畜犬の登録が始まったのは江戸時代から。生類憐みの令が有名ですね。
それでは近代日本ではどうだったのか、明治初期における畜犬行政の一例を取り上げてみます。

帝國ノ犬達-悪犬打取條例

近代日本における畜犬取締で最初のモノは、明治6年の東京府畜犬取締規則だとされています。
こういう、何でも東京限定で語ろうとする「日本畜犬史」の態度は何なんですかね?
近代日本の畜犬界とは、全国47道府縣および樺太、臺湾、朝鮮半島、満州國を含む巨大なモノでした。その全てを東京視点で説明しようとするのは余りにも乱暴です。
最初から「東京の畜犬史」と名乗るなら理解もできるのですが。

で、畜犬取締のお話。
日本各地で行政が畜犬取締に着手するのは、廃藩置県のあった明治4年頃のことです。

冒頭の画像は、明治8年9月に京都府の槇村正直知事名で出された悪犬打取りの通達。
それ前、明治5年と6年には既に取締令を公布していたことが書かれています。通達を重ねたのは、よほど飼育マナーが悪かったのでしょう。
お上からの警告は一向に守られなかったらしく、遂に京都府側がキレます。
こうして出されたのが京都府令書明治8年9月の番外32号。
ナカナカ興味深い事柄が羅列されており、明治初期の飼育事情を知る上でも貴重な史料です。

犬の鑑札や畜犬取締を邏卒(後の警察官)が担当するのも、明治初期からだったんですね。
明治から昭和の敗戦にかけて、警察の畜犬取締業務には飼犬登録や狂犬病豫防(及び狂犬病感染犬の駆除)、畜犬税未納者の摘発も加わります。

戦前の場合、犬を飼う人は最寄りの警察署へ畜犬登録や畜犬税の届出をします。ついでに狂犬病豫防注射も受け付けていました。
経済的な理由で、犬税を払う余裕がない家庭も数多くありました。
その場合、未納税犬は野犬扱いとなります。
見逃してくれる警官も多かった様ですが、融通の利かない警官がいた場合、地域の未納税犬を一斉摘発して殺処分してしまうことがありました。
その過程で、地域に根付いていた和犬の系統が幾つも消滅してしまったのでしょう。

山梨県で甲斐犬の初調査があった際も、山奥へ現れた安達検事と警官を見た住民が「未納税犬取締だ」と勘違いして猟犬を隠してしまったという笑えないエピソードがあります。
「検事は猟犬を見学に来ただけだよ」と説明した途端、愛犬を連れた人々がゾロゾロ現れたとか。
これが、甲斐犬のデビューだったりします。

明治中期より、大量の犬を駆除する場合は警察が野犬駆除業者へ業務委託するようになりました。
駆除された野犬の遺骸は化成所や皮革業者などへ払い下げられます。それらは、皮革製品や肥料(一部は食肉)としてリサイクルされていました。
しかし、「狂犬出現!」の通報があった場合は駆除業者を呼ぶ暇もなく、警官が緊急出動する訳です。
狂犬病対策は命懸けであり、狂犬駆除の際に感染して亡くなった警官も実際にいました(治療でパスツール式豫防注射はしていたのですが、このケースでは注射の効果が無かったそうです)。

きちんと調べれば、明治初期の畜犬取締令は他にもあるんでしょうね。
そういったモノを発掘するのが日本畜犬史を語る人の役目だと思うのですが。


帝國ノ犬達-畜犬取締

帝國ノ犬達-畜犬取締