話は昭和6年に戻りますが、那智・金剛・メリーが北大営で戦死した直後、板倉大尉は上海シェパード倶楽部から1頭の軍犬を寄贈されています(陸軍の資料では「現地のロシア商人から購入」となっていますが)。
大尉はこの犬に「ジュリー」と名付け、3頭の後継として鉄道警備任務に帯同しました。
同じ頃、独立守備隊の各大隊でも軍用犬の評価が高まり、歩兵第4大隊では板倉大尉に犬の購入を依頼しています。

 

9月末になってジュリーと共にやって来たのは、生後3ヵ月(昭和6年6月10日青島生れ)のシェパード犬「ローン」「クラウ」「エツ」の3兄妹でした。

残念ながらエツは奉天到着後に病死、ローンとクラウに対しては同年11月から基本訓練が開始されます(同月末、板倉大尉は戦死しました)。5ヶ月後には基本訓練を終え、更に3ヶ月かけて傳令、線路巡察、襲撃警戒の応用訓練も完了。
その後、2頭は満鉄沿線での鉄道警備任務に就いていましたが、昭和7年10月より東邊道での紅槍会匪討伐作戦に参加する事となります。
討伐作戦には、独立守備隊第2大隊軍用犬班を中心として4大隊のローン、クラウ兄妹、同第3大隊の斥候犬エスカード(通称クロ。ドーベルマン)、ツレフ、瓦房、ウェルジー、エルといった優秀犬を選抜、臨時の軍犬隊が編成されました。
同月14日、上夾河部落に立て篭もる紅槍会との間で戦闘が始まりました。

軍用犬班にも犠牲が続出し、作戦期間中にクラウが病死したのを始め、15日には傳令任務中のエスカードが狙撃されて戦死。続いてツレフも戦死しました。

23日夜、ローンと本木1等兵が趙家保子附近の部落を警戒中、周囲の野犬が騒ぎはじめます。紅槍会の逆襲でした。
ローンはいち早くこれを察知、軍犬兵は部隊に警報を発します。
この第2大隊軍用犬班は、戦死した板倉少佐の後任として貴志重光大尉が指揮を執っていました。貴志大尉も、愛犬ブリッヂ号と共に紅槍会匪を迎え討ちます。
昭和9年、ローンとエスカードには甲功章が授与されました。

 

帝國ノ犬達-ローン

帝國ノ犬達-ローン2

甲功章付首輪を授与されたローン。獨立守備歩兵第四大隊軍犬舎アルバムより


戦功のあった軍用動物について、「軍馬、軍犬、軍鳩表彰内規」が設けられたのは昭和8年5月(陸軍省恩賞課により6月1日から実施)の事。
軍犬の表彰制度がこんなに早く設けられたのには、板倉大尉と3頭の犬達の報道が影響したのかも知れません。
 

【逗子のジュリー】


板倉至少佐の葬儀後、奉天の小学校に勤めていた鎮子夫人は3人の子供達とジュリーを連れて日本へ帰国しました。

 

板倉少佐と自分と別れたのは恰度NSCの第四回展が上野で開かれてゐた此春三月の末のことであつた。少佐は滿洲獨立守備隊に軍用犬を採用するために選ばれて転任せられることになつたのである。

少佐が會場に見へられた時は、自分は當日の事務一切を見てゐたので随分忙しかつたが、少佐と暫しの別れを惜しまずにはゐられなかつた。少佐は軍犬の將來が極めて有用なことを語り、滿蒙の原野に於いて、この軍犬が必ず偉功を樹てる期があることを力強く説かれたのである。更に少佐は、自分は滿洲に行く、そして軍用犬の眞の作業價値を一般に知らしむると同時に、一朝事ある時の役に立たせるのだ。と自信ありげに物語るのであつた。

折柄、久邇宮朝融王殿下が臺臨あらせられたので、御迎え申上げて御少憩を願ふた後、自分は少佐を伴ふて殿下の御前に出で、少佐が渡満の旨を言上したので、殿下は少佐を親しくお近くに召されたのであつた。

少佐は軍人らしいはき〃した語調を以て、今度滿洲獨立守備隊に転任のことが専ら軍用犬採用のためである旨を言上し、お暇申上げて退出されたのである。

少佐は、轉任についての残務があつたため多忙を極められてゐたので、会場に永く留まることが出來なかつた。少佐と自分とは堅い握手を以つて、お互いの健康と軍犬の發展を祈りつゝ再會を期して別れたのである。

然るに何事ぞ、渡滿されて僅かに半歳を過ぐる幾何もない今日、再び上野驛頭に君を迎えることに再會したとは言ひながら、自分は祭壇にぬかづいて幽明境を異にする君と相對することとなつたとは。

(中略)

暫く黙祷を続けて頭を上げれば、祭壇の前には哀愁に閉されながらも涙一つも見せずに鎮子夫人が立れてゐるではないか。自分は夫人の前に走り寄つて、少佐との面會が斯かることにならうとは思はなかつたこと、名譽の戰死が軍人の本望であることなどを、くど〃しく述べたのであるが、涙なしに言ひ終ることは出來なかつた。

軍人の妻として涙一つ見せまいとせらるゝ夫人。しかも三人の遺兒を抱へて居られる夫人の胸中を察するとき誰か泣かないものがあらうか。

自分は、長く夫人を仰視することは出來なかつた。急いで外へ出る途端に足許へ吠えつく仔犬、見れば生後五ケ月のシエパードの仔犬だ。

オゝ、これが少佐が愛育してゐたジユリーである。

オゝジユリーよ、お前は主人を失つて故國に歸つて來たのかえ。あはれのジユリーよ。お前がもう少し年をとつて居たら主人の片腕となつて天睛偉功を樹てゝ居たらうに。そして主人を喜ばせて居たらうに。

自分は思ふさまジユリーの頭を撫でてやつた。仔犬も自分の心を知つてか知らずが、盛んに尾を振つて吠えてゐた。

無心に吠ゆる仔犬の聲も此時こそは一しほ哀愁を増させるのであつた。

伊藤藤一『板倉少佐の遺骨を迎へて(昭和6年)』より


帝國ノ犬達-独立守備隊
●昭和6年12月の満州にて、雪の中で遊ぶ子犬たち。この子達も、翌年から軍用犬としての任務に就いたのでしょう。

 

その後、鎮子夫人は神奈川県の逗子實科高等女学校及び逗子小学校に音楽と英語の教師として赴任。一家は仮住していた東京から逗子へと移り住みます。
勿論、ジュリーも一緒でした。

家族が逗子に落ち着いた昭和7年初め、大陸では再び軍事的緊張が高まっていました。
上海で起きた日本と中国の小競り合いは軍事衝突へと発展。いわゆる第一次上海事変が始まりました。
蔡司令官率いる19路軍は蒋介石の命令を無視し、上海市街で日本海軍陸戦隊と衝突します。激化する戦闘に対して日本陸軍も参戦を決定し、香川県の第11師団からは歩兵第44連隊が派遣されました。
昭和7年2月25日、下関を出港した第44連隊の中には、2年前に板倉大尉が育てた軍犬英智の姿もありました。

3月3日、上海事変に出動した英智は第44連隊と共に呉松砲台へ上陸、付近を占拠していた海軍陸戦隊と交替して夜間警備の任に就きました。
しかし、昼間に通信機材の揚陸を完了出来なかった為、44連隊本部では前線に展開した各大隊の状況が全く把握出来なくなります。
前線部隊との連絡を命じられた第44連隊通信班長恵美中尉は、縦横にクリークが張り巡らされたこの地域において、兵卒による夜間伝令では転落溺死の危険があると判断しました。
通信機器も人力も使えない状況下、伝令任務は英智に託されます。

 

西村上等兵を呼んで「此の方向二千米の基地に第一大隊が居る。ご苦勞だが犬をつれて連絡をして來て貰ひ度い。氣を附けて行け、よいか」

上等兵は力強く復唱した。英智も嬉しげに尾を振つた。
上等兵と英智の姿は、またたく間に闇に消えた。中尉はひどく首尾を気遣うた。
一分間が一時間の長さに思へた。
中尉は犬の去つた闇の中をまたたきもせず睨み詰めて居た。二十分ほど経過した時、中尉らの居る處へパツと走り寄つたものがあつた。
英智は頸輪の信號嚢に、大隊長の報告書を入れて無事歸つて來たのであつた。第一大隊の配備状況がハツキリとわかつた。
中尉は『畜生でもえらいものだ』と、思はず英智の頭を撫でた。

中根栄『愛犬風物雑集(昭和9年)』より

 

44連隊は3月5日から25日にかけて劉河鎮守備任務に就きます。英智も、引続き連隊本部と第2大隊本部間の伝令・哨戒任務で活躍しました。
彼が戦場に居た期間は短く、19路軍との停戦が合意された2ヶ月後には日本へ帰国しています。

 

英智は仕合せに他の將兵と一緒に凱旋をして來た。彼が留守師團司令部に歸り着いた時に、彼を第一番に擁したものは、英智を仕立て上げた小川(※清)中尉であつた。中尉の目には涙が宿つて居た(同上)


帝國ノ犬達-英智鳩
善通寺師団での英智(昭和11年)

 

香川県に戻った英智は、翌昭和8年7月31日に同師団第12連隊へ保管転換され、それ以降も善通寺師団の名伝令犬として活躍します。
任務の邪魔をする土佐犬達を一切無視して演習地を駆け回り、連隊長からの信頼も厚かった英智は、昭和9年4月13日には上海戦の功績を讃えられ、林銑十郎陸軍大臣より甲功章を授与されました。

 

何百頭も居る全國の軍犬の中、唯一頭而も生存中に功章の甲を貰ふなんてよく〃幸運の星の下に生れたもんだ。那智金剛と共に幼時彼を育てあげた板倉少佐も地下で嘸喜んでゐるであらう。

五月三日午後一時から丸亀の歩兵第十二聯隊軍犬班で聯隊長館大佐から軍犬功章の傳達式が行はれた。聯隊附中佐、大隊長、師団司令部軍用犬班の小川大尉も列席した。

大勢が犬舎の前に集ると英智はもう喜んで太い尾を横に振つてゐた。軍犬班長高木中尉は掛下士官、取扱兵、英智をつれ聯隊長の前に出た。残りの軍犬班遵・敏・健の三頭は其取扱兵と共に後列に控へてゐた。

聯隊長は高木中尉を呼び出し、賞状を読み上げた。

 

賞状

歩兵第十二聯隊 英智號

種類 シエフアーフンド種 性 牡

生年月日 昭和五年二月十四日生

特徴 無

産地 陸軍歩兵學校

右満洲事變ニ於ケル功績抜群ナルニ附功章ヲ授与シ玆ニ之ヲ表彰ス

昭和九年四月十三日

陸軍大臣 林銑十郎

 

高木中尉は賞状と功章を頂き下士官に渡し、篠原軍曹は英智の頸に輝く首輪をつけてやつた。

英智は坐つた儘何ともいへぬ様にいそ〃としてゐた。

丁度首輪を着け終つた時だつた。英智は顔を左後に廻して『どんなもんだい』といはんばかりに他の殘り三頭を顧みた。

すると出征もせず大演習でも十分働く機會を得なかった不運の健と敏とが『ワン〃』と吠へた。並み居る人々は、思はず微笑したのであつた。

第11師団司令部軍用鳩犬班 歩兵大尉小川清『英智叙勲物語(昭和9年)』より

 

帝國ノ犬達-英智

甲功章を授与された英智(昭和9年)

英智が上海へ出撃する直前の2月14日、ジュリーが世を去りました。死因はジステンパーの感染によるものです。
軍犬ジュリーにとって、日本での平穏な日々は余りに短いものでした。

 

同年4月1日、板倉少佐の長女敦子さんが尋常科1年生として逗子實科女学校へ入学。
新人児童家庭調査により、彼女が板倉少佐の遺児である事を知った荒井友二郎校長は、そこでジュリーが延命寺裏の竹林に葬られたと聞かされます。

 

校長は少佐未亡人及遺兒に案内せられ竹藪中のヂユリーの墓を弔ふ。時に花輪に飾られたる墓前に今供へし如き蜜柑菓子などありしを見たる夫人は、『これは誰が上げたの』と問はる。
其の場の光景に痛く心を打たれし校長は翌朝兒童等に金剛・那智の忠死の物語に加へヂユリーの死を告げ、墓前に詣でたる感想を述べ
『外國種の犬なりとも帝國に住み帝國軍人に依りて訓練せられたる犬は斯の如き働きをなすものなり。
況や祖先傳來御國に住み、限りなき君恩に浴し來りたる我等に於いては、よく至誠尽忠奉公の誠を致さねばならぬ』と結びたり(KV会報より)


延命寺
当時の逗子延命寺


この話を聞いた学童達は、ジュリーの墓を訪れては手を合わせるようになります。墓前にはたくさんの花が手向けられ、やがては賽銭まで積まれていきました。
その姿を見ていた延命寺の坂口本瑞師は、境内の一角をジュリーの為に提供しても良いと子供達に約束します。
但し、それには墓石を購入する必要がありました。
子供達は賽銭と小遣いを集め「ジュリーの為に慰霊碑を建ててほしい」と教師に託します。これが、あの「忠犬之碑」建立活動の始まりでした。

 

学校側が職員室前の運動場に面した柱へ「忠犬の建碑費へ」と書いた箱を吊した処、僅か2日で募金箱は満杯になります。
児童たちがなけなしの小遣いから出した募金の総額は20円余。
「これにて十分なり。玉石二個を購求め忠犬の碑と刻みて建設しやらん」との事で、学校側は墓石購入の準備に取り掛かりました。

子供達の純粋な想いから始まったであろうこの話が、同年4月22日の東京日日新聞夕刊紙上に掲載された直後から何かがおかしくなります。
記事は人々に感銘を与え、各方面から学校へ募金と援助が寄せられ始めました。
女子学院本科後期三年秋組一同、関東軍獣医部長田崎氏、高知県立第一高女生田中さん、甲府市太田町公園内少年少女修養団、新潟県の鷹藤氏、岩田九郎学習院教授などから寄付が届き、地元逗子の一町民から50銭、逗子ケリーピースからは1円が寄せられます。
荒井校長は、上泉海軍中将、伊藤逗子町長、皃井逗子在郷軍人分会長、菊池逗子町青年団長、坂口住職をメンバーとする後援会を結成。

逗子町からも30円以内との条件で支援を受けています。
20円ばかりだった募金はあれよという間に900円を突破。

当初の計画は急遽変更となり、ジュリーの銅像建設が決定されました。

荒井校長に銅像製作を申し出たのは、若き彫刻家の青柳利男でした。

 

國家の爲に働いた動物に、其れにむくいる方法のない現在、今度の企は、本當に適切な事と思ひます……。小生は若年なる彫刻家ですが……。名犬ジユリーの面影を薄肉彫刻の青銅にして、寄贈致し度く思ひます。


帝國ノ犬達-ヒルモア
ジュリー像を制作中の青柳氏

ジュリーは既にこの世に居らず、青木氏は上野在住の堀内辰男氏愛犬ヒルモア号をモデルに彫像制作に取り掛かります。
相手は犬ですから、ポーズの指示にもなかなか従ってくれません。毎朝の製作作業に於ける、青木・堀内両名とヒルモアの苦労は並々ならぬものがありました。
1年に亘る製作期間の末に完成したジュリー像の原型は、実物の2倍大となる堂々としたものでした。これを元に阿倍陽秀さんがブロンズ像の鋳造を、千葉誠治さんや牛尾又次郎さんらが建設工事を担当します。
彼等は皆、採算を度外視して慰霊碑建立に協力してくれた人々でした。
昭和8年夏の完成を目標に、計画は着々と進行。
子供達の思いはどこへやら、話はコレを利用しようとする陸軍の思惑も絡んだ、大袈裟な慰霊碑建立へと発展していきました。

 

(第六部へ続く)