「それで、あのカマボコ馬車を家とも旅舎とも頼んで、何處までも何處までも行くのですか?」
「さうです」
「そして、村落なんかはひとつもないのですか?」
「村ツていふのはありません」
若い學士Kはかう言つて私の方を見て、「時々蒙古包と言つて、蒙古人の小屋がありますが、そこに泊めて貰うこともあります……」
「何しろ、行つて見たものでなければ、想像は出來ませんよ。全くの沙漠ですから。全く見わたすかぎり山も何もないのですから―」
「馬賊とか土匪とかいふものゝ恐れはないですか―」
「あゝいふ沙漠地に行つては、何もありませんからな。馬賊などのゐるのは、また村落があつたり人間がゐたりするところですよ。奥に入れば、もうそんなものは見たくも見られませんよ。全く安全ですよ。
何しろ蒙古に入つては、金は役に立たないんですから。物々交換ですから。だから、そつちへ旅行する時には、藥だの菓子だの、いろんなものを持つて行くんです。
蒙古で一番厄介なのは、犬ですね。蒙古包には屹度一疋づゝ大きな奴がゐますからね。それが中々獰猛で、あやしいものを見ると、吠えつくんです。こいつが一番閉口です」
「しかし、危險といふほどでもないんでせう?」
「さうです。飼主が叱ればすぐ黙つて了ひますから……」
「それで、さういふ風にして幾日も旅行するんですか?」
「さうです。五六十日ぐらゐ行つて來るんです。今年も秋になつたら、ちよつと出かけて來やうと思つてゐます。初めの中は、何だかさびしい氣がしましたが、今では却つて樂しみです。のんきなもんですからな。
新聞を二ヶ月も見ずに暮らすんですからな。全く世間の外に出たやうな心持がしますよ。
蒙古人ですか。存外親切で、決して敵意なんか持つてゐません。かれ等は皆な遊牧の民ですから、羊や豚がその財産で、それに當てがふ草がある中はそこにゐますが、それがなくなると、何處へでも行つて了ふのです。のんきなもんです―」
田山花袋『滿鮮の行樂(大正13年)』より

帝國ノ犬達-蒙古犬
内モンゴルのパオで飼育されている蒙古犬(関谷昌四郎陸軍獣医正撮影)

日本に羊が渡来した6世紀以降、牧羊が栄えることはありませんでした。
羊がいなければ、牧羊犬を交配作出する必要もありません。日本の牧羊犬史は近代から始まり、規模を拡大することなく終わってゆくのでしょう。
いっぽう、「牧畜発祥の地」のモンゴルでは羊の遊牧が盛んであり、その文化は中国東北部にまで及んでいました。
大陸へ新天地を求めた日本人入植者も、開拓村での牧畜事業を拡大。満鉄も鉄路愛護村へ羊や牧羊犬を提供し、彼らを後押ししました。
昭和6年の満州事変、そして昭和11年の日豪貿易紛争を経て、日本の牧羊犬界は大陸へと主軸を移していくのです。

犬
満洲の開拓村で羊を監視するシェパード。
田村仠氏撮影(昭和13年)

【満州国の牧羊犬たち】

「牧草のある所に着くと、終日自由に草を食べさせたり水を飲ませたりする。追手が小高い所に立って大きな聲で呼びながら鞭を高く上げると、馬は一匹づつ其の前を通る。其所で一々頭數を調べて追って歸るのである。
羊を飼ふのは女や子供や老人などの仕事になってゐる。鞭を持った女や子供が妙な聲を出して羊を呼びながら追って行くのも面白い。犬もそれにまじって追手の役目を勤める事がある。列をはなれた羊があると、犬は吠立ててそれを整頓する。蒙古人の生活は總べて家畜本位である。
「お宅の羊は何匹子を産みましたか。」
「今年の牧草の出來ばえはどうですか。」
などと言ふのが、彼等の日常のあいさつになってゐる」
南満州教育会『蒙古の牧畜』より

モンゴルのダルハン種畜場で、羊を追う牧羊犬(撮影年不明)

モンゴルの牧羊は、元々このような遊牧が中心でした。
しかし中国東北部の権益を巡って各国が勢力争いを始めると、現地の牧羊事業も近代化。満州産の毛皮や羊毛を狙って、ロシア系、ユダヤ系、中国系、大きく遅れて日系の毛皮商が続々と参入します。
そして昭和6年に満州事変が勃發、翌年には満州国が成立し、日本人入植者による牧羊事業も拡大していきました。
満州国の牧羊事業には、日本とオーストラリアの貿易摩擦も影響していました。
昭和11年、イギリスの画策などによってオーストラリアとの日豪通商条約交渉は難航。対抗策として、通商擁護法による豪州産羊毛輸入統制とステープルファイバー(レーヨン)への転換がはかられます。
この日豪紛争は短期間で解決されたのですが、英豪に依存する羊毛輸入からの脱却が進みました。
オーストラリアに代わる新たな羊毛生産地として選ばれたのが、昭和7年に誕生した満州国だったのです。
こうして、日本の牧羊事業は大陸へと移っていきました。

満州国において主役をつとめた牧羊犬は、コリーやケルピーではありません。
「王道楽土の牧羊犬」は、国策として飼育が奨励されたジャーマン・シェパードでした。

もともと、満州地域ではたくさんのシェパードが使役されていました。
南満州鉄道株式会社(満鉄)の宇佐美理事が、社内の反対を押し切るかたちでシェパード36頭の導入を決定したのは昭和4年のこと。
DSV(伯林シェパード犬協會)を通してドイツから輸入された犬は、満鉄が所有する撫順炭鉱の警備犬として採用されました。
当時の撫順炭鉱では毎晩のように石炭泥棒が侵入し、その被害は相当額にのぼっていました。
相手の数が多過ぎるので警備員では太刀打ち出来ず、アベコベに脅迫される始末。そこで炭鉱警備犬の導入と相成ったワケです。
この炭鉱警備犬の能力は絶大で、盗んだ石炭で営業していた周囲の鍛冶屋がバタバタと潰れていったとか。

牧羊犬
こちらは満洲ではなく、中国の牧羊事業でシェパードを使ってみたの図

コソ泥対策の炭鉱警備犬は、後に対ゲリラ戦用の鉄道警備犬へと発展していきます。
満州事変の前後より、抗日勢力による満鉄への攻撃は激化。満鉄側は防衛策として装甲車輛の導入や満鉄自衛隊の編成、そして社線警戒犬と国線警備犬の導入に踏み切ります。
周水子満鉄警戒犬訓練所をはじめとする訓練・蕃殖施設も各地に設置されました。

更に、満鉄沿線に「鉄路愛護村」という防衛ゾーンを配置することで自衛能力の強化がはかられます。
鉄路愛護村に満鉄が供給していた「支給物資」の中には、二種類のシェパードが含まれていました。
それが、「愛護村警備犬」と「牧羊犬」です。

広大な満洲では大規模な放牧が可能でした。満鉄では、それまで食肉用だった牧羊を綿羊へと転換。鉄路愛護村での牧羊事業も推進します。
これら愛護村住民を、匪賊や抗日ゲリラの襲撃から護るのが「愛護村警備犬」。
愛護村への入植者へ貸与されたのが「牧羊犬」でした。
こうして、牧羊犬としてのシェパードは満州の地で「職場」を獲得したのです。獰猛な満州犬やオオカミから羊を護るためにも、警戒訓練を受けたシェパードは適任でした。
日本からも牧羊犬が購買調達され、満洲へと送り出されます。
満州へ渡った牧羊犬のうち、満州国の宣伝媒体で活用されたのが「エディ」と「ブリギッテ」。彼らについては、詳しい記録も残されています。

牧羊犬
昭和13年、田村氏撮影による満州国の牧羊犬(エディなのかブリギッテなのかは不明)。この写真は、満州国の宣伝素材にも用いられました。

「待ちに待つた牧羊犬、エデイとブリギツテが去る十六日無事元氣にて到着致しました。
四國(※愛媛県立種畜場)を送つたのが十一日、新京には豫定が一日遅れて十四日に到着致しました。新京で一日休養させまして、十六日朝當場に到着致しましたが、案外元氣でしたので驚いて居ります。
送る方法は御支持通り氷嚢二個に水を満したものと、鰹節二個宛を入れて送らしたのですが、新京に着いた時には鰹節は二個共ありませんでしたが、氷嚢は期待に反し其儘になつて居りました。
殊にブリの方は三月三日に種付を致して居りまして、送る時期としては餘り良くなかつたかも知れませんが、外見上の状態には何等の變状も認められませんでした。
何れにしても三日や四日の處なら間違ひないことだけは證明出來ました。
一日休養させまして翌日から緬羊を追はして居りますが、場所は充分ありますし、頭數も一五〇を一群として居りますので、丁度良いと見え、きれいなトロツテングで追つて行きます。久し振りでの羊との對面故、未だ羊を見れば夢中になつて命令が徹底しません。然しもう少し犬が落着いて來れば、牧夫にまかしてしまふ積りで居ります。
最近狼に羊が襲はれますので、早くなんとかしたいと思つて居ります。
心配して居りました蒙古犬も案外弱く、二匹にはとても相手になりません。体も餘程相違あると思つて居りましたけれども、反つてエデイの方が大きい様にも見えますから安心して居ります。
先は右近況御報告迄 敬具」
田村王爺廟緬羊改良場長(昭和12年)

愛媛県から興安省へ移動したエディとブリギッテは、王爺廟緬羊改良場での牧羊勤務をスタートします。

「前略、次の犬のことを御報告致します。會誌には何れ改めて今少し纏まつたものを書くとして、一寸中間報告だけを致します。
其の後の犬の動静は至極順調に行つて居ります。
エデイ號は御承知の様に四國で随分人を噛んで村人の恐怖の的になつて居たので、此方に來てからも如何しい風体の多い滿洲のことですからどんなに噛むか知らんと思つて心配して居りましたが、それも全然杞憂に過ぎませんでした。
動物に對する彼我國民性の根本的相違の反映とでも解す可きでせうか。
ブリギツテ號の方は妊娠、分娩、哺乳とずつと使えませんでしたが、近日中に仔犬を離乳しますから大いに使う豫定で居ります。
不安に思つて居りました無智な土地の人々が果してS犬を使ひ得るかどうかの點ですが、人間は人間だけのことはりますので全然心配無用でした。否寧ろ動物使役に驚く可き天稟を有するとさへ言へます。
四國に居る間犬を二人の牧夫に託したのですが、馴らすのに最小限度一月はかゝつたものが此處の支那人は僅か二日で完全に自分の犬として了ひ、今では立派に使役して居ります。
犬は今迄相當羊にも馴れて居た筈で、假令土地と羊が變つて噛む様なことはないと思つて安心して居たのですが、最初の間は羊群を見ると非常に興奮してよく噛み付き困りました。
併し最近は噛むことも少くなり、適時吠える様になりまして、殆んど理想的になつて居ります。
四國に居た時も殆んど完全なものと思つて居ましたけども、今になつて考えて見ると、随分幼稚なものだつた様な氣がして、あれで得意になつて居た自分が恥しい様な氣がします。
エデイ號の方だけは斯うして羊群に付けて夜は小生の官舎で番犬としての役目を果して居りますから、四六時中作業犬としての立派な任務を果して居るわけです。
今羊群が一群二〇〇頭、平均で五、六群居ります。又近い内に更に二群増えることになつて居りますけども、犬がたつた二頭ですから大不足を來して居るわけです。來年は最小限度五頭の犬を手に入れ度いと思つて居ります。
多少豫算を取り度いと思ふのですが―せめて輸送費丈けでも―果して通過するか何うか判りません。通過しなくとも數頭は是非揃へ度いと思ひます。何うか何分の御援助の程願ひます。
先般御來滿の節永島司長の處で餘程宣傳下さつたものと見え、丁度五月上旬に當場に司長自身見えられ、色々犬のことを話して居られました。丁度良い機會と思ひましたので、護羊犬の作業を御目にかけた處が犬が手品でもする様に見えたらしく驚いて居られました。
今度滿洲國も機構改正になつて小生の方も水島さん、關口さんとは離れて新に出來た畜産局に所属したのですが、此處の犬は色々な人が多數見て歸つて居りますので、一般に非常に有名になつて居るさうです。
從つて生れても偉い方々から所望されることでしようから中々思ふ様に増加せんことゝ思ひますが、然し飽く迄も牧場關係に擴めることをモツト―としたいと思つて居ります。
此の間新京の軍犬の理事で小秋元と云ふ方が見え、エデイ號の仕事振りやら体型を見て、御世辞かも知れませんが「蒙古の奥に斯んな素晴らしい犬が居るとは思はなかつた。これを新京に出せば必ず一等になる」と云ふ様な最高級の讃辞をもらつて、例へ御世辞でも悪い氣持ちは致しませんでした。
先は右思ひの儘を走り書き致しました。惡しからず御判讀下さい。
酷暑の折から御自愛の程祈ります。敬具。
興安南省王爺廟緬羊改良場 田村仟」
『蒙古王爺廟通信(昭和12年)』より

満州の緬羊事業関係者からは、日本シェパード犬協会への協力要請も打診されています。
何で満州軍用犬協会に協力を求めなかったのか、その辺の理由は不明。

シュテファニッツにならって牧羊犬を熱心に研究していた帝国軍用犬協会や日本シェパード犬協会と違い、満州軍用犬協会はドッグレース事業に注力しておりました。

「次に私し共兼てS犬愛好者として牧羊は聯想致して居ります。
實は二週間程前に城外に〇〇訓練に出掛けました時、鐘紡の経営する工場の付属牧場が在つて同封の写真の如く百五十から二百位の羊群を追て支那人牧夫の朗な姿を視て、HGH(※牧羊犬試験合格犬の略号)を思ひ出さずに居られなかつたので、早速将校の寫眞器を一寸拝借して取りましたから一枚御送りいたします。
就而目下當地も軍用犬協會が民間に出來ました事は先日御知らせいたしたる通にて今後の發展も想像されますと共に、平和の完成の暁は必ずこの牧羊犬の出現を今から豫想せずには居られません。
内地と異て緬羊飼育も今後改良と發展を期す爲に今日より軍として省政府を励まして種畜場まで作たので、夫にともなつて必ずHGH犬の必要も認られる事は至當と存じます。現實に羊群を追ふ支那のすがたを見た時は何となくなつかしささへ覺へ、しばらくは視て居ました。
二年程前浅田様のお座敷にてS犬の生立から成犬に到るまでの獨逸の活動寫眞を見た時の事など思ひ出されて、近き將來此地に真實のHGHが出來るかと思いました。
鐘紡以外には支那人でも五十、百位の羊を飼て居るのが相當にある様子です。御協會を通じて會員御一同様に御健康をお祈りいたします。
十月七日 小栗錠一」
『北滿便り(昭和14年)』より

しかし、昭和20年8月に満州国は崩壊。満洲へ入植した人々は、悲惨な逃避行の末に故国へ戻っていきました。
その際、満鉄の牧羊犬たちがどうなったかのは誰にもわかりません。

帝國ノ犬達-牧羊犬
農林省種羊場の牧夫と牧羊犬。農林省ということは、大正14年~昭和18年の間に撮影されたものですね(大雑把過ぎますか)。

【戦後の牧羊犬】

敗戦によって、日本の牧羊犬史は一旦断絶してしまったのでしょうか?
実は、途切れることなく継続していました。戦禍が少なかった北海道で、人知れず牧羊犬たちが活躍していたのです。

「雪の北海道!と云はれる此の北國も今年は例年になき暑さが續き吾々を驚かしたが、さすがに秋は早くも訪れて、早朝アデラ・デイザーと共に自転車を走らす私の手に冷たさを感じる。遥かに見える山裾を掩ふ朝霧に朝日が映えて美しい。
九月八日、今日は空知平野の一角、幌倉種畜場を見學し、HGH研究の第一歩を踏み出す日。運動を早目に切り上げて帰宅、犬體の手入れをし乍ら岩見澤の岡川直次氏の來訪を待つ。程無く來られた岡川氏に犬舎を御覧にいれた後、家内と三人で驛に向ふ。
瀧川驛より東北に向つて約十五分、線路の両側の稲は黄金の穂を垂れてこれからの食生活に明るい裏付けをして居る。
種々の迫害や食料難と戰ひつゝ、S犬種保存の爲に愛犬を守り續けて來た。そしてこれからの飼育に光明を見ひ出した今日、この喜びを知る者は一人私のみではあるまい。
幌倉驛に下車して北に向つて約十分、坂を登ると正門に着く。事務所への通路に添つて植へられた空衝く様な落葉樹並木の向ふには悠々と草を食む乳牛の群とコリー種と思はれる一頭の牧畜犬が見える。
羊のみと思つて來た此の牧場に澤山の乳牛が居る事と、牛にも牧畜犬を使つて居る事に非常に興味と希望を持ちつゝ事務所に辿り着く。
受付の女の子に名刺を渡して豫め昨日電話で連絡した來訪の意を告げる。先づ地方技官の吉田稔氏の許に案内され、初對面の挨拶後改めて牧畜犬の日常を見學に來た旨を申し上げる。
「それでは實際を見て戴きつゝ御話しよう」と早速羊群の放牧されて居る草原に御案内下さる。緩かな南斜面の見渡す限り果てなき草原遥かに見える山々は未だに消えぬ朝霧の中から頂上を清く澄んだ青空にクツキリと表して居るのも清々しい。
岡川氏と私とは交々吉田氏に尋ねる。
「先程事務所の前に乳牛が澤山放牧されて居りましたが、こtらには羊の外に色々飼育されてゐるのですか?」
「そうです。勿論羊が主ですが、牛、豚、鶏、あひる、鵞鳥、蜜蜂、と云ふ様になんでも飼育して居ります」
「羊はどれ位居りますか?」
「千頭足らずでせう」
「牧羊犬は何頭位居りますか」
「作業に使用して居るものは十二、三頭位ですが、大半老齢の犬ばかりです」
「コリー種ばかりですか?」
「そうです。他から思ふ様に血液が求められず、その蕃殖も又飼育も思ふ様に行きませんので、體型も小さく次第に低下して來た様ですね」
と、行く手には一群の羊が三三五五草を食んで居るのが見える。
「此處に居る羊は何頭位ですか?」
「222頭です」
「此の犬はコリーの純粋ですか」
「そうです。私が此處に來た頃は三才の若犬でしたが豪州から昭和11年に輸入したキングと云ふ牡の仔で、今年11才です」
「老犬とは思ひましたが11才とは元氣ですね」
「併し作業はつらそうです」
「毎日作業してゐるのですか?」
「そうです、ほとんど毎日です」
「誰の云ふ事でも聞きますか?」
「全然聴かぬと云ふ譯でも有りませんが、何んと云つても担當者の云ふ事は一番良く聴きます。担當者と一處に居ては他の者が何んと云つても駄目ですね」
「山下さん、一つ作業を見せて上げて下さい」
「トムは私の担當ではありませんが、割合に良くなついてゐるのです。―移動をやらせませう」
と、その附近一ぱいに三三五五草を食んでゐる羊群の方を向いて「トム!!」と云へば今迄家内の前にうづくまつて居た老犬の面影は何處へやら、キツと身構へて指導手を見つめるその瞳。
「ゴウ―!!」
羊群の一角を指して命ずれば一散に右手依り大きく迂回して羊群の裏手に廻る。羊は驚いて走り出す。
指導手は視符と聲符とを以て犬をリードする。犬は段々と遠くの羊を左手に誘導する。と、その内に犬はどうしたのか追ふのをやめて指導手の近くに走り帰つて途中で止る。指導手は再び視符と聲符を與へる。
「どうしたのですか?」
「年を取つたので目も遠く見えなくなり、耳も聴えないのです。それで遠くなるとあゝしてわざわざ聴きに來るのですね」
その間にも羊群は左へ左へ移動する。と犬は又帰つて來る。指導手は再び命令を與へる。
犬は真直に羊群の真中に飛び込む。羊は移動を止めて四方に散る。指導手は再び犬を呼び返す。犬は足許に帰つて休止する。疲れたのか長々と延びて又元の老牡の姿に還える。
私はこの老コリー犬の若犬に還つた様な溌剌とした作業振り、緊張し切つたその態度、そして作業慾に燃えた動姿の美しさを見遁す譯にはいかなかった」
堀川源蔵『HGH見學記』より 昭和22年

この記事を書いて分かったのは、我が国の牧羊犬史はコマ切れの断片しか見つからないこと。
外国の牧羊犬史は詳細なモノが幾らでもあるのに……。
コリーだのコーギーだのシェパードだのと多種多様な牧羊犬種が飼われている割に、日本牧羊史において彼らが担ってきた役割についてはよく分らないんですよね。
まあ、外国ばかり注視して自国の歴史が疎かになっているのは牧羊犬に限った話ではありませんけど。

牧羊犬の日本史を調べるため、犬ではなく羊の史料をあつめる羽目になった今日この頃。
しかし羊の史料には羊の話しか載っていないので、その中から犬の記録を拾い出すのは結構大変なのです。
だから、この記事も運がよければそのうち完成すると思います。