日本のシェパード界は東京が牽引して発展してきたようなイメージがあります。
事実、シェパードの飼育者はダントツに多かったですし、NSCやJSVといったシェパード登録団体も東京を中心に活動してきました。

しかしそれ以前、関東犬界は大正12年の関東大震災で一旦は壊滅しています。
震災以降、洋犬輸入の玄関口は横濱から神戸へと移りました。
情報は関東へ集まり、良犬は関西へ集まる。
この状況は「関東の人が審査し、関西の犬が受賞する」と揶揄されるようになりました。

それでは、初期の日本シェパード犬界に関する解説をどうぞ。



日本のシエパード犬界を横に各地方別に語るとすれば、まづ関西地方を挙げねばなりません。
関西はシェパード犬発展の地であり、その後もずつと中心地帯の声価を維持して今日に及んでゐます。

神戸
初期時代には船員に伴はれた犬がまづ神戸に上つたので、同地がシエパード犬の本場と思はれたのは當然です。
殊に初期の終りから第二期の初め(大正末より昭和四・五年)にかけて、神戸では永田信雄氏が犬を連れて来る船員の元締となつて、各方面の需要を満したもので、東京の熱心家も米國系ではあき足らぬ人達が、神戸まで屢々犬探しに出掛けたものです。
その揚句昭和五年森本元造氏がビツツオを直接獨逸から輸入して、愈よ神戸の声價をたかめ、以来続々名犬が森本氏の手を経て輸入され、蕃殖も行はれて、昭和六・七年の森本氏のコーベ犬舎は恰も後年の一楽荘犬舎の如く、S犬界に圧倒的勢力がありました。

大阪
大阪では故宮川覚氏が森本氏の輸入した名犬を次々に譲受け、盛んに蕃殖を行つて、昭和八・九年頃はホルカー、ホルストの一流種牡を初め、輸入名牝も五、六頭を要し、そのテンペルフルス犬舎は一世の憧憬の的でありました。
これに次いで大阪では齋藤忠一氏が名犬を次々に輸入して知られ、その他大阪には輸入犬の飼育者が多数あり、顔触れは追々変りましたが、現在なほS犬の中心地大阪の名を恥しめずにゐます。
一方神戸では須磨の曾根慶次郎氏がハラス・V・ウインヘルド、ハラス・V・ニニベの二輸入牡犬に輸入牝犬数頭とドーベルマンの優秀犬を飼ひ、森本氏に次いで知られ、又もと船員の森内隆廣氏は犬の学校を経営し、訓練犬カール・V・ヤマトランドを映畫等に出演させ、當時犬に鳴らしたものです。
それよりやや遅れて山埜新太郎氏はバロン・V・D・ドイツチエンウエルケン及びダツクス・V・ベルンをもつて神戸のために気を吐きましたが、その後はS犬の草分けと云はれた神戸としては些か淋しい現状であります。

西宮
殊にあの昭和八・九年頃の阪神間の西宮を回想する時、うたた感慨無量のものがあります。
そこには實に空前絶後とも云ふべき大犬舎が二つまで忽然として出現したのです。
その一つは今も名の残る田村駒次郎氏の一楽荘犬舎 、他は田中政芳氏の城山ケンネルでありました。
一楽荘は昭和八年甲子園寄りの松林中に建築を開始して翌九年に完成しましたが、まづ第一に當時の最大良犬ウツツ、ゴードを入手。
次いでジーガー・オデインを獨逸より迎へ、同時に犬の管理者として獨逸よりカール・ミユラー 氏夫妻を招聘しました。
その規模の大なることは全く空前絶後でありまして、その後オデインの父犬クルト、ジーガー・フツサン等も参りましたが、日本に獨逸ジーガーの来たのはオデインとフツサンの二犬のみで、その両犬が同時に一楽荘犬舎に納つたのですから、それ丈けでも一楽荘犬舎がシエパード犬界に如何なる地位を占めたかが判りませう。
のみならずなほ新進の種牡犬と多数の優秀牝並にシエパード犬ではありませんが、獨逸使役犬種の中に数へられるリイゼン・シユナウツア種、ボクサー種のジーガー、ジーゲリンをも迎へると云ふ豪勢さでそれ等の一流犬二十余頭で行はれた團體訓練は、實に壮観言語に絶するものがありました。
一方城山ケンネルは一楽荘より少しく早く西宮城山の山腹に講堂のやうな犬舎を造築して、そこに一楽荘のジーガーに對しジーゲリン・ヤンバを初めノルマン、ベロ等の一流犬を次々に迎へ、且つこの特色は軍用三犬種の代表犬を全部揃へたことで、ドーベルマンはリナウン、ジーガー・デジール等、エアデール・テリアはアリストクラツト以下チヤンピオン犬数頭と云ふ、實に當時にあつては他に比肩するもののない軍用三犬種の豪華陣を形成したのであります。
この田村・田中氏並に森本・宮川の四氏はシエパード犬蕃殖の最大功労者として永く記憶されてよいでせう。

京都
京都は大阪よりもむしろ早くシエパード犬に着目し、昭和五年のNSCの第三回展には小谷藤二郎氏愛犬オウグストが堂々入賞してゐます。
その後同好者が殖えましたが、昭和六・七年榊田喜三氏がフロツト・V・ウルフガングスハイム(牡)及びカーチヤ・V・タキシホフ(牝)を獨逸から輸入した頃は多士済々、實に京都の黄金時代で、遥に大阪を凌いだのであります。
しかし大阪方面が急速の発展を遂げたため、決して教徒も低下したわけではありません。
大阪に人気を奪はれた形であります。

白木正光「日本各地の発展状況と特異性」より 昭和18年