは負傷兵並落伍者は遺憾ながら之を見棄てざる可からず(ネヴァ紙記事)


日本陸軍歩兵学校軍用犬レポートより(大正3年)

 


帝國ノ犬達-衛生
訓練中のロシア衛生犬(明治37年)

日露戦争へ赴いた日本兵は、軍馬と軍鳩と軍犬を操るロシア軍に驚愕します。何せ、当時の日本軍には軍馬の知識しかなく、その軍馬の品種改良にすら難儀していたレベルでしたから(馬匹改良事業も、日露戦争で大きく遅延しました)。
レスキュー犬なるものを知らなかった彼らは、それをロシア軍の警備犬と勘違い。赤十字のゼッケンをつけているロシアの救助犬から必死に逃げ回っていました。

馬のことしか頭にない日本陸軍にも、日露戦争で遭遇した軍用犬について興味を持った軍人達がいました。
それが日本陸軍歩兵学校の関係者です。
日露戦争から8年後の大正2年、陸軍歩兵学校が作成した軍用犬レポートにロシア衛生犬の記述が登場。
これを機に、我が国でも本格的な負傷兵捜索犬の研究が開始されることとなります。

【大正時代のレスキュー犬】
 

帝國ノ犬達-衛生

訓練中の日本軍負傷兵捜索犬

日本陸軍がレスキュー犬の研究を始めたのは、大正時代のことです。
大正2年、陸軍歩兵学校の吉田彦治大尉は海外の軍用犬に関するレポートを作成。そこには、ロシア軍負傷兵捜索犬の記録も掲載されました。
この「吉田レポート」をきっかけに、日本の軍用犬研究はスタートしたのです。
「日本陸軍は第一次大戦の戦訓を元に軍用犬の研究を開始した」という解説を見かけますが、実際は大正3年の欧州大戦勃発前から軍用犬の情報収集活動は開始されていました。

 

第四章 軍犬

其一 衛生勤務用犬
犬の驚く可き嗅覺力並其の怜悧なる性質を利用して、戰場に於ける負傷兵及落伍者を捜索する目的を達するに至りしは、極めて近來のことなり。
尤も中世紀の頃、アルプス山中に於て道を失ひたる旅人が「セント・バーナード」と稱する犬の爲に婁々危うき生命を助けられたることあり。
是等の犬は即ち今日の所謂衛生勤務用犬と同一の任務を盡したるものと見て差支なからん。
(イ)衛生勤務用犬ノ目的
(ロ)衛生勤務用犬二適當ナル犬種
(ハ)衛生勤務用犬ノ具装
(二)衛生勤務用犬ノ調練及其ノ使用ノ方法

 

陸軍歩兵大尉 吉田彦治『軍犬ノ養成並使用法ノ研究(大正2年)』より

 

実際に犬を使った研究は大正8年から始まり、3年間に亘るテストによって「効果あり」と判断した歩校は軍用犬の配備へと動き出します。
早くもこの時期、負傷犬捜索犬の運用ノウハウは完成。
日本軍では、レスキュー犬のことを「衛生犬」と呼称して技術向上に努めました。

下の連続写真は、大正14年頃に公表された陸軍歩兵学校による負傷兵捜索犬訓練。
既に、レスキュー犬の技術が実用化の域まで達していたことが分ります。

衛生
負傷兵捜索訓練中の陸軍歩兵学校衛生犬

 

負傷兵捜索勤務

一、負傷兵捜索犬の訓練

訓練の初期に於ては助手をして訓練者及犬を通視し得べき地點に位置し、跪座又は横座せしめ、訓練者は「捜せ」と令じて犬を放ち、助手に向つて疾走せしむれば、犬は速かに助手の許に至り喜悦する。
此際助手は「善し」と称して賞賛し、手を触れることなく犬に食物を提供する。
然れども犬が訓練者の許諾なくして食を採らんとせば、助手は輕く口吻を叩打して之を妨げるを要する。
此時犬に跟随する訓練者は之を賞賛し許諾を與へて食を採らしめよ。
此練習は漸次距離を遠隔し且豫め犬に發見せられざるやう助手を位置せしめ演練せよ。
後には訓練者が犬を追及せず原位置に在つて犬自らを助手の位置より帰來する様に演練するものである。而して犬には帰來するに方り負傷兵の帽子或は付近に散乱する物品を持ち來たさしめるやう訓練するがよい。
然れども強て必ず何物かを持來らしめる様に訓練する要はない。
歸來せば再び助手の許に訓練者を案内せしめる。斯くの如くするときは横たはり或は座せる人を指示する。
練習を犬は容易に理解するから、次で助手に換へるに未知の兵を以てし之に對して捜索發見せしめる様前記の動作を演練する。
斯くして基本訓練を施した後、逐次困難なる訓練を實施し、益々能力を向上するものである。

即ち足跡多く且通視或は通過困難なる地形に於て、特に夜間訓練することが必要であり、又付近の人馬及犬並に射撃等四圍の情況等に依て自己の動作を牽制せられることなく確實に任務を遂行し得る様にせなければならぬ。
又多數の犬が互に他を妨害せずして動作することも亦必要である。故に咬癖あるもの又發情せる牝犬等は用ひてはならないのである(陸軍歩兵学校の衛生犬訓練法より)



帝國ノ犬達-捜索

負傷兵の帽子を咥える衛生犬

帝國ノ犬達-捜索


帝國ノ犬達-捜索
負傷兵發見の印として、軍帽を持ち帰る衛生犬

帝國ノ犬達-捜索
待機する担架兵の許へ帽子を持ち帰った衛生犬


帝國ノ犬達-捜索
衛生犬の誘導で出發する担架兵たち

【昭和のレスキュー犬】

昭和に入るとレスキュー技術に磨きをかけるため、様々な状況を想定した應用訓練へ研究範囲が広げられます。
陸軍歩兵学校軍犬育成所が特に力を入れていたのは、雪中遭難者のレスキュー訓練。もしかすると、冬季の満州における対ソ戦を想定していたのかもしれません。
下の画像は妙高山麓における歩校軍用犬班雪中演習の様子です。

斥候
雪中演習に参加した歩兵学校の軍犬たち

帝國ノ犬達-救難
陸軍歩兵学校による、赤倉山麓での雪中遭難者捜索演習

帝國ノ犬達-救難
捜索に発進

帝國ノ犬達-救難
遭難者発見!

帝國ノ犬達-救難
雪中伝令

帝國ノ犬達-救難

帝國ノ犬達-救難
救護隊員を遭難者の許へ誘導する衛生犬

犬
負傷兵の許へ到着


帝國ノ犬達-救難

帝國ノ犬達-救難
演習終了、お疲れ様の水与。

大陸の情勢が緊迫してくると、軍犬の資源母体として民間の犬達を訓練育成しておく必要が出てきました。
軍部に大量の犬を繁殖・飼育・育成訓練する人出や予算や時間はありません。
そこで陸軍省馬政課は、民間人が訓育した犬を購入する事で、基本訓練済みの軍用候補犬を大量調達するシステムを構築したのです。所謂「軍犬報国運動」ですね。
訓練済みの犬を得るため、軍用犬の訓練ノウハウが民間へと広められます。当然ながら、その中には負傷兵捜索犬の訓練法も含まれていました。
こうして、自主的にレスキュー犬を育成する民間人が現れた訳です。

訓練を受けた民間の犬が、山岳遭難や台風被災地、洪水や大火事での行方不明者捜索に出動した記録も少なくありません。
帝国軍用犬協会のシトー・フォン・ニシガハラや神奈川の在郷軍用犬アヤックスなど、名を残した戦前の民間レスキュー犬も少なくないのです。

カール
神戸市立第一高等女学校の火災現場で行方不明者の遺体を発見したカール號(昭和9年)

衛生犬
衛生嚢を装着して訓練中の日本シェパード犬協会登録犬(民間のペット)
 

さて、日本国内では盛んに研究されていた衛生犬ですが、戦地での運用はあまり記録されていません。
活動が地味だったので報道されなかったのか、そもそも必要とされていなかったのかは不明。
下記は、戦地での日本軍衛生犬に関する貴重な記録です。

 

警備隊の勇士達の言に依れば、敵は大擧して我を包圍した時に此の山上に現はれて大旗を振つて合圖をした敵兵があつた。
城内より警備隊は狙撃をして之を斃したのであつたが、今や犬共の餌食になつて居ると言ふ事であつた。
山上より眺めて居ると今日も捜索隊が山又山を越えて出て行く姿が見える。夜も晝も行衛不明となつた一部の警備隊の兵士達を捜して居るのであつた。
二頭の軍犬は先頭に立つて彼方、此方を探し乍ら甲斐々々しく働いて居るのは何んとも言へぬ頼もしさがあつた。
山上の人々の視線は一斉に軍犬に集まつた。捜索に軍犬を使ふ事は名案だとは深刻に私達の腦裏に刻まれたのであつた。
戰ひ果てゝ野戰に眠る護國の英霊と化した勇士達も、重傷を負ふて呻吟する兵士達も、捜索隊に収容される事が出來たのは無言の戰士軍犬の功に待つ事は少なくなかつた。
野越え山越えて日章旗と共に進む軍犬の姿は、今も尚眼に映ずる感がする。
其の軍犬は帝國軍用犬協會會員の愛育した、そして今事變に際し國家の御役に立たせ度いと軍犬報國の至誠が今戰場に實現されて居る様を目撃する事が出來たのである。


武境啓『准河の邊り(昭和17年)』より


帝國ノ犬達-捜索
衛生嚢を装着した日本軍の負傷兵捜索犬たち

帝國ノ犬達-捜索


帝國ノ犬達-捜索
日本国内での負傷兵捜索犬演習。負傷兵役の人も大変です。

昭和20年の敗戦により、日本軍のレスキュー犬は姿を消しました。
しかし、戦後復興と共に登山ブームが再来すると、多発する山岳遭難に捜索犬が投入されるようになります。
犬界関係者に「レスキュー犬復活」を印象付けたのが、昭和29年の富士山雪中遭難事故。この救助活動にはアルド・V・.城北荘とベル号が参加し、雪崩に巻き込まれた遭難者の遺体と遺留品を発見しています。

当初は「とりあえず犬も使ってみるか」程度だった認識も、やがて山岳レスキュー活動の有力な手段となり、レスキュー犬への理解も深まります。
ジャパン・ケンネルクラブを始めとする畜犬団体も、レスキュー犬育成支援に乗り出しました。
消防・警察と畜犬団体の連携が強化されるにつれ、災害救助犬のより効果的な活用法も検討されていきます。
決定的だったのが阪神大震災。
海外から派遣されたレスキュー犬の受け入れ態勢不備が露呈し、防災意識の高まりと共に改善のきっかけともなりました。


自然災害の多い我が国で、レスキュー犬たちの出動は増えこそすれ減りはしないでしょう。
長い歴史をもつレスキュー犬。
彼らは、現在も世界中の被災地で活躍しています。
 

帝國ノ犬達-捜索

訓練中の日本軍負傷兵捜索犬