2016年の〆となった映画、『この世界の片隅に』。私も観に行きましたが、原作の世界観を綿密な考証で肉付けした期待以上の出来栄えでした。

隣で上映されていた『君の名は』と違って観客の年齢層は小学生からお年寄りまで幅広かったのですが、皆さん楽しまれていた様です。

 

映画自体はちいさなエピソードがテンポよく積み重なっており、130分近い上映時間も無問題。ただ、リンさんとの交流や鬼イチャン冒険記が大幅に削られたことは、やはり残念でした(削らざるを得なかった事情や、それで説明不足になった部分を批判されることが残念という意味で)。

戦前の広島や呉の再現度にも、前評判どおり驚かされました。何気ないワンカット毎に費やされた取材の量を想像するだけで、瞬きするのも勿体ない気分になります。

「種々雑多な記録を集め、過去を再現する」というのはこのブログでも目指しているんですけどね。レベルが違い過ぎて足元にも及びません。

 

だから映画の感想も、モノ作りやレポート作成に取り組んだり、それに伴う資料集めに図書館や古書店を駆けずり回った経験のある無しとかで

「この映画スゲー!!」

「なんか地味な映画だな」

に分かれるのでしょう。

戦時下のホームドラマですから、そりゃあ地味ですわ。まさか、すずさんがB29を撃墜しまくる『最終兵器彼女』みたいな展開を想定していた人はいないと思いますけど。

戦時下の日常を描いた映画に対し、「加害者側の視点がないからケシカラン」だの「韓国の旗が出たから反日映画」だのと、ピント外れの批評をやらかす向きもチラホラ見かけました。ああいう憲兵みたいな思考回路の手合いは、玄関先で説教される北条一家の心境で見守るべきでしょう。

 

妙なトコロで肯かされたのが、すずさんのケガです。

身内に戦傷者がいると、腫れ物に触るでもなく、かといって無神経も許されず、周囲もあんな対応になりますよねえ(少なくとも、祖父が傷痍軍人だった我が家はそうでした)。モチロン本人の心情や怪我の度合いや状況によって、ソレも違ってくるんですけど。

戦時下の日々を丹念に描き出すことは、「そういえばこの当時、自分の祖父母はどこで何をしていたんだろう」と思いを馳せる道標にもなります。時間軸での繋がりだけでなく、あの時代を水平展開もできるのが、この映画の素晴らしさなのです。

 

EDが流れ始めても、席を立ったのはごく僅か。残りの人は座敷童子の伏線が回収されるまで、シラミ少女の成長を見守っておりました。

そんな感じで個人的には大満足。ついでに何年振りかで『夕凪の街 桜の国』を読み直し、暗い気持ちになりましたが。

映画の感想は以上です。

 

【戦時の広島犬界について】

 

こちらは横須賀の軍港に配備されていた海軍犬( 『横須賀海軍軍需部軍用犬近況(昭和10年)』より)

 

それでは、犬のブログなので犬の話をします。まずは「公的機関の犬」について。

映画の舞台となった広島県は、日本海軍の犬にとって「発祥の地」であり、日本陸軍の犬にとっては「帰国の最終ゲート」でもありました。

日本海軍犬の歴史は、昭和7年に呉軍需部が火薬庫警備犬を配備したことから始まります。第一次上海事変で陸軍犬の活躍を目にした海軍は、陸軍歩兵学校(千葉県)と青島護羊犬倶楽部(通称TSC・山東省青島)からシェパードを譲り受け、呉において訓練・繁殖に取り組んだのです。

呉の成果を見た横須賀や佐世保の軍需部も、後に独自調達へ動きました(海軍陸戦隊の犬に関しては詳細不明)。
 

検疫
陸軍獣医学校が定めた、戦地から帰国する軍用動物の検疫要領(昭和12年版)
 

そして呉の隣にある似島には、戦地から帰国した兵士、軍馬、軍犬の検疫施設が設置されていました。「戦地の軍用動物は一頭も帰国できなかった」というのは敗戦時のお話で、戦時中は普通に帰国していたのです。

帰国軍犬は似島で家畜伝染病の検査を受けた後、本土への上陸が許可されます。ただし、何らかの感染症が疑われる個体は島内で殺処分となりました(戦時中の似島では、殺処分された軍用動物の慰霊祭もおこなわれています)。

 

「軍港の町」であった佐世保や横須賀では、地元犬界が海軍をイロイロな形で支援していました。呉でも同じだったんじゃないか?と思って広島の畜犬史を調べようとしたのですが、途中で挫折。

広島犬界の記録自体が少なく、組織的な活動を把握できるのは帝国軍用犬協会広島支部(広島第5師団獣医部内)や日本シェパード犬協会中国支部(広島市天満町)、後は日本犬保存会くらいです。

 

シエパードの優秀犬が四國高松方面及び廣島縣下に移動しつゝあることはシエパード界周知の事實であるが、廣島縣大竹一本杉は正にシエパード村の觀があり、軍用犬の資源充實の實際方法に暗示を與へる點から見ても非常に興味がある。
この村は畜犬に實に理想的な土地で、會つてヂステンパーにかゝつた犬がないと云はれる程、環境が犬の生活に恵まれてゐるが、こゝの青年團長格と云つた素封家陣場氏を盟主に、松本端三氏が實際的采配を振ひ、大竹シエパード倶樂部が組織されてゐて、盛んに氣勢をあげてゐる。今や世界的名犬ウツヅ・フオム・フツセン號もこゝにあり、その發展に多大の期待が寄せられる。
一面、軍用犬の畜産的發展と云ふと語弊があるかも知れぬが、とにかく農村の副業飼ひとして括目に値する。そしてよきに付け惡しきにつけ、先覺の模範村となることであらうから、切に正しき發展を祈つてやまない

 

『シエパード村現る(昭和8年)』より

 

昭和4年前後に副業目的で始まったシェパード飼育ブームは、満州事変直後の「軍犬報國運動」を機に急拡大。広島県でも多数のシェパードが飼育されていたということは、それらを支えるペット商、ブリーダー、犬猫病院、畜犬団体などの分厚い基盤が存在していた証拠です。

それら巨大な民間ペット界があってこそ、日本軍は大量のシェパードを15年間に亘って調達配備できたワケですね。

 

帝國ノ犬達-軍用犬展覧会 

 

日本軍が配備した軍犬の大部分は、民間のペットを購買調達したものです。軍部に大量の犬を繁殖育成する予算や人手はなく、訓練済みのペットを購入することで大量調達を可能としていました。

民間ペット界を調達資源母体とするための施策が「軍犬報国運動」であり、軍部と飼主の売買契約を仲介する窓口団体が帝国軍用犬協会。

戦時下の広島県においても、帝国軍用犬協会広島支部による展覧会や審査会が開催されていました。結果として、陸軍に購買されて戦地へ出征したシェパードも多かったのでしょう。

 

犬 

昭和12年度の軍犬購買会は広島市でも開催されていますね。「希望者」とある通り、一方的なペットの強奪ではなく合意による売買契約が原則でした。

いっぽう軍需省(旧商工省)・厚生省による「畜犬献納運動」では、軍需原皮目的でペットが強奪されました。

 

一月二十八日第五師團司令部庁に於ける軍犬購買施行に付いては、陸軍部購買官は午前九時既に出頭せられ、第五師團より獸醫部長外准尉の立會を得て開始、應募犬五十四頭。午前中稟性、體型の檢査を了し、食後(※狂犬病)豫防注射完了の上○○○頭購買に決定。
應募犬中既に南京戰に於て、名譽の負傷を爲し全癒、再び購買に應じたる那智號あり、感動を與へた。
悠々堅忍百年を期す何ぞ壮なる哉、この主人牟田君(九州)滿面美色を浮べ「何分よろしくたのみます。萬物總協力です……」と云つたが、獨り牟田君のみならず軍用犬飼育者の氣持は皆同じである。

 

帝國軍用犬協會中国支部(昭和14年)

 

広島では、満洲鉄路総局の鉄道警備犬も調達されています。

こちらは満鉄独自ではなく陸軍省に仲介を依頼。文中の「購買官細川氏」とは、鉄路総局で警備犬調達業務を担当していた細川伊與三氏のことでしょう。

 

滿洲國の國鉄沿線警備用として這般我が陸軍省を通じ協會に依頼せられた軍用犬の購買に關し、購買官は豫定の通り十三日來廣、軍部側山根顧問、森幹事、濱田嘱託を始め、支部より古川支部長、田頭、芳野、野崎、沖本、濱西、淺倉各幹事と市内廣樂會堂に會し、種々打合せを行つた。

翌十三日購買官細川氏始め、支部役員田頭、芳野兩幹事、濱田嘱託に依り體型、歩様、稟性等に就いて檢査し、特に任務の關係上齒牙の頑健と滿洲の氣候に鑑み、皮膚病の經歴に就いては厳重な試驗を行ひ、三時間を要して正午終了した。
購買成績は左の通り。
一、購買申込數 二四頭
二、書類上除外 二頭
三、檢査缺席數 四頭
四、檢査實施數 一八頭
五、假合格數 十一頭
六、合格後取消 一頭
七、合格犬 五頭
八、購買價格 最高一九○圓、最低五○圓、平均一○四圓
尚ほ、合格犬は十七日午後二時半、廣島驛より輸送した(昭和11年)

 

犬

広島の福山で飼われていた日本テリア(昭和9年撮影)

 

このような公的機関の犬に対し、民間のペットはどうだったのでしょうか?

鳥や昆虫やカブトガニを除き、映画に登場する動物はネコが中心でした。

「ホームズやラッシーのノリで、片渕監督が犬を出してくれるかも……」と勝手に期待していたのですが、犬は戦前と戦後の場面にチラッと写るだけ。すずさんが呉に嫁いだ戦争後期には姿を消しています(同時期のペット毛皮供出運動と関連づけたのかどうかは不明)。

原作を加えても、犬は僅かしか登場しません。鬼いちゃんの出征シーンで旗を振っていたのは、犬なのか猫なのか。

 

画像は神奈川県です

 

では、数少ない「出演犬」について。

一頭はすずがお遣いに出掛ける映画冒頭で、江波の海辺をうろついていた野良犬です(二回目視聴時まではネコかと思ってました)。

二頭目が立耳の雑種犬。戦前の中島本町を、上の画像のような感じでひょこひょこ歩いてました。放し飼いが当たり前だった時代に見られた光景ですね。

 

三頭目が、戦後の呉にいた進駐軍のペット。「ギブミーチョコレート」の場面で、米軍のジープに乗っていたブルドッグです。

フレンチ・ブルドッグの輸入頭数が少なかった近代日本で、「ブルドッグ」とはイングリッシュ・ブルドッグを指しました。英ブルの愛好団体が関東と関西で結成されたのに対し、フレンチブルやパグは愛好家が少なすぎて組織化することすら不可能。

結局、日中戦争が始まる前にペット商のカタログからも姿を消してしまいました。

 

「晴美もあがいなマネをしたじゃろか……(『この世界の片隅に』より)」

 

日本へ進駐した連合軍将兵は、正規の軍犬以外にマスコット犬(要はペット)を飼っていました。敗戦直後の記録を見ると、入手方法は「その辺の仔犬を拾った」とか「日本人からのプレゼント」など様々です。

さすがに、映画のブルドッグは進駐軍兵士がアメリカから持ち込んだ設定なのでしょう。日本のブルドッグは昭和初期で流行が去っており、昭和16年以降は希少犬となっています。敗戦直後(劇中では昭和20年11月のエピソード)の広島で入手するのは難しかった筈。

ちなみに、日本ペット界がブルドッグの輸入を再開するのは昭和25年前後からです。

 

帝國ノ犬達-ミカドケンネル 

昭和15年のペット商カタログより、ブルドッグの最高価格はボルゾイと同じ250円也。意外にも、戦時中は高級犬だったんですね(ポメラニアン、マルチーズ、スピッツは、戦況が悪化する昭和18年まで販売が確認できます)。

ブルドッグの飼育ブームは大正時代に関西犬界から関東犬界へ伝播し、満州事変以降はシェパード、各種テリア、日本犬にその座を奪われて衰退していきました。

 

それでは戦前の呉犬界について。

イロイロ漁ったのですが、繰り返すように記録は殆んど残っていません。

 

四月以來私は所用あつて呉市に數回往復した。

呉は海軍の鎮守府がある丈けに中々活氣に富んだ町である。何時も雨にばかり降りこめられて、用事が済むと這う這うの體で逃げて來るのであるが、五月の初旬久し振で好い暖い天氣にぶつかつた。折角だから博覧會でも見たらと勧めらるゝが儘に、僅かな暇を利用して見物することにした。

第一會場の奥の方に本願寺の出張が出來て居るのが目に止まつた。

善男善女が財布の底をはたいたお賽錢の山、流石は偉いものだと感心した。ずつと中の方へ入つて見ると、親鸞聖人の御誕生から入寂に至る迄の場面が、頗る巧妙に現はされて居るので、宗教心に乏しい者でも自ら敬虔の念にうたれざるを得なくなる。

夫等の場面の中に白犬が聖人の徳を慕つて、彌陀の説法を聞いて居るがの如き光景があつた。聖人と犬、詳しく研究して見たら、唯興味あることゝ思つた。

呉には至る處に荷車を牽かした犬が居る。丁度土佐の雑種らしい。

是れが中々訓練されて居て忠實に良く主人を助け、一生懸命荷物を引張つて居る。そして主人が車を離れる時は、その下に入つてちやんと看守に勤めて居る。

見た處別段立派な犬舎や、營養食も與へられて居る様子も思へない。之れを見た吾々シエパード黨、作業犬云々も聊か恥しい様な氣がした。

六月になつてからも、二度ばかり往復した。

何時も暇がある様で又ない様な、割合忙しい旅行なので、好きなシエパードの姿さへ實はまだ見て居なかつた。夫故今度こそはとJSV(※社団法人日本シェパード犬協会)會員名簿を用意して來た。之れで見ると當地にも會員が二名ばかり居られる。是非一度お目にかゝつて状況を承はり、且又愛犬家にも御紹介を願ひ度いものあと、態々遠方迄お訪ねしたが生憎行違ひで殘念であつた。

呉市にはF氏と云ふ愛犬家がある。

看板こそ掲げては居れ營利主義一方ではなく、從つて造詣も中々深く、又親切に病犬の相談相手ともなつて、よく愛犬家のお話をして居られる。こんな人があればこそ呉市のシエパード熱も、急激に盛んになつたことゝ思はれる。

同氏のお話によると、當地のシエパード犬は、數に於ては可なり居るが、少數の優良のものを除く外、殆んど青島系が占めて居るとのことで、甚だ遺憾に思つた。

所謂禮節の前の衣食時代だと思へば又止むを得ないのである。私は暇さへあればF氏のお店に邪魔をした。

其處へは絶へず色々の人が入つて來る。

或る時島から一匹の小型犬を連れて來て「此犬にはブルが少し交つて居る様だと近所の人が云ひますが、若しさうだとすれば賣つて仕舞ひ度いと思ひます。一寸見て下さい」と眞面目に聞かれた。

そこでF氏もどう答へてよいか、躊躇して居られたので、私はお氣の毒だとは思つたが、正直に教へて上げた方が却つて親切ではないかと思つて、「全く此犬にはシエパードが係かつて居る様です。良い買手があるならお賣りなさい」と即直にお答へした。

續いてF氏も同じ様な意味で親切に教へられたので、大變喜んで歸つて行かれた。

こんな話は此處では決して珍らしくないさうで、海軍の人達が青島邊りから安物を連れて來られるのが、轉々として居るとの事でさもある可きことゝ思つた。だが併し熱心な愛犬家達によつて、先頃シエパード犬の會が造られ、會員も既に百名を突破したとの事で、必ずや堅實な發展が齎される事と思ふ。

 

藤田治夫『近況一束』より 昭和10年7月12日

 

当時の広島県では運搬犬が活用されていたり、海軍によって青島系シェパードが持ち込まれていたりと、ナカナカ興味深い内容です。

「海軍の人達が青島邊りから安物を連れて來られる」とあるのは、山東省青島へドイツ人警官が移入した警察犬の系統。いわゆる「青犬(青島系シェパード)」のことです。

ドイツ直輸入個体が増加した昭和10年、日本シェパード界の黎明期を支えた青犬はモンキーモデル扱いに格下げ。ドイツ直系で箔付けしようとする東京シェパード界では、「青犬は雑種だ」「猛獸だ」「タヌキだ」などと散々な言われようでした。

関東から遠く離れた広島犬界においても、そのようなドイツ盲拝思想が蔓延していたのですね。ヨチヨチ歩きの時代は青犬の世話になっておきながら、全く恩知らずな話です。

同年には青島シェパードドッグ倶樂部が帝国軍用犬協会青島支部へ併呑されて消滅。さらには昭和12年の青島在留邦人一斉退去事件において、青島系シェパードも壊滅します。

それに乗じて青島犬界自体の記憶抹消をはかった結果、日本シェパード界は己のルーツすら辿ることができなくなってしまいました。

 

帝國ノ犬達-犬車

酒樽を運ぶ戦前の輓曳犬(昭和13年の東京にて) 

 

パトラッシュのような荷車運搬犬については、モータリゼーションが到来する前の日本でも普通に見られた光景でした。荷役馬を用いる程ではなく、かと言って人が担ぐには多すぎる量の荷物は犬に曳かせていたワケです。

南樺太・北海道・東北エリアの荷役犬はカラフト犬だったのですが、中部~中国地方ではポインターや土佐犬が中心でした。これらの荷役犬も、戦時中には畜犬税を免除(=野良犬扱い)され、毛皮供出の対象となってしまった地域もあります。

広島を含む各府県の犬税制度は下記のとおり。

 

畜犬税の賦課は畜犬の統制上必要なる事項であると共に、一面無用畜犬飼育の惡風を矯正して畜犬の頭數を減少せしめるの効果がある。
從つて飼料の消費の減少を來し、狂犬病の豫防に寄與するのみならず、他面地方税の収入が増加の一方なるを以て、現在に各府縣廳に於て實施してゐる。
その課税法は區々にして一定してゐない。
即ちその税率も府縣に依りて一圓乃至十圓に至るの大差がある状態である。
例へば京都、群馬、奈良、岩手及び青森の諸縣に於ては獵犬と愛玩犬に區別し、高知縣に於ては獵犬、愛玩犬及び鬪犬に區別し、京都、兵庫、群馬、千葉、奈良、山梨、岐阜、岩手、秋田、山口、徳島、高知の諸縣に於ては獵犬、愛玩犬、鬪犬と其の他の犬とに區別し、廣島県に於ては使役犬と其の他の犬に區別してゐる。
只宮崎縣のみは戸數割負擔額によりて賦課税を區別してゐる。
而して之等賦課の税率を見るに、一般に役用及び愛玩用犬は高く、其他のものは低いのを見る。
只例外として東京府、神奈川縣、大阪府、福岡縣、熊本縣、山梨縣、宮城縣、石川縣に於ては軍犬候補檢査に合格せる犬に對しては免税の特點を與へてゐる。
要之賦税の目的は單に税収のみに重點を置くことなく、畜犬の種別に要點を置くべきである。

 

帝国軍用犬協会員 宮川文雄(昭和13年)

 

すずが嫁いだ昭和18年末の呉で、これらの犬たちがどういう運命にあったのかは不明。翌19年末には全国規模でペットの毛皮献納運動がはじまり、多数の犬猫が殺戮されました。更に昭和20年3月から米軍の呉空襲が始まり、ペットを飼うどころではなくなります。

そして昭和20年8月6日。核攻撃で壊滅した広島市にも、僅かながら生き残った犬がいました。

 

有坂光威

もう一つ、デーヴェットの線でディソ・H・ズイコという犬がいますね。

藤島彦夫

これは、広島で原爆にあって、道路の端になげてありましたが、私が引きとってきて復員するまで飼っていたんです。それと雌で、ブルガー・V・ワタヤというのがいまして、二頭、広島の軍の種犬だった。

復員するまで飼っていて、そのころの広島の(日本シェパード犬協会)支部長の森信さんが、何もお礼ができないから、ブルガーをやると言ったんですよ。東京へ持って帰ってもどうなるかわからないので、けっこうですよ、と……。

ディソは、ぼくが森信さんに渡してから呉に行った。

呉で、復員して来た人が飼って、少しして行方不明になったらしいです。小さい犬だったけどねえ。

当時、船舶司令部の獣医部に瓜生中尉という友達がいた。その人がディソを見て「藤島さん、これだけの犬は日本に何匹もいないだろう」と言った。千葉の畜産試験場の技師だった人で、その人が見てそう言ったくらいで、それだけのよさがディソにはありました。

ただ性質はあんまりよくなかったですね。性質の面でいったら、ブルガー・V・ワタヤのほうがずっとよかったです。同じデーヴェットとの子でも。

 

「現代のシェパードに影響を与えた犬たち(昭和51年)」より

 

デヴェット・フォン・ゴーソーホの血脈は全国へ散っていたんですね。北海道に残存していたゴーソーホの子孫たちは、北海道シェパード犬協会(HSA)を介して戦後シェパード界復興の礎となりました。

 

国産シェパードの最高峰とされた、関西の名犬ゴーソーホ。例によって日本シェパード犬協会と帝国軍用犬協会に二重登録されております(昭和12年)

 

あの惨憺たる原爆の災禍を蒙り、世界の全人類を戦慄せしめ、今以てその後の御動静如何にやと御案じ申上げて居たわがJSA(※日本シェパード犬登録協会)の広島支部が、森信支部長を中心として雄々しくも立上り、1953年度の西部準ジーガー展の主催を買つて出られ、しかも模範的な大展覧会を開催せられたことはわれわれの驚異であり、より一層の感激でありました。

 

有坂光威JSA理事(昭和29年)

 

全国のあらゆる町や村に、犬を含めてそれぞれの戦時史があったのでしょう。そんな当たり前の事実を、再認識できた作品でした。

ありがとう。あの世界の片隅に、犬を登場させてくれて(オチを一生懸命考えました)