日独伊 枢軸漫才
「ドイツやイタリヤの友邦の人達が日本の各地の陸軍病院を視察したんです。戰傷者、戰病者に對する施設と云ふものは實に至れり尽せりだ。世界無比なるに驚嘆した。單に治療をするとか何とか云ふのでなしに、その人を更生させる諸施設は實に日本は至れり尽せりだ。
唯一つ合點の行かぬのは、盲導犬に關する施設が少しもない。これは全く手落ちじやないかといふのです。
ヨーロツパから来た人は不思議に感ずると云ふのですね。あの第一次歐洲大戰後には、この盲導犬が街に於て戰傷盲目の勇士たちを導いていく。そして犬が『ワン』と吠えると電車もとまる。人々も道を譲る。そう云ふ風に犬が引張つて行く風景が各所に見られたものです。それが日本にはないと云ふのです
陸軍報道部長 長谷萩大佐談 昭和18年

帝國ノ犬達-もうどうけん

流石は盲導犬先進国ドイツの人。立ち遅れた日本の視覚障害者福祉に対する鋭いツッコミですね。

「私はこの質問を受けて熱いものが胸にこみあげました。あゝ日本はいゝなあ。この日本の爲め、天子様の御ため、誰も莞爾として死ぬ事が出來る。これは西洋人には判るまいと涙が出たですね。

日本では盲目になつても、それを導く犬など要らないのだ!!その犬がはりになる人がいくらでも、いくらでもあるのだ。日本では全部の人が名譽ある傷痍軍人をお世話するのだ。日本では盲導犬なんかの施設は必要はないのだ」

大佐殿はボケ役に徹する様です。

「と、云ふ事を話したら、初めて日本の兵隊さんの強味がわかつたと言ふのですな。外國では盲導犬の育成訓練が非常に盛んだつた。日本には全くそれがない。それて不思議に思つてゐたが、はじめてその理由がわかつたと云つて居りました」

友邦の人までボケてどうする。

 

【陸軍省医務局の事業撤退】

 

日本と中国は互いをノックアウトできないまま、大陸の戦争は泥沼化していきます。

昭和14年の節米運動を機に、商工省や農林省の官僚は犬皮の資源化を推進。便乗した政治家は犬の飼育を非難し、体制に組したマスコミは「畜犬を撲滅せよ」と新聞ラジオで煽り立て、それに扇動された一般大衆は隣近所の愛犬家を「非国民」と罵りました。

掩蒋ルート遮断を目的とした仏印進駐により、欧米との関係は更に悪化していきます。

ようやく軌道に乗りかけた盲導犬事業にも、暗雲が立ち込め始めます。

 

「私は盲導犬をつくる研究家の努力に共鳴すると共に、犬を得て再生のよろこびを語る人に心から敬服します。それにしても盲目の皆さんに一匹ずつ犬を上げるということは、一人の自力や小さい身代をかけた位では出來ることでない。多數の協力者、そしてそれに挺身する者がなくてはならない。私は安雄の熱心とその志が行われにくいのを見て、いつもこの点に思いを持つて行き、深く考えさせられる(相馬黒光著『滴水録』より)」

陸軍病院での成果にも関わらず、前線部隊へ回す軍犬優先の考えだった陸軍当局は、盲導犬採用の拡大に関して消極的な姿勢に終始。盲導犬事業の推進者であった三木軍医中将も、遂には陸軍主導での盲導犬普及計画を諦めざるを得ませんでした。
昭和16年6月2日、戸山ヶ原東京盲人会館にて開催された盲導犬研究会の席上で、三木中将(当時の役職は陸軍省医務局長)は事業の民間委託を提案します。

「その人間の性質が犬に向くかどうか、又その人間の將來の方針なども考へた上でなければ犬を與へるわけには行かないのでありまして
失明軍人の全部にやれないものを、初めから軍なり政府なりの事業をしてやることはむづかしいのであります。さういふ外郭団體が出來て、そこでやつて貰ふことに成りますと、その點は都合がよいと思ひます。私個人としては斯ういふよい事業は出來るならば進めて行きたいと考へてゐます(三木中将)」

昭和13年7月19日の座談会で、相馬JSV理事より出された「国家として盲導犬事業に取組む」という方針は、僅か3年足らずで破棄されました。「私個人としては…」という言葉に、三木中将も苦渋の決断であった事が伺えます。

かねてからJSVやドイツ側の懸念していた事態が、とうとう現実のものとなってしまいました。陸軍による事実上の丸投げ宣言によって、約束を反故にされたJSVは事業からの撤退を表明。

軍部とJSVから見放された盲導犬事業は、東京第一陸軍病院内で細々と継続される事となりました。

「現在では臼井眞君が盲導犬訓練に於ける唯一の關係者として軍病院の戰盲患者と犬との世話を爲しつゝ、犬を帶同して退院歸國し、夫々男々しく再起厚生の生活を爲し、盲導犬の必要を身を以て天下に訴へつゝある戰盲勇士諸君と共に、軈(やが)ては希望の空も明け初めむと、名譽の隻腕を振ひ孤軍奮闘して居る状態である(相馬安雄『盲導犬』より、昭和18年)」

帝國ノ犬達-病院2
盲導犬と失明軍人の訓練場だった東京第一陸軍病院の屋上。 

JSVが撤退しても、もうひとつの畜犬団体が事業を引き継ぐ可能性は残されていました。陸軍と親密な関係にある帝国軍用犬協会ならば、陸軍病院の盲導犬事業に参入できた筈です。

しかし、KVがこれに取り組んだ形跡はありません。
JSVへの対抗心ゆえ、KVでは盲導犬の話題がタブーとなっていたのです。陸軍病院に盲導犬が配備された昭和14年でさえ、10月まで盲導犬への言及はナシ。

更にその年、協会内で盲導犬無用論者と推進論者が内部対立するという不毛な状況に陥っていました。

騒ぎの発端は、昭和14年にKV会員の碓氷元氏が『盲導犬の私檢討』と題するレポートを発表したことに始まります。これは、「外國の誇大なる宣傳に陶然として、その記録を棒讀にしたに過ぎない」ものが盲導犬であると断じた内容でした。
まあ、一応は納得できそうな理由も挙げてはいます。
・歐洲人は嘘吐きであり、彼等の宣傳する盲導犬も然りである。
・盲導犬は輸入が困難。
・日本家屋内で盲導犬と暮らすのは難しい。
・盲導犬訓練士・訓練所が國内に存在しない。
・国内には素質のある子犬もいるが、非常に高價である。
・日本には誘導任務を妨害する野犬が多い。
・盲導犬が使用できるのは3~5歳。犬が老いるのは早く、使役期間は短い。その間にフィラリア等の風土病で斃れる犬も多い。

「我が国は多く畳上生活であるから、犬を室内で飼育する事は不衛生極りない。盲導犬は盲人の身邊の用を足してやるのが大部分の目的であるから、犬が毎に盲人の身邊に居なくては用をなさない。

用のある度に庭に居る犬を呼んで、足を洗拭して室内に上げる事は、徒に煩雑至難であつて、實用にはならない。如何に盲導犬と雖も、一度も行つた事のない場所へは行かれない。
例へば、今日は上野へ行きたいから上野動物園へ案内して呉れと如何に懇願した所で到底望まれないのである(『盲導犬の私檢討』より)」

何というか、讀賣新聞が報じた盲導犬批判記事の丸写しですね。

日本最大の畜犬団体であるKVならば、讀賣の二番煎じよりもこれら諸問題をどうクリアしていくかを検討すべきだったと思うのですが。

「何は兎もあれ、盲導犬の實用は、我が國の現状に於ては不可能事に属し、その成果を夢み、その普遍を期待するのは尚早である。何故ならば、物資受難の戰時でもあるし(犬は肉食なり。米飯も人間一人以上を食む)、日本の眼の戰傷者は皆盲導犬を連れて歩く程裕福者ではない。又そんな遊戯的な(今のところ)不經濟の事を望む日本軍人も居らないと著者は獨り信じてゐる(『盲導犬の私檢討』より)」

 

ナルホド。盲導犬事業に取り組んだ小泉・三木軍医中将と、ボドとリタの主人である舛田准尉・平田軍曹は「不経済の事を望む日本軍人」という訳ですか。

そういえば、KV副会長の坂本陸軍少将も盲導犬に理解を示していた筈ですから、もしかすると「遊戯的な」KV指導部に対する内部批判だったのかもしれませんね。


しかし、かつての碓氷さんは、これとは違う意見の持ち主でした。何しろ、NSC時代には「輻輳する電車や自動車に、氣を配り乍ら、盲目なる主人を安全にと、道案内をして歩く可憐な犬の姿こそ、道行く人の涙を絞るであらう(碓氷元『犬の訓練とその實際』より、昭和8年)」と、盲導犬の事を懸命にPRしていたのですから。
日本犬界発展のため努力してきた彼に、一体どのような心境の変化があったのでしょうか。

 

碓氷さんはJSVへの対抗心でコレを書いたのだと思いますが、事態は彼が予想もしていなかった方向へ炎上していきました。『盲導犬の私檢討』が発表されると、盲導犬推進派から反発の声が巻き起こります。

ただし、怒っていたのはJSVではなく、身内である筈のKV会員たちでした。反撃の口火を切ったのがKV福岡支部の中村榮一氏です。


「碓氷氏の名文章に接し得ることを喜びとしてゐる私は、今月も新しいインクのにほひをなつかしみ乍らまつさきに『盲導犬の私檢討』を讀了したが、然しである。氏の名文章の流暢さには變りなく共今度だけはいつもと逆に何かうすら寒い讀後感である。これは何故か?(以上)と結んであるその末尾がソノマゝ始めの書出しに續いてゞもゐるかの様に私はニ三度つゞけ様に讀み返した。
やつと分かつた!!これにはちよつと異議があるぞ」

以下、碓氷さんの主張をひとつひとつ論破しておりますが、長くなるので抜粋します。
・欧州人の嘘八百云々に対して
「完全自主獨立の政策を樹立し、不介入の聲明せる帝國の態度には胸のすく痛快なものであるが、それとこれとは別のもので『坊主憎けりや』式に盲導犬まで否定されるのは如何なものかと思ふ。

むしろこれを逆に考へてはどうか?萬事利己性一點張りの彼等が有益なりとして研究考案したる方法を、一歩進んで取り入れて利用する事は不可ない事であらうか。一から十まで外國のモホウでは情けないといふ人があるかも知れないが、ラヂオや電氣やさては飛行機や機關銃などはどうか?それらのものが我が日本で利用される様になつたゝめに、大和魂に變化を來したといふ話をかつて私は聞かない」

・盲導犬は高価である、に対して
「S犬一頭の飼育費はいくばくを要するものであるか?『物資愛護の今日、眼の戰傷者には費用の点で飼育不可能』のS犬を二頭も三頭も犬舎飼育で無駄飯食はしている裕福なる愛犬家は正に愧死すべし!!一戸一犬國奉仕!!我がKVのスローガンは地におちたりや?」
※その他、安価な飼料の研究開発、戦盲者の盲導犬飼育費支援を訴えています。

・盲導犬の訓練所が無い、に対して
「こんな事は軍犬報國をモツトーとしてゐる我がKVあたりで何とか研究して戴く譯には参らぬか?訓練の可能、不可能はさて置き、吾々は眼の戰傷當事者だけに盲導犬の研究を一任して拱手傍観してゐて良いのであらうか?」

・盲導犬の使役期間は3~5歳、フィラリアが云々に対して
「これでは誰もが軍犬なんて飼はん方が宜しい!!私は未だ二歳の盲導犬も六歳のそれも見た事がないので、この問題に關するかぎり何とも言へぬ譯だが、一體そんなものだらうか?」

・日本の生活様式で盲導犬と暮らすのは困難、に対して
「電車に乗つても『戰傷勇士には感謝の念を以て座席をゆづりませう』と至極自然に實行されてゐる今日、將來眼の戰傷者と盲導犬とに對して大衆の理解と同情とを要求する事はいとも容易な事であらう。『我が國の畳上生活では盲導犬の飼育は至つて困難』ではあるかも知れないが、それこそ毛唐の眞似を止めて大いに日本的な方法を研究されて差つかへないのである」

・「如何に盲導犬と雖も、一度も行つた事のない場所へは行かれない。例へば、今日は上野へ行きたいから上野動物園へ案内して呉れと如何に懇願した所で到底望まれないのである」に対して。
「冗談も休み〃言つて下さい。全然犬を飼はれた事のない人ならとも角、S犬では相當年期を入れておいでになる筈の吾が碓氷さんが、こんなことをマジメに言はれるなら私は少々情けないです。この愚論(失礼、敢て)には左の愚問を以て答へに代へやう。
『(最も正確に傳令の訓練を完了せる)貴下の犬は×村の××番地だつたかナ?山田といふ産婆さんを大至急呼んで來て呉れますいか?』
碓氷氏の説かるゝ如く、盲人を導き歩く事など勿論尋常一年生にも樂々出來よう。しかし、盲人に與へらるべき獨立と自由は愛する子供や妻の手を借りてさへも恐らくは期待されないであらうし、さらに將來の日本を背負つて立つべき尋常一年生を外國では犬が受持つてゐるといふ仕事に代行させる權利は總理大臣閣下にだつて與へられてゐないであらうことを私は信じる」

「『犬には人間に出來ない事をやらせれば良いのであるか』と碓氷氏は獨り切に思つてゐられるかも知れないけれど、私は反對に人間に出來る仕事でも犬で充分間に合ふ仕事でありさへすれば、代用品時代の今日ドシ〃利用すべきだと獨り切に思ひ込んでゐる。盲導犬の研究では殘念乍ら吾がKVはJSVに一歩を先んじられた感がある事を私は齒がゆく思つてゐる。かく言ふ私はKVの會員であり、JSVの非會員であることを蛇足乍ら書きそへてこの稿を終りたい。此の問題に對して大方各位の御ヒハンを給はらば幸甚です(以上、中村榮一『盲導犬について』より、昭和14年10月27日)」

「御ヒハン」どころか、会員の山田晴作さんも碓氷さんに喰ってかかります。
「U氏の盲導犬不適論に對しては、N氏が我々の言はんとする處を餘す所無く指摘して反駁したので今更此處に改めて云々する必要はないが、要するにU氏は盲導犬に關する限り認識不足ではないららうか。少なくとも盲導犬に就ての研究が充分爲されたらうか?

あの一文は一部反對論者の言ふ所を其儘受賣りして發表したものゝ如くであり、軍用犬警察犬でさへ往時は反對論者に白眼視された事を思へば、盲導犬と配偶者とを比較する様な愚論など問題にはならぬ。
義手義足に等しく、盲目常暗の世界に眼を與へ、戰盲の人々をして自由と獨立の喜びを與へる盲導犬の研究は、我KVに於ては處女地である。今事變に於ける軍犬の活躍が、漸く軍用犬をして正式の軌道に乗り得らせた今日、盲導犬不適を断ずる事は甚だ早計である。

両眼を失へる戰傷者が少數なるが故に、盲導犬の研究を等閑にして良いものだらうか。軍と密接の關係にある協會こそ眞先に此研究を爲す可きではないか。百の議論より實行だ。全能力をあげて盲導犬の研究に精進すべきである。それでこそKVが六千會員の指導機關として眞面目を發揮するものである。JSVに立遅れした等豪も意に介する事はない。軍用犬に關する限り、KVはJSVを斷然リードして來た。

今事變に於ける軍犬の功績の幾分かはKVに賜であると斷言し得る筈である。遅くとも確實に盲導犬の研究に實を結ばれん事を切望して止まない。
(中略)
盲人が如何ばかり盲導犬の聡明な働きに感激して居るか、盲導犬がどんなにか盲人の心に慰安と喜びを與へる存在であるかは到底通常人の想像出來ない事だろう。『今日は上野動物園へ行きたいから案内して呉れと言つた所で到底案内してくれぬ』とU氏が言はれたのを讀んで吹き出した御仁は讀者の中に相當多數在つた事と思ふ。あれでは犬の作業能力といふものに對して根本的に認識が欠けて居るとしか考へられない。根處のない反對せんが爲の反對など、軍犬界を毒するものである以上何物でもない。
我々軽輩の能く知り得べき事ではないが、U氏の如き犬界の先覚者こそ、敢然盲導犬實地訓練の研究分野に突進すべき適任者であると思ふ(帝国軍用犬協会員 山田晴作『盲導犬の研究こそ急務だ!!』より、昭和15年)」


思わぬ処から噛み付かれて碓氷さんも驚いたでしょうが、山田さんの抗議もKVの将来を思っての事でした。

KV台湾支部の宮本佐市獣医は、もう少し柔らかい言い方で碓氷さんに反論しています。

「最善の努力と相當の年月を費やしてやつて見たが、日本に於ける盲導犬は全く駄目だつた?と云ふ結論を得ても、愛犬家の其の業績は戰盲勇士に對する報恩の萬分の一に値する實に尊い愛犬家の宗教的な仕事であるのだ。本邦に於ける盲導犬の實験的研究は愛犬家の一朝一夕の事業ではないと云つて、現在の戰盲勇士が天寿を全うした時はじめて完成される様な遅々たるものではあつてはならない。

事業の性質が性質だけに泥縄式のそしりは免れないが、一刻も早くこの事業を完成せしめなければならないのである。こんな事は戰盲勇士と協力してやれば簡単に出來ると私は信ずる(宮本佐市『盲導犬に對する私見』より、昭和15年)」

まずは、穏便に盲導犬事業推進の流れへと誘導。しかし、ここから宮本先生の話はあらぬ方向へと飛躍していきます。

「私は盲導犬と云ふ日本の文字がいけないと思ふ。盲人を完全に何處へでも導く犬と誤解されてゐるのがそも〃の相違であり、盲導犬とは、盲人の眼となつて交通頻繁な近代都市の十字路も盲主人を眼明の如く導くと云ふ様な、一般日本人の物言はぬ犬に對する能力を過信し勝な觀念がいけないのではあるまいか。犬が盲人の眼となり、盲人を完全に何處へでも導くことが出來るなら、それこそ犬は神の如き力の持主である。

私共は類人猿にアインシユタインの如き智能を求める様な行爲に出てはならないのである。
盲導犬とは盲人の眼の如き能力はないが、死んだ杖より活發に活動する生きた杖となつて獨立力を附加する能力を持つものである。先ず私共は動物學的に犬の能力をハツキリと知らねばならない。
(中略)
盲目の方の眼となりそれを完全に何處へでも自由自在に導く犬を作るなら、立派な犬の眼、立派な犬の視神經と盲人のタヲムス(両眼の視神経が集まる處)あたりを連續させる様な神話的な外科手術を完成させねばなるまい。到底望めないことである。所謂盲導犬の作出とは盲人の生きた杖を作出すればいゝのである」


何だかSFじみた話にまで発展していますが、宮本先生は「曰く通信犬醫學、(台湾の病犬が)東京の名醫にテレビジヨンで治療して貰ふ時代が來るかも知れない」などとネット医療の到来を昭和16年に予言していた人であり、その発想はなかなか侮れません。
漫画家か小説家になる道を選んでいたら、ものすごい傑作を残していたかも。

そんな事はともかく、宮本先生の盲導犬論は続きます。

「一日も早く愛犬家は戰盲者と協力すればいゝのである。先ずKVあたりかで戰盲者に参集して頂き、盲人犬の座談會でも開くことである。
一番困るのがシエパード犬を知らずに盲目になられた方である(考へ様では反つていゝかも知れないが)。例へ御存知がなかつたとしても象の様なものではないのだから心配はあるまい。盲人犬の爲に經費の點を心配される方があるが、日本に今戰盲者の様な方々のお力で世界の日本から日本の世界へとなりつゝある。斯の如き聖業に對する經費の出來に困る事は斷じて有り得ない。御心配下さるな、台湾には天文學的數字の金がある…」

最後は金瓜石(台湾の金鉱です)の話まで持ち出して妙な締め方をされていますが、結論としては“KVが盲導犬事業を牽引すべし”という方向で纏めています。
山田さんや宮本先生への反論は特にありませんでしたから、KV会員の大多数は盲導犬の理解者だったのでしょう。
これに対し、碓氷さんも釈明文を発表しています。

「盲導犬の檢討も、實は軍用犬協會になる以前のNSC時代から盛に論議されたものであるが、今以て御覧の通りである。性急の筆者には誠に齒がゆい事である。
(中略)
筆者が、あの記事に筆を染めた動機は、あの時分の或る新聞が、該犬の誇大宣傳的記事を掲載して人をあやまらせてゐたので、筆者は『否、まだまだ新聞に書いてあるやうな具合にはいかない。盲導犬の實際的氏役は前途遼遠である(遼遠でなくてくれゝば本當にいゝが)』と、あやまつてゐる人達に對する忠告といふか老婆心といふか、兎に角そんなものに近かつたのだ。

と言ふのは、あの時分、今事變の戰傷の方二人から『自分は退院後盲導犬の訓練によつて身をたてたいが、よろしく御配慮を願ひたい』といふ眞劔な相談を受けた。勿論二人共病院からの手紙の紹介であつたが、その内でも現在陸軍第三病院に居られる、M・O氏の如きは、我々の忘れることの出來ないあの○○○○○(原文伏字)の激戰の夜間、犬を連れて斥候に出て、左腕を敵彈に爆砕されてしまつた勇士であるが、自分は右片腕を以て是非盲導犬の訓練で飯を食つて行きたいが、と言ふ相談が、本當に涙の一句一句で綴つてあつたのだ。

現在のところ該犬の檢討は、悲しい哉、本當に机上の弱論に過ぎず、昨年から今迄にかけて、中村、宮本、碓氷位のものが兎角言つただけで、これまた實に寥々たるものである。大KVを背負つて立つてゐる中央の役員達の大檢討を願ひたい(碓氷元『随想三題』より、昭和15年)」


碓氷さんは、この4年前に筆禍事件でKVを一旦除名処分になった過去もありますし、今回も筆が走り過ぎただけなのでしょう(ご本人も、「よく寝ぼけたまま文章を書くことがある」なんて言っていますから)。

なお、上記の“筆禍事件”とは、「一般会員に対する横柄な審査態度を改めるべき」と幹部連中を諌める文を書いたら、逆ギレされて除名処分というもの。碓氷さんが悪い訳ではありません。

何にせよ、この出来事はKV内部で盲導犬に関する議論を再燃させるきっかけにはなりました。KVには、「盲導犬」の命名者である中根榮理事が在籍していましたから、中根さんを中心とした“KV誘導犬研究部”でも発足していれば状況は違っていたかもしれません。

JSVが事業を主導していたにせよ、彼にとって盲導犬の来日は嬉ばしい出来事だった筈です。


しかし、KVは盲導犬事業への取り組みを放棄(盲導犬使用者の視察は行っていますが)。再び陸軍から打診があった昭和18年、既に戦況は悪化しつつありました。

「現在我が國に於て軍用犬の爲し得る作業の中で組織立つた研究を遂げられてゐないものに盲導犬がある。盲導犬の研究の遂げられなかつた理由には、支那事變の勃發、其の他種々の事情があつた。従つて之に就ての記事も、本誌には茲五、六年掲載せられなかつたのではなからうか。併し乍ら之等の事に就ても一応研究を遂げて置くべき事が痛感されて居つた。此の秋に當つて、陸軍より協會に對して盲導犬に就ての研究を進められる様話があつたとの事であり、研究を進められるとの事であるから今後の成果が期待出來るわけである(威望荘『盲導犬斷話』より、昭和18年)」


その3年前、昭和15年に中根さんは犬の世界から離れていました。出征した長男の留守宅で農作業に励み、大陸に花を咲かそうと、戦地に植物の種子を送ったりしています。

「私は嘗て愛犬家として、人も許し自分も許して居つた。之れは娯楽趣味一方ではなく多少國家に貢献せんとする微衷においてゞあつた。が、それにしても趣味が無くては犬を五匹も七匹も飼えるものでない。

併し恰度時局が勃發し長期戰であることを痛切に感じて來た。前の欧洲大戰の時にも獨逸と英國も犬の食糧難に困つて、愛犬をどし〃屠殺した事實を僕は知つて居る。日本でも事變が長きに亘つて人間の食糧に不便を感ずるようになると、犬の食糧は確保することが出來ない。その時になつて彼れ是れ焦慮することは結局犬を苦しめることになる。寧ろ今の中に萬全の策を講ずるに如かずと思つて、飼つて居る犬を凡て處分してしまつた。昨今人の飯米が切符制となると共に、犬の食糧が亦問題になつて來たとのこと。併しちやんと軍部の公認して居る軍用犬に限り、米の割當てがあるとのことである。それは當然過ぎる位當然のことである。
それにしても街にゴロついて居る雑犬は、此の際早く一掃してしまふがいゝ。そうしてその食糧でもつて軍用犬を肥やすべしだ(中根榮著『随筆空地開墾』より、昭和16年)」

 

かつて革命で困窮するロシアを現地取材し、食糧難で飼育放棄されたペットたちの哀れな姿を見ていた中根榮。彼は、戦時日本においてもロシア民衆の悲劇が再現されることを予見していたのでしょう。
愛犬たちを手放した事は、結果として正解だったのかもしれません。中根さんの懸念通り、日本でも3年後には食糧難による飼い犬の大量殺処分が行われる事となりましたから。
しかし、この時期に中根榮という人物を欠いた事で、KVが盲導犬事業に参入できる可能性は無くなってしまいました。軍人として盲導犬に理解を示していた坂本健吉少将も、昭和14年にKV副会長を退任。

以降、軍事色を強めていくKVの中で盲導犬研究は隅へと追いやられていきます。

「アメリカの盲人は、一人の手引き人を得るために、最低四十五ドルを要する。もし盲導犬があるならば、この四十五ドルを節約することが出來るのである。隣國支那には警察犬はあるが盲導犬はまだない。日本は警察犬なく、盲導犬を有しない。慈善家は多々ある。何故この盲導犬を、憐れなる盲人のために寄与せぬのであるか(中根榮 昭和9年)」

ベルリンの街角で盲導犬ジェーナと出会った日から、日本社会への盲導犬普及を唱え続けた中根榮は、昭和17年3月25日に世を去りました。前年末に受けた腸閉塞の手術に衰弱した体が耐えられなかったのです。
オルティ来日からちょうど4年後の事でした。

泥沼化した大陸での戦い。激化する太平洋での戦い。それに伴い、失明する軍人も数を増して行きます。
しかし、日本で活動する盲導犬は余りにも少数でした。

【戦時盲導犬の最後】

戦時日本がリタや千歳ら盲導犬を受け入れたいっぽうで、盲導犬不要論も根強く残っていました。この頃に発行された紙芝居『盲導犬』でも、軍人に貸与された盲導犬が結局は返却される筋書きとなっています。
「失明軍人には周囲の人々が手厚い支援をしてくれるので、盲導犬なんかいなくても普通に生活できますよ」という事を啓発したかったらしいのですが、だったら盲導犬をダシにしなくてもいいのにねえ……。

戦盲軍人誘導犬の採用目的は、失明軍人の独立を支える為のもの。それなのに「周囲が支えましょう」という正反対の思考をする人もいたのです。

戦時中、盲導犬について正しく理解していたのは陸軍省医務局、東京第一陸軍病院、中央盲人福祉協議会、日本シェパード犬協会、その他福祉団体などといった少数の組織のみ。
その中で、不貞腐れていた帝国軍用犬協会にも態度の変化が見られるようになりました。

「戰争の進むにつれて戰盲の勇士もある程度の數を増えてゐると思はれるのに、獨逸、伊太利、米國等盲導犬に對して相當の力を注いでゐると聞くに、我が國に於てはその研究も餘り進んでゐないし、従つてそれの育成機關等も未だ設立されてゐない。軍でそして協會で何故もつと積極的に之が準備を行はなかつたか、と云ふ不審をもつたものは敢て私一人ではなかつたと思ふ。
(中略)
費用の點に就ても、之が飼育には人手も要するであらうし、その使用期間に就ても、一頭の犬を十年以上も使用する事は困難視されなければなるまい。併し乍ら之等は總て盲導犬を積極的に使用すると云ふ上からは、問題なく解決せらるべきものであると思ふ。然らば何故に、聖戰六年になるに之等の設備を急がなかつたか………(帝國軍用犬協會『犬談餘禄』より、昭和18年)」

「大みいくさに兩眼を捧げた尊い勇士からの、新しき眼となれ、光となれ との、銃後の熱い赤誠から、四年前初めてわが國に登場した盲導犬は、今や實生活の伴侶としても充分に價値のあることが力強く立證されたのである。百の論議より一の事實が貴い(主婦之友社、昭和18年)」

意固地になっていたKVを含め、盲導犬についてこのような認識が定着したのは戦争末期のこと。この時既に、日本は敗北への道を歩み始めていました。

最早、盲導犬育成に軍の資金や人材を割く余裕も無く、昭和16年を最後に新たな盲導犬をドイツから輸入するルートも途絶。
更に、軍犬としての供出、食糧難、畜犬献納運動、米軍の本土空襲が重なり、日本犬界は昭和19年末で崩壊しました。

それでも、陸軍病院では戦争末期まで盲導犬の訓練研究が行われて居た事が記録されています。

「牛込若松町の第一陸軍病院眼科にはその訓練指導部門が設けられ、裏手にある戸山ヶ原の一隅、盆地となったところに犬舎を建て、盲導犬を養成していたのである。当時、S犬を狂的に愛育していたぼくは、盲導犬のことを知り、戦争中らしく戦傷盲人に悲壮な正義感を起し、素人的訓練に自信があったばかりに、終戦の昭和二十年春大学進学を控えて、この仕事に打込んでやろうかと決心したのである。進学しても労務動員か、予備学生の道である。
それよりも好きな道で報国?した方がと、中学生の友だちは大半軍に志願し、応募もしていたので、ぼくを激励さえしたのである。『よし』と腹に決めて、家は適当にいゝくるめ、陸軍病院を訪ね、まずその実態を観察したのであった。そこでは心よく迎えられ、当方の願いを入れて盲導犬の指導、飼育管理を知ることができ、完成近い盲導犬のテストの後を追って研究することができたのである。
数日の後帰宅したが、ぼくは再びこの道か進学かの岐路に立った。しかし先輩は、大局的な判断として進学を強くすゝめ、それからでも遅くないことと、戦局のたゞならぬことを告げたのであった。ぼくは迷いながらも、盲導犬訓練への道をあきらめたが、それ以後も研究資料の蒐集につとめ、関心をたかめてはいたが、終戦とともに頓挫してしまった(くろかわひろし『盲導犬の思い出 チャンピイの完成を期に』より、昭和32年)」

そして、陸軍病院の盲導犬達も昭和20年8月15日を迎えます。日本最初の盲導犬事業は、規模を拡大できないまま敗戦とともに終了しました。

同時に、貴重な盲導犬訓練のノウハウも失われてしまいます。
陸軍病院の盲導犬は廃止、帝国軍用犬協会は消滅、陸軍の盲導犬推進派リーダーだった小泉親彦(厚生大臣)は割腹自殺を遂げました。
唯一残存していたJSVも、出征した会員達が復員して来るまでは活動停止に等しい状況が続きます。

 

ただし、戦争終結と同時に日本から盲導犬が消えた訳ではありません。生き残った数頭の陸軍盲導犬達は、敗戦直後の日本で主人の誘導を続けていました。
昭和26年発行の本には「日本でも戦盲者を目的として盲導犬運動がさかんになり、一時は十数頭の盲導犬が活躍していましたが、現在では積極的な活動をしていないため数頭に減少しています。残念なことです」と書かれています。
敗戦の混乱と困窮、そして日本が復興へと向かう中で、旧体制の遺物である戦盲軍人誘導犬はひっそりと姿を消していきました。

戦後の日本では、新たな動きが始まります。昭和23年、相馬理事と塩屋賢一訓練士との出会いによって、盲導犬の研究が再開されたのです。
昭和26年、ヘレン・ケラー学院で開催された日本盲人文化祭の席上、塩屋氏が訓練した盲導犬「アスター・V・キヨコソー」が登場し、誘導能力の実演を行いました。

「特に、実際に犬に手をふれてみたり、誘導把をもってみたりしている盲人は深い感銘をうけているようでした。またその喜びの姿をみるのは私にとって初めてのことであり、この仕事についている今でも、忘れ得ぬ感激でした。アスターは盲導犬としての訓練は受けましたが、盲導犬として盲人につく実務はしませんでした(塩屋賢一著『アイメイトと生きる』より)」

その一方で、昭和29年10月にJSVの蟻川定俊氏、昭和31年5月には相馬安雄氏といった盲導犬の先駆者達が次々と世を去っていきます。
おそらく最後の陸軍誘導犬であった千歳号(チト)も、その務めを果たして昭和26年に死亡しました。
チトの死から4年後、アメリカ大使館付駐在武官ノーベル海軍大佐より、1頭の仔犬が視覚障害者の河相洌氏に贈られます。河相さんから相談を受けた塩屋訓練士の努力によって、そのシェパードが戦後初の国産盲導犬「チャンピィ号」としてデビューしたのは、昭和31年8月の事でした。
これら新世代の盲導犬達によって戦盲軍人誘導犬達の使命は受け継がれ、21世紀の現在になっても、関係者による多大な努力が続けられています。



戦時中の盲導犬事業は、関係者の多大な努力は勿論、海外からの支援もあって実現しました。彼らの想いは、ちゃんと戦後の日本に受け継がれていたのです。
戦争が終わってから7年後、かつての敵国から一通の手紙が届きます。それは、あの米国人盲学生ゴードンからのものでした。

「長い間犬界から遠ざかつた私も、貧弱な犬を一頭持つて空襲時を過ぎて、犬友の皆さんからもいつしかわすれられてをつた處、復た好きな犬のために本犬の病気丈けでも研究してみようと思つた處へ、丁度十五年位前に初めて日本に盲導犬に案内されて来たアメリカの犬共、ゴルドン君から懐しい近況が来たので、どれ丈けアメリカ人は犬が好きだか、又犬の友情と云ふものはつまらない外交官の外交よりも、もつともつと國際間の融和に役に立つかと云ふ事をツクヅク感慨させられたので、拙文を書き初めました。
ゴルドン君が日本へ来た時に、帝國ホテルに最初宿をとり、愛犬オルテイー嬢と共にせまい室に案内されて彼は非常に困つてをつた。
そして新聞にも其の事が記事としてのせられたので、私は非常にお気毒と思ひ早速ホテルへ行つて色々係の方に御願ひをし、又盲導犬の如何によく訓練されてをり、所謂ホテルの人達が考える様なものでない事を一時間余に亘つて述べ、その好待遇方を懇願したが、彼等は少しも理解出来ず、私も致し方無く私のよく知つてをつた萬平ホテルにおつれした。其の當時の支配人であつた新井君も犬が好きだつたので、一番廣い立派な室を與えて呉れた。
そこでゴルドン君も非常に喜ばられ、私を徹頭徹尾信用されて、何や彼と非常に親しくして呉れた。

其の時彼は私に斯う云ふ風に言はれた。
「皆な真實の友情を以つておつきあいすれば戦争など起きないんだが、困つたもんだ」と。そして彼は常に民間の外交官を気取つてをられたが、、實際は其の通りだ。JSAの古い會員諸君は御存じでせうが、彼の盲導犬に對する乾燥及實際的の動作等を萬平ホテルの廣間で心ゆく迄話し合つたのも其の頃でした。彼は其の後帰國して約半ヶ月位で旅の疲れか、愛するオルテイー嬢をなくしたのでした。彼は其の間非常に困つて、「次の犬を捜し出す迄の心境は筆には表せない」と彼の手紙には書いてあつた。なる程此の心境は犬を飼つた事のある人のみの知る處だと思ふ。
彼は苦労の結果終にシスと云ふ老犬を持つた。

此の老犬はオルテイーと同じ様に非常に悧巧で、従順な性質を持つた犬で、彼は大変な喜びで夢の様に二ヶ月位過ぎた時に、フトした事からシスが大怪我をして左側の前肢を切断しなければならない事になつた。然しシスは約三ヶ月位の治療で完全に傷も癒り元気になつたが、跛脚犬となつてしまつた。そしてシスは相変わらず毎日ゴルドン君のよい案内者として忠實に暮してゐるとの事です。然し此の治療機関の三ヶ月間はゴルドン君にとつて最も苦労した時であつた。彼は致し方無く他から臨時に犬を借りて使つて見たが、到底先に死んだオルテイーや怪我をしたシスの様ではなかつた。

彼の書簡中に、彼が1938年に日本に来た時の印象が非常面白く書いてある。彼は彼の両親が日本へ来た時には、日本は非常にきれいな國で、色々な変つたものが沢山有ると云ふ事を聞かされた。然し彼は盲人ではあるが、其れ以上犬を通じて日本人の真實の心情を知る事が出来た。そしてどうか日本の犬の友達へ真心こめたお禮の言葉を傳へて呉れとの事です。
私の子供や相馬さんのお子さんが戦争でなくなつた事を知らせてやつたら、非常に悲しみのこもつた言葉で彼はくやんで呉れて来てをる。
そして彼の兄さんも(アメリカ軍に)招集されたが、幸に無事帰還したと報じて来た。

私が戦争中第一陸軍病院で盲導犬の飼育管理治療等をやつて、全盲患者に大いに盲導犬の使用を推挙して満足な結果を得たと云ふ事を報せてやつた處、彼は早速熱心に下記の様な質問をして来た。

1.何頭位訓練したか。
2.訓練学校をつくつたのか。
3.どの位の期間を訓練に費したか。
4.盲人に依つて實際訓練されたか。其の訓練は男でやつたか、女でやつたか。
5.獨逸式でやつたか。ロウイル・クイポアに於けるユースチス夫人の訓練方法でやつたか。
6.皆んなシエパード犬のみを使つたか。


「日本シエパード犬協會は益々盛になつてをると思ふが、食糧関係なんかで非常にお困りだつたろうと思ふが、此の點に附いても詳しく知らせて呉れ、そして協會員から贈られた美しい土産物、お人形、花瓶、シエパードの子どもが母親の乳をのんでをる置物、ベルトバツクル、かぶと等皆今でも私の居間に保存してあります。再度日本に行き度いが、實は私も結婚してそして諸々地方を旅行して歩いたので、必ず日本へはもう一度行き度いと思つてをる」と彼は書いてをる。
彼は盛に私に對してアメリカへ獣医学の研究に来い、其の基金は何とか学校へ話してみるから来る覚悟はあるかと云つて来た。私は早速、一刻も早く行き度いから適當な大学へ交渉を頼むと返事をしてをいた。此れも犬を通じての話で、實際私には一生犬と縁がきれない事と深く感じさせられる。

彼は帰國後1941年にハーバード大学を卒業した。そして学校でしばらく勉強して講師になり、今は奥さんとシス嬢と楽しく暮らしてをるが、奥さんが少し胸が悪いので、此の治療に専念してをるとの事だ。
彼は又朝鮮問題(※2年前から始まった朝鮮戦争のこと)を非常に悩んでをる様で、第三次の戦争にならなければ良いがと彼一流の論説を長文で書いてをる。
其の論説中に
人間は何で争事をするのだらう。戦争なんかするのなら生れて来ぬ方が良いだらう。犬はよく訓練されれば絶對に争い事などはしない。人間ももつとよく徹底的に、道徳的に訓練されねば犬より下等な動物と云はれる様になる
と力説している。
終りに彼は、日本の犬友相馬、蟻川諸兄へ宜しくと云ふ言葉で終つてをります(遠藤智『犬と思ひ出』より 昭和27年)」

「遠藤氏の『犬と思ひ出』は、今から十何年前、相馬、蟻川両氏を中心として盲導犬運動が展開され、日支事変で盲目となつた戦盲勇士に多大の感銘を與えられたときに、遥々盲人にして盲導犬の實際的使用者たるゴルドン氏が米國から来日され、援助された當時親しかつた遠藤氏の思い出を綴られたもので、今や敗戦の不幸に遭い、殊に多くの戦盲者を出して居る今日一層感慨深く拝見しました。
盲人の救済は大きな社会問題であります。われ等のS犬がこの運動の一翼を担うことが出来ることは、まことに喜ばしいことであります。今や獨逸に於ては専門の学校迄設けられて大いにこの運動を推進して居ります。今後JSAでもこの意義ある運動を再興しようではありませんか(日本シェパード犬登録協会 有坂光威)」

 

暗い戦争の時代と混迷の戦後復興期を経て、「もはや戦後ではない」と経済白書に記された昭和31年。その翌年、日本シェパード犬登録協会と、帝国軍用犬協会の後を継いだ日本警察犬協会が和解を表明します。

新世代の盲導犬事業はシェパード団体から盲導犬団体へ、適合犬種もシェパードからレトリバーへとバトンタッチされました。その過程で、ボド、リタ、ルティ、アルマ、千歳、フロード、エルザ、利根といった陸軍盲導犬や、アルフ、エルダ、勝利、示路といった民間盲導犬たちも、存在を忘れ去られてしまいます。

1970年代には軍事研究家の寺田近雄が陸軍盲導犬を取り上げたものの、犬の智識皆無のミリタリー界と軍事音痴の犬界が交わる筈もありません。

戦盲軍人誘導犬の再評価が始まったのは、ようやく近年になってからのこと。銅像を作って褒め称えろとは言いませんが、その功績は正しく評価されるべきでしょう。
彼らは確かに存在したのですから。


帝國ノ犬達-盲導犬

小林さんは、久し振りに懐しい陸軍病院を訪れました。
小林「それで、院長どの。今日伺つたのは他でもございません……。盲導犬をお返しに参りました」
院長「ほゝう、犬を返しに……これはまた早いなア」
小林(泌々と)「院長どの。自分が退院します時に、日本では、外國ほど澤山に盲導犬は要らないと仰有いましたが、その理由がよく解りました。國民に代つて断言すると仰有つたことも、全くその通りでありました。自分は、日本に生れたことを、今ほど幸福に思つたことはありません。この犬にも、大變世話になりましたが、もう自分には要らなくなりましたから、どうか他の人に譲つてあげて下さい」
院長(微笑して)「はゝあ……さては小林、君も妻君を貰つたナ?」
小林(どぎまぎして)「いゝえ、そ、そんな事情ではありませんが、もう自分は獨り歩きが出來ますから、お返し致します……有難うございました」
小林さんは、かう言つて歸り支度を始めました。
犬(悲しげに)「……ワン……ワン……」
院長(やさしく)「こら〃、さう啼くな。お前は、もうお拂い箱だとよう。お前の主人はなア、足元もまだ極らぬ癖に、獨り歩きが出來るなぞと、見え透いた嘘をついたが……ほら、あの通り、手を曳いてくれる人が、ちやアんと外で待つてゐたんだ。
(短い間)
あれでいゝんだ。もう、あれで心配は要らん……
お前は明日から、また新しい主人に仕へるんだ。
戰争はます〃激しくなつた……
お前に働いて貰ふのも、これからだ。しつかりやつてくれ……頼むぞ……」
院長は、かう言つて、静かに犬の頭を撫でました。

軍人援護會兵庫縣支部 紙芝居『盲導犬』より 昭和19年