饒河の街には獰猛な野良犬が多かつた。

少年達は街を歩いてゐて、そんな犬に出會ふと、お互に顔を見合せてニツコリした。

「あれで何足出來るかな……?」

「三足ぐらゐだらう……」

「いや、五足はとれさうだぞ」

忽ち一撃!肉は満人に與へられ、更に少年隊の手で鞣されて銘々の靴下に化けた。

下駄も手製だつた。伐採して來た俎板のやうな木の切れつぱしに、焼け火箸で三つ穴をあけ、支那麻を久留米絣の古いのを裂いてくるんだ鼻緒をすげて作り、得意満面、饒河の街を闊歩した。

東宮中佐が初めて十三人の少年を連れて、饒河に大和村を拓いてから約四年間に、少年の數は三桁に近い數に増加したが、この間に二人の少年が饒河の土と化した。

一人は舊寮生相田寅男君で、昭和九年入寮の第一期生。ニツクネームが近藤勇。

落馬の名人?で、北進寮第一の線の太い人気男だつたが、一面極めて几帳面な少年で、炊事當番になると山のやうな馬鈴薯や人参の數まで一々數へてその數を暗記してゐた。

一日ロシヤ語の授業が済み、部屋に帰つた相田君は窓にもたれて本を讀んでいゐた。もう夕方であたりは薄暗く、故郷の空の懐かしい頃だつた。

突然!銃聲一發、相田君は腹部貫通銃創を受けて倒れた。犯人はたうとうあがらなかつたが、共産匪らしいことは分つてゐた。當時少年隊の教官の首には千圓の懸賞金が附いてゐたさうで、少年隊の記念撮影の寫眞が、いつの間にかソ聯の方に渡つてゐることが判明して、首の邊がヒヤリとしたのもその頃だつた。

 

山田健二「蘇満國境の平原兒 饒河少年隊」より 昭和13年