滿洲軍用犬協會佳木斯支部幹事長鈴木茂二氏は、厳寒零下卅餘度のソ満國境に活躍中の〇〇部隊へ献納する軍用犬約廿頭購入のため、二月二十一日大阪を訪づれ關係各位方面を歴訪。
帝犬大阪支部の斡旋で豫想以上の優秀犬を入手して歸滿したが、同氏は次の如く語つた。
「氷結した黑龍江を境としてソ聯と對立、日夜警備に勤務してゐる〇部隊には僅かに二、三頭しか軍用犬が配備されてゐません。
慰問袋も至極結構ですが、警備の補助機關として優秀な軍用犬を贈ることは寒夜の歩哨その他警備に當つてゐる將兵にとつてどれだけ力強いかも知れません。
私達協會では軍犬報國の意味で廿頭を購入、立派な軍用犬として訓練したのち、部隊に献することになつてゐます」

『佳木斯から軍犬買入れ(昭和14年)』より

帝國ノ犬達-満ソ国境

長大な国境線で対峙していたソ連と満洲国。昭和13年の張鼓峰事件、そして翌年のノモンハン事件では日本軍とソ連軍が激突します。
満ソ両国では、それぞれ国境警備犬を配備していました。「最前線ゆえ、さぞや関東軍中枢からの手厚い支援があったのだろう」と思うでしょう?
しかし、現実は下記のような惨状でした。

「ソ兵逃亡者の言に依り國境線脱走上警戒犬は最大なる障碍たることを異口同音に聴取しあり。尚特務機關憲兵隊、又國境部隊の使用する密偵の總ては悲鳴を挙げて曰く「犬のために國境線の突破不可能なり。まご〃して居れば必ず警戒兵に捕獲せらる」となし、咆哮せらるるや直ちに逃げ歸るを常とす。

密山特務機關長の談に依れば「密偵の使用上犬の威力に關しては全く處置なしである。犬には負けた。之れからは密偵の使用は警備小哨ザスターワの配置粗なる興凱湖以東の地域を撰ぶが又は山上の監視哨の無き所を通過するか、監視哨間の間隙巡察通過後の隙を窺ひ突破するの外なし」となし、犬を全く嫌遠しあることは事實なり。

倉茂部隊長の如きは敵軍犬誘惑法に關する積極的研究に着手し、虎頭憲兵分隊長は憲兵の勤務に軍犬を必要とすべき意見を上司に上申すべく企圖せられあり」

関東軍軍犬育成所『第四 教育實施成績 其ノ一 軍犬ノ必要性ニ對スル一般ノ認識』より



満ソ国境で訊き取り調査を重ねた関東軍軍犬育成所(満洲第501部隊)は、幾度も中央へレポートを送っています。
しかし、「ソ連軍用犬への対抗策を求む」という国境警備隊からの訴えを関東軍上層部は完全無視。翌年の調査レポートでも状況は全く改善されていません。
遂には、日本軍国境警備犬の補充すらままならない状況へ至りました。

一方のソ連軍はGPUの国境警備犬などと連携して警戒網を強化。ソ連側への潜入を試みる日本軍工作員は、ことごとく撃退されてしまいます。
赤軍の研究に熱心だった日本軍ゆえ、ソ連軍用犬部隊の高度な育成・運用システムは把握していた筈。その研究成果を活用せず、問題解決は現場へ丸投げ状態でした。

豊橋陸軍豫備士官學校のソ連軍研究教材より(昭和18年)

たくさんの研究成果も、集められた戦訓も、現場からの提言も、軍部によって無視されました。
ソ連の対戦車自爆犬(大失敗)を嘲笑う軍事オタクは、自国がそれ以下の低レベルであった事実を直視すべきでしょう。満ソ国境で見捨てられた軍犬兵には、敵失を笑うどころでは無かったのですから。

今回は、ソ連軍と対峙した日本軍犬たちのお話。

帝國ノ犬達-ソ連兵
積雪地帯を進むソ連の軍用犬チーム

【日露戦争とロシア軍用犬】

日本軍は、日露戦争においてロシアの近代的軍用犬部隊と遭遇します。
軍馬の知識しかない日本軍(しかも、馬匹去勢法は戦時の混乱によって停滞中)は、馬と鳩と犬を駆使するロシア軍の戦術に驚愕。終戦間際に伝書鳩への対抗策を研究し始める体たらくでした。
20世紀で最初に近代的軍用犬部隊を運用したロシア軍は、ワルシャワ近郊に軍用犬訓練所を建設して規模拡大を図ります。

第1次世界大戦でも、ロシア軍用犬部隊は東部戦線で活躍しました。
ただし、そのレベルは独仏に遠く及ばなかった様です。タンネンベルク会戦でも、助けに来たドイツ軍レスキュー犬を必死で追い払うロシア負傷兵が目撃されており、ドイツ側ではその無知ぶりが話題になっていました。
「レスキュー犬に敵対的な負傷兵は救助しない」という運用法が確立されたのも、この大戦からでした。

帝國ノ犬達-ロシア軍用犬
第1次世界大戦におけるロシア軍用犬部隊。シェパードとエアデールで構成されています。

ソ連時代になると、軍用適合犬種は国家の統制下に置かれます。
ソ連軍は軍用犬の繁殖育成に邁進し、その軍用犬やGPUの国境警備犬は配備規模を拡大。サンクトペテルブルグで大規模な軍用犬演習が開催され、英独の軍用犬専門家が招待されたことは日本側でも報じられていました。

ロシア軍用犬訓練所

ロシア軍用犬
ワルシャワ近郊に設置されたロシア軍用犬訓練所

大正2年、日本陸軍歩兵学校は日露戦争で遭遇したロシア軍用犬部隊の調査を開始。これに第一次大戦の戦訓を加え、大正8年から実地研究へ移行しています。
軍馬の知識しかない日本軍上層部が「児戯に等しい」と軍用犬を嘲笑っている間にも、ソ連軍用犬部隊は成長を続けていました。

【満州国とソ連軍用犬】

満洲事変に軍犬が実戦投入されたのは、歩兵学校が軍用犬研究を開始してから18年も後のこと。同時期からソ連軍用犬部隊の調査も本格化し、諸外国からの使役犬輸入、軍用犬部隊に配属する将校及び兵・下士官別の専門育成コース、冬季戦にあわせた犬橇の運用など、その高度な訓練運用システムが判明します。

帝國ノ犬達-アゼルバイジャン軍用犬

満洲国が建国された後、日ソ両軍は国境地帯での小競り合いを繰返していました。
軍事衝突に発展した張鼓峰事件では、日本側の夜襲がソ連軍用犬部隊によって妨害されます。関東軍および満州軍用犬協会関係者は、満ソ国境で対峙するソ連軍用犬への警戒を強めていきました。
ソ連軍用犬マニュアルの翻訳研究、国境地帯での情報収集、対ソ連軍用犬の臭気撹乱剤開発、そして、独ソ戦で対戦車自爆攻撃を行ったソ連軍地雷犬(日本での呼称は「ソ聯の携雷犬」)の情報も、ドイツ経由で早期に把握しています。

「左どなりの第一○一軽師団も、五月十八日の夕方までにドネツ河畔に出た。湿度の高い三○度の暑さの中、部隊は大森林を抜け、巧みに偽装された敵陣を散開してすり抜け、広い地雷原を突破しなくてはならなかった。工兵の活躍は目覚しかった。第一○一軽師団の第二一三工兵大隊は、最初の日に各種地雷一七五○個を除去したのである。
前年の夏以来はじめて、また地雷犬が現れた。地雷を背に負ったシェパードやドーベルマンが……。
陣地に隠れたソ連兵が、前進するドイツ軍部隊にぞくぞくと犬をけしかける。
犬たちは凄惨な狩りで射殺されていった。しかし次から次へと大群が現れ、調教師のいいつけ通り、車輌や砲の下にもぐりこもうとする。うまくもぐりこんで突き出した接触棒が何かにあたれば、強力な爆薬が炸裂し、数メートル以内のすべてを犬ごと吹きとばしてしまうのだ」
パウル・カレル著 松谷健二訳『バルバロッサ作戦』より 


帝國ノ犬達-地雷犬

携雷犬現はる 
爆彈背負つて敵陣に突入 だが逃げ帰つて爆發騒ぎ 
ベルリン廿九日發

ハリコフ戰線では、獨ソ両軍とも各々その智能を傾けて作り出した新兵器を使用し、ことに獨軍の對戰車砲用大口径高熱彈は恐るべき威力を發揮してゐるが、赤 軍もまた四聯式自動機關銃及び携雷犬、既ち、爆彈を背負つて敵陣に突入するやう訓練された軍用犬などを初めて使用してゐたことが捕虜の自白によつて明らか にされた。
捕虜の言によると、右四聯式自動機關銃は一分間五千發を發射すると稱せられたが、實戰で使用して見ると、それだけの能力がないうへに直ぐ故障を起し、ソ連軍はこの機關銃を満載したトラツクを遺棄して敗走した。
また、携雷犬といふのは主として夜間に紛れ、敵陣へ潜入し装甲車の下や爆藥庫などへ忍び込み、一氣にこれを爆發させる仕組みで、ソ連軍は八百頭以上の携雷犬を使つて獨軍の陣地を突破しようとしたのであるが、獨軍の銃聲に怯えた犬が逃げ歸つて來るため失敗に終つた。そのうへ逃げ歸つた犬がソ連兵にじやれつくため、却つて味方陣地で爆發して多數の死傷者を出すといふ始末で、いづれも訓練不足が痛感されてゐる(昭和16年)」

地雷犬(獨逸軍事記者談)
訓練せられたる犬に地雷を負はせ、驀進する戰車を目標に駆り立てる考案にして、苦し紛れの臨機的方法なるものの如く畜犬大隊と稱し四箇中隊より成り、一中隊はニ五○頭、犬四頭に兵一を附す。犬一頭は三、六瓩迄の爆藥を負ひ得、訓練は先づ「トラクター」を用ひ、肉切れに依り馴らし、停止せる車の前方より通り抜けるに約五日、徐行する車に對し約四十日を要す。遂に實戰に移れるも大なる効果なかりしが如し。
右は各種地方犬を徴發して臨機的訓練を爲せるものにして(「パウログラート」「トネプロペトロフスク」州付近要處にニ萬頭を集めたりと)馴れある兵に依り専門的訓練を實施せば、相當なる期待を爲し得べしと謂ふ」
陸軍省第一研第三科 秘 情報綴『ソ聯火器(昭和16年)』より

昭和18年の東京朝日新聞にもこのような記事が載っていました。

「ソ聯は犬の背中に地雷をくゝりつけ、戰車の下に潜りこませて爆破するものや、ラジオ地雷といつて、簡單なラジオの受信装置を發火装置に連結した地雷を獨軍の來さうな所へ仕掛けて置き時分を見はからつて電波で爆發させるものも使つてゐる」
昭和18年1月2日『ドイツの新兵器2 素晴しい地雷の探知器』より

帝國ノ犬達-地雷犬
ソ連のヒトコマ漫画より、地雷犬から逃げ惑うドイツ軍戦車兵。

現在はこの失敗例ばかりが喧伝されており、“ソ連軍用犬部隊は大したことが無かった”などと思われているようですね。ネットを駆使できる現代の日本人より、当時の方がソ連の軍用犬について正しい認識を持っていたのでしょう。
彼らにとってのソ連は、高度なシステムを備えた恐るべき軍用犬先進国だったのです。

帝國ノ犬達-ソ連
演習中のソ連軍衛生犬チーム

日本軍が最も警戒していたのは、満洲国境で対峙するソ連の軍用犬部隊でした。
日露戦争以降、軍用犬配備を着々と進めていたロシア軍は、ソ連時代になって更にその規模を拡大していきます。
日本側もドイツ軍や満洲軍用犬協会経由、または翻訳された労農赤軍教範、果ては児童書等からの情報収集に努めており、その実態を正確に把握していました。

犬
防寒帽に白外被姿の関東軍スキー兵。斥候犬を帯同しています(昭和18年)

「ではこのような軍用犬は現在日本に充分居るかどうか、列強のそれと比較して申上げたいと存じます。
歐洲大戰に於いて軍用犬が如何に大量に又有効に使はれたかは前に一寸申上げましたが、現在列強に於いてはどうでありますか。第一にソヴエートでは軍用犬の計畫的蕃殖並びに訓練は總て國軍に於て爲され、國境地方には實に驚くべき多數を配置してゐるのであります。
餘談ですが、私の手許に一九二六年でしたか、一寸その年號は記憶致しませんが、ソヴエート政府に依つて發行せられた一冊の繪本があります。それは軍用犬の重要性を小供にもわかる様と歌に依つて説明した色刷の小冊子でありまして、國家の總力を挙げて生産手段の工業化に邁進していた第一次五ヶ年計畫の最中にあつてもこの方面にこれだけの力を入れてゐたと云ふ事はむしろうらやましく感じた次第であります。そして極東武装化にやつきとなつてゐる現在、ソ聯の軍用犬が如何に強大なものであるかは想像に難くないのであります。
(中略)
翻つて我が國の現状はどうでありませうか。我が國で軍用犬が軍に於いて研究を開始致しましたのは今から約二十年前でありますが、民間に軍用犬の資源が植えつけられたのはほんの數年來の事でありまし て、勿論その後急速の進歩を見てゐるのでありますが、何せ原産地で數十年の鍛錬を經て來たそれと數にしろ質にしろ比肩し得ないのは止むを得ないのであります」
坂本健吉陸軍少将 JOIK札幌放送局『現代戰と軍用犬に就いて(昭和13年9月22日)』より

帝國ノ犬達-犬
軍用犬大国ソ連を支えていたのは、資源母体たる巨大な民間犬界でした(画像はソ連の畜犬展覧会風景)。

「國境第一線は、ソ聯のゲペウ(GPU:ソ連国家政治保安局。秘密警察の事です)の警戒兵が兵一人に軍犬二頭位でガン張つてゐます。日滿兩軍も同所から派遣の軍犬で對抗してゐますが、我軍は犬不足で、前線からヤイヤイと請求されてゐますものゝ、一日や二日でオイソレと出來ぬため、名所長松村さん(歩兵学校軍犬班出身の松村千代喜少佐)もお困りです」
玉置義一 『滿洲瞥見』より 

帝國ノ犬達-メダル
ソ連の犬用メダル各種

「ソ連の軍人らは信頼すべき友人と呼んで、重寶がつて居るといひます。レツクス・チンゴーなどといふ犬の實話を擧げて、ソ連軍用犬が國境で活躍して居るのが書かれて居ります。それによりますと、毎晩レツクスは前足の上に静かに頭をのせて眠る。だが、サーツと森林を渡る風が普段聞き馴れないどよめきや變わつた臭をつたへて來ると彼はガバリと起き上がつてちよつと身振るひをし、全身の毛を怒つたやうに逆立ちさせる。そしてその異様なポーズで怪しき者が近付いて來たことを自分の傍に居る守備兵に報告するのだ……と(中略)
又チンゴーの方は…かういふ簡單な命令を下したのである。
行け!と。
チンゴーは自分の肩を大きく波打たせるやうにして逃げて行く密輸入者達のあとを追つかけた。それこそ電光石火の早業だ。そして彼等の一行が散りゞりばらゞになると鋭い歯をムキ出してその一人〃のそばにつめよつた。だから、スツカリ怖氣立つた皆の者は、腰を抜かしてそこにジツとうづくまつてしまつた…といふやうにね」

帝國ノ犬達-メダル
メダルで飾り立てられた入賞犬(ソ連の畜犬展覧会にて)


途中モスコーで三時間程市中をブラついてゐる内に、なか〃體型のとゝのつたドーベルマンを四、五頭見かけました。近くにケンネルでもあるかと思つてきゝましたが、ロシヤでは犬……軍用犬は皆政府が買上げて、民家には飼はさないとの事です。訓練はすべて兵士がやるさうです。軍隊の何か式のある日には、兵士が連れて出て、公衆の前で訓練して見せるさうです。そして盛んにドイツをはじめ、他の各國から犬を買入れると云ふ事です」
森内章介『獨逸から訓練ジーガー試験を見る(昭和9年)』より

森内氏自身も、満州国の国境警察犬部隊や満鉄警備犬部隊のハンドラーを訓練していました(安東省の森内軍犬學校にて、昭和12年)。

ソ連に対する警戒心は妙な妄想を生み出し、「満州国境に展開するソ連軍用犬部隊がドーベルマンを主力に使っている」という噂が流れた事もあります。
ドーベルマンがどうやってソ連の酷寒をしのいでいるのか、まさか耐寒用に品種改良したのでは?と真剣な議論が重ねられました(後に満洲軍用犬協会がよく調べたら、国境地帯で目撃されるソ連軍用犬は全てシェパードだったそうです)。

「既に皆様も御存じの滿ソ國境問題で、昨年より煩はしい事件が今尚續出してゐますが、同所一帶でソ聯兵が使役してゐる軍犬の大部分は、ドーベルマンピンシエル種と噂に聞くではありませんか。
たとへ彼ドーベルマンが其の精悍にして勇躍、よく命に従ひ敵領内に飛び込む氣性がありとは云へ、この捨て難い氣分にのみ惚れて使役するならば、恐らく四十度五十度と想像もつかない北滿國境あたりでは一日として使役に堪へるものでは無いと思ひますが、矢張ソ聯にはソ聯で相當の年月を要して飼育蕃殖されてあればこそ極寒も極寒と感ぜず軍犬としての使命を十二分に果すものであつて、此の點静かに思ひを寄せて見度いと思ふ所なのです」
南満州鉄道株式会社 細川伊與三『滿犬スケツチ(昭和11年)』より

【ノモンハン事件と軍用犬】

日本軍とソ連軍はたびたび国境紛争をおこし、昭和13年には張鼓峰事件が発生します。日本軍による夜襲は、ソ連歩哨犬の警戒網に妨害され続けました。
実戦におけるソ連軍用犬の活躍は、満州国犬界に衝撃をもって伝えられました。

「在滿六十餘名の會員は、自分達の住む滿洲と云ふ所が日本内地とあまりにも遠隔せる(地理上の距離のみならず犬の事に於ても)のを自らの心にきめ込んで、継子の様な氣で居たのだが、最近〇〇〇國境の事件の際、某國軍犬の爲に〇〇〇〇〇があつて(※張鼓峰事件でソ連歩哨犬の警戒網に引っ掛かったこと)から急に、何クソ滿洲は日本の生命線だS犬の活躍現地だと叫び出したのが此程グルツペの松村代表がジーガー展に出参を機に、絶對的態度を以て本部理事の來満を懇願せしめた。

幸に本部蟻川主事其他との間に成立したのが鈴木理事の來満と云ふ事。松村氏よりの通報に早くも奉天、大連では歓迎座談會や種犬選定の用意に取かかつた。鈴木理事は十六日京城展の審査を終り、翌早朝京城發入滿の途に就かれた」

日本シェパード犬協会『滿洲に於ける鈴木理事(昭和14年)』より

帝國ノ犬達-栗林
馬政課長時代の栗林忠道は、帝国軍用犬協会の審査員も務めていました(昭和10年)。

内地においても、陸軍省馬政課長の栗林忠道(後の硫黄島守備隊司令官)が、対ソ戦に備えた軍犬資源の充実を提唱しています。

「扨て、昨年夏以來暴支膺懲の聖戰が大陸に展開されてから僅かに半ヶ年、遂に排日侮日の本拠、國都南京に於て皇軍將兵が光輝ある新春を迎ふるに至つた事は、實に未曾有の欣快事と云はねばならぬ。
而して此間、我が軍犬は如何なる役割を演じたであらうかとは吾等「軍犬報國」の志に燃ゆる者の斉しく知らんと欲する處であるが、今回の事變は名は事變と云 ふものの、戰闘が豫りに広大で、使用兵力亦甚しく厖大であるが爲め、軍犬の活躍などは之に覆ひかくされて、實情以上に吾々の耳に入らないのは已むを得ない 處である。
併し、仔細に戰場からの諸情報を點檢するに、我が軍犬は更に想像以上の活躍をなし、皇軍戰勝に寄與しつゝあることが發見され、頗る欣快に堪えないものがある。かの北支戰線に於ては非常に迅速な作戰であつた爲め、軍犬などは之に追随し得ない場合が想像され、又上海初期の作戰にあつては、縦横のクリークに依つて軍 犬が活躍する上に甚だ不利な情況であつたと云ひ得るのに、尚且つ豫期以上の好果を擧げ、赫々の武勲は實に枚擧に遑ない程である。而して今後の戰局に於ては、軍犬の最も得意とする場面が此處彼處に現れ來る事は想像に難くないのであるから、より一層の成績を擧げるには必然であると信ずる。
尚ほ、この事變に依つて世界平和の基礎工事は決して完成したものでなく、國防力の充實は愈々怱諸に付し得ない情勢下にあるは茲に贅言うを要せざる處である。
特に吾等の念頭を離れざる對○戰争に於ては、彼の歐洲大戰に起つた塹壕戰の多く起ることが想像され、それが軍犬の最も活躍し易い情況であるだけに、今後益々軍犬資源充實の不可欠性は増大するものと断ぜざるを得ないのである。
こゝに資源の充實とは何であるかと云ふに、決して數のみの増加ではない。
質の伴はない増加は資源の衰微を招き堕落せしめるもので、今次の事變には相當多數の軍犬が各種の用役に服してゐるが、資質劣惡、訓練未熟な軍犬は寧ろ軍行動の上から足手まとひになつたと聞いてゐる。少くとも未訓練の軍犬は緊急の用に全然たゝない事はこの半ヶ年の經驗が充分證明して餘りあるのである。資質の向上、特に訓練の普及、これは實に軍の意圖を翼賛し、軍犬報國の熱意に燃えて奮ひ起つた帝國軍用犬協會に課せられた一大案件である」
陸軍省馬政課長 陸軍騎兵大佐 栗林忠道『迎春所感(昭和13年)』より

栗林忠道が想定した「對○戰争」は現実のものとなり、昭和14年にはノモンハン事件が勃発。今度は日本軍側も多数の軍犬を投入しています。

「昭和十四年四月十一日、我部隊は重任を拝し、渡滿以來山村の地に警備の任に在りましたが、東亜の風雲急を告るや、斷乎として起ち同年八月二十一日勇躍征途に就いた軍犬トミー號も亦其の名、世界に知られたる當時猪鹿倉部隊通信班軍犬として征途に就く。
同年〇月〇日、天鎮付近の戰闘に於て夜間部隊誘導犬として我部隊の急を救ひ、軍の作戦に有利を與へた。
○月〇日、大同付近の戰闘、〇月〇日、鐡角嶺の戰闘、同年十月十日原王鎮付近の戰闘、〇月〇日忻口鎮付近の戰闘、同年〇月〇日太原付近の戰闘、〇月〇日晴の太原入城にも、隊の名と共に軍犬トミー號の名も輝きました。
昨年八月、ノモンハン事變に再び志賀通信班長の指揮下に入り、酷暑、炎熱と戰ひ、ホロンバイル草原、ハルハ河畔の附近の戰闘に於て良く傳令犬の任務を完うし、名聲を博し、十月原駐地に歸還しました。

○月〇〇日
柏部隊中出隊軍犬係 八子武」


関東軍軍犬育成所では、ノモンハンにおける事後調査と評価に取り組みました。下記はその一例。


「傳令用首輪の信書嚢を大にするを要す。本戰闘間要圖其の他多數の書類を同時に挿入せられたる結果、現在のものにては形式的なる感あり。

駄載具を小さくするを要す。

之を要するに本戰場は附近一帯コロンバイル平原にして、起伏甚しく且所々砂丘地帶あり。夜間の兵連絡には方向維持困難にして諸通信機関亦敵砲、空爆撃等に依り破損頻發の状況にして、軍犬に期待せらるるを尠しとせず。之が給養前述の如きも良く補助通信として其の任務を遂行し得たるは軍犬兵並に軍犬との精神的神話の及ぼしたる影響絶大なるものあり。

戰場に於て各級幹部より軍犬の將來戰に於ける必要性を叫ばれ、軍犬に對する認識を深め、戰場に於て常に賞賛せられ居りしは軍犬係將校として欣喜たるものあり(関東軍軍犬育成所)」


しかし501部隊が作成した研究レポートを、関東軍上層部は今回も黙殺。満ソ国境の最前線は悲惨な状態のまま放置されます。

満州国の隣で日中戦争が泥沼化する中、昭和16年には太平洋戦争へ突入。満州での教訓が活用されないまま、更に強大なアメリカ軍K9との戦いが始まりました。

「ラツキ號は既に事切れてゐた。白眼を釣つた苦しさうな死顔だ。
―これで二頭目―
私はうしろで鼻をすゝり上げる係兵山田の聲を背にして、こんな場合に人間としてをこるべき筈の無い、むしやくしやした、憤りにも似た感じを自分が抱いてるのに自分で驚いた。
そして山田に怒鳴るやうな調子で「仕方無いのだ、運命なんだよ。蟲に害されてるのはラツキばかりではないのだが、ラツキには運命が無かつたんだ。今更悲しんだつて仕方ない。皆んなを呼んで來い。それから渡邊に途中炊事に寄つて犬が死んだから肉があつたら少しでいゝからと云つて貰つて來るやうに云へ」と私は自分の側から一刻も早く山田が去るやうな口調で命じた。
午後、大隊長殿の許に報告に行つた。温情豊かな、特に活兵器軍犬に對して、部隊では一番認識理解してくれる大隊長殿は心から悲しんでくれた。
そして早速十數里離れた處に、一人しか居らぬ獸醫官殿に電話した。
「困るじアないか、優秀な軍犬が皆な次から〃と倒れていくではないか。蟲下しは未だ來んのか?何んとか早くせにや不可んネ」
それに答へる獸醫官殿は非常に恐縮してるやうだつた。
「無言勇士ラツキ號之墓」
大隊長殿の重々しい、太い筆による墓標が早や夕暮を告げる、丘陵の上に一ケ月前にやはり同じ病氣で(條蟲、十二指腸蟲寄生)死んだ、黑狼号と並んで雪を掘上げられ深くうまつた。
十五名の軍犬兵は、誰一人口をきく者もない。松の枝が二本墓標脇にあぶない安定でさゝつてる。山田が上げた花代りのものだ。その中間に肉が無くて、これも代用のにぼしが寒さうに粉雪に吹かれて供はつてる……。
床に入つたがなかなか寝られぬ。ラツキ號の確實な基本訓練が一課目毎に、ありし姿のまゝ私の神經をゆすぶつてる。
彼のノモンハン以來の勇者である、これらの軍犬が人間世界に不朽の功を、なんら一つ示さず、次から〃と散つていつていゝのだらうか……。
それも單なる寄生蟲の為に……。
私は内地のS種が贅食と、人間に寵愛の限りをつくされてる姿を思ひ浮べ、同種族の爲大いに呪つてやらうと思つた。
哀れな勇者よ!今少しの辛抱だ。
蟲の爲に苦しからうが、今少しの……」
満州○○部隊 おのせ生『軍犬日記(昭和16年)」より