古本の市は、月の八の日に開かれます。
銃後の街は忙しい……
電車、自動車、自轉車、荷馬車……
その中を小林さんは、犬を伴れて買出しに出掛けます。盲導犬は、交通信號の赤と青もよく見分けて、主人を組合まで伴れて行きます。
子供「小父ちやん……傷痍軍人の小父ちやん……今ね、女の人が小父ちやんにお辞儀をして行つたよ」
小林(輕く)「あゝ、さう……有難う」
無邪氣な子供の言葉に、何氣なく禮を言つた小林さんは、ハツと氣が付きました。
小林(獨り言句切り〃)「さうだ……自分は眼が見えないのだ……人がお辞儀をしてくれても、それが判らない……これまで幾人の人が、識らぬ間に頭を下げてくれたことだらう……或は、今、かうしてゐる間にも、道往く人の無言の感謝が、吾が身に注がれてゐるのかも知れない……それに對して、自分は答禮することが出來ん……」

帝國ノ犬達-盲導犬

 

軍人援護會兵庫縣支部 紙芝居『盲導犬(昭和19年)』より

 

№11【民間盲導犬の誕生】

 

陸軍盲導犬の活躍が報道されていた頃、人知れず誘導任務をおこなう民間盲導犬が存在しました。現在確認できた戦時の民間盲導犬は4頭。

前回紹介した姫路のエルダー、東京のアルフ、大阪の勝利、北海道の示路がそれです。

まだ我が国の盲導犬史に記されていない、未知の盲導犬たちについて取り上げましょう。

 

【盲導犬アルフの死】

明治大学の籠球(バスケットボール)選手だった鈴木彪平氏が、競技中の怪我が原因で失明したのは23歳の時でした。それからの数年間、失意の日々を送っていた鈴木氏は、ある時JSV会員の岡田虎雄氏より盲導犬の存在を教えられます。
自分で盲導犬を訓練しようと思い立った鈴木氏は、シェパードの仔犬を譲ってくれるよう岡田氏に依頼。そうして選ばれたのが、昭和14年12月28日生まれのアルフ号でした。

 

昭和十五年三月十九日
〇〇さんより“ゴゴ七ジ コイヌツレテユク エキマデ ムカエタノム”の電報をうけとつた日から、自分のところの家族となつたシエパード犬アルフは私の無聊を慰めてくれる唯一の友となつた。朝から夜迄、五回の食餌。糞尿、敷藁の世話に私の一日の時間は多忙を極めた。アルフは三ヶ月にも滿たない仔犬であつた。

四月一日
自分の住居から五町程離れた姉の家迄アルフを左手に、ステツキを右手に見えない道をアルフに三分、ステツキに三分、あとは地形や風向きをたよりに初めて獨り歩きをした。出がけに危ぶんでいた母も、私が無事に姉の家迄往復して來たのを見て驚異と喜びに迎へてくれた。私の心には自信の念が勃然と湧き起り、次の日から一日すくなくとも二回はアルフと共に姉の家までのコースを往復した。此のコースは、曲り角が四ヶ所、その半分は舗装道路、半分は畠の中を通つてゐる。砂利道から舗装道路への連絡は明瞭であるが、舗装道路から砂利道への連絡は餘程注意が必要であつた。
アルフは未だ私についてくるといふ程度で、草野ある畑路ではよそ見をして道草を食ひ、曲り角や障害物を教へる事もせず、私が溝へ落ちたりすると却つてじやれて困らせたりした。満ちに迷つた事も四五度あつた。迷つたり溝へ落ちたりすると私の自信も崩れかけるが、又勇氣を奮い起してアルフとの歩行訓練をつゞけた。

 

かくする内に四月もすぎ、五月もすぎ、アルフも次第に大きくなつていつた。六月に入る頃にはステツキが無用となり、畑の中を眞直に通つてゐる二町餘りの砂利道をアルフと一緒になつて駆足などする事も出來た。此の頃、アルフの發育の爲に私に付添ひの少年が閑々に原に連れて行つてボールを投げて取りにやつたり、脚側行進のやうな練習をしてゐた。
八月に入つて、今迄の四ヶ月間つゞけたコースを変へて、同じく私と姉の家の間ではあるが、曲り角が六ヶ所ある、以前のコースよりも複雑な裏の細い道を選んだ。この新らしいコースにも大きな失敗もなく、五分をアフルに五分を自分の感覚にたよつて、毎日歩行をつゞけた。同じく此の頃から姉の家より二町程先きにある兄の家までも、危なげなくアルフと行くことが出來るやうになつた。
九月に這入つてからは魚屋や八百屋へもゆけ、自動電話のところ迄もゆけ、いろいろ用事が出來るやうになつた。このやうにして、益々自信を强め、新しいコースの選擇延長を計りつゝある。アルフは氣性の荒い方で、誘導犬としては不適當であるかと思はれたが、それにも係はらず私の杖となり羅針盤ともなつて呉れてゐる。

十二月廿九日に私は姉の家の隣に移つたのでコースを全然新らしくし、驛迄の人や車の交通の激しいコースを日々練習歩行してゐる。以上は誘導犬の訓練に就いてまるで智識のない自分流の方法で訓練したのであるが、いつも考へることは、如何なる訓練が最も良い方法なのか知りたいと念じてゐることである。獨逸、米國あたりでは誘導犬の訓練並び利用が普及してゐると聞き、又我國でも最近傷痍軍人が此れの使用を實際にしてゐると聞いて、日本でも誘導犬の訓練と利用が普及し、盲人に新たな光明が與へられる日の近いことを切望してゐる。



以上の手記は鈴木さんが口述されたのを書きとつて私の手許へ送られたものです。
この手記によれば、ステツキが無用になつた六月頃は、アルフは十四年十二月廿八日生れなので、滿五ヶ月ほどの仔犬でありました。自分達のところでは、この時分の仔犬の可愛いゝ最中で來年のジーガーを夢みたりして無駄な時をすごしてゐる時代であるのに、アルフはその盲の主人から杖を手放さしめました。私はそれを想ふと、瞼の底に熱い涙を感じないではゐられないのです。溝に落ちた盲の主人にじやれついて遊ぶ無心な仔犬の姿に、無限な愛感を感じると共に、シエパード犬に課せられた大きな使命に相到し、並人間に課せられた大きな課題についても厳粛な氣持で何か考へることがなければならないことを思ひます。

アルフは、Bero v. Deutschen Werkenの血をその父系の二代に、Fussan von Fussenの血をその母系の二代に持つた仔犬でした。私がこの一月の初めに鈴木さんを訪ねてアルフを見た時、發育の状態も悪かつたので、病氣に對する抵抗力について危なかしい氣持ちがしてゐたのでしたが、日夜忽忙とした生活に追はれてそのまゝになつてゐたのでしたが、この稿を書いてゐる日の七日許りまへに、テンパーで急死した報せを受取りました。私は無量な感情に今うたれてゐます。
鈴木さんより送られて來た歌をこゝに付記して、この稿を終ります。
昭和16年2月19日 岡田虎雄

犬
犬

 

犬

 

鈴木彪平・岡田虎雄『盲人とシェパード犬の話(昭和16年)』より

 

民間盲導犬アルフはひっそりと短い命を終えました。戦後に渡米した鈴木さんが盲導犬アルマと出会い、「栃木盲導犬センター」を設立するのはそれから30余年後のことです。

 

【北海道の示路】

戦時盲導犬の記録をもうひとつ。こちらの犬は昭和18年の北海道で活動していました。

 

三上富雄氏
北海道で日本犬を誘導犬に自ら訓練して使役してゐるので有名な氏は、三月下旬社用で神戸迄行くことになつたが、その機會に關東關西に於ける誘導犬の實際を充分觀察し、徹底的に研究したいと非常に意氣込んでゐる(白木正光 昭和18年)

 

まさか北海道にも盲導犬が居たとは。しかも日本犬種の盲導犬だったとは。

調べてみると、これは上砂川三井鉱業所附属病院のマッサージ師である三上富雄氏が飼っていた北海道犬でした。

14歳の頃から徐々に視力を失っていった三上氏は、東京の盲学校を卒業後に北海道で就職。勤務先の病院と社宅との行き帰りに不自由していた彼は、北海道犬による誘導を試みたのです。

 

鈴木氏のアルフと同じく独力での訓練でしたが、示路の誘導能力は不自由なく通勤できる迄に上達しました。

 

私の視力が、最惡の状態にまで進みつつある時、私はふと、「盲導犬」と云ふ言葉を思ひついた。私等の自尊心から、又その未熟な感情からも、日頃私は、その言葉を、餘り心よく思ひはしなかつた。然し、今の私はそれが希望に考へられる様な状態に迄なつて來た。欲しかつた。心から欲しかつた。然し私の生活は經濟的にそれをする事が出來ぬ有様なので、私は再び暗いみじめな心になつてしまつた。勤務の歸途、家族をわづらはす、その時々の侘しさ。
犬、犬、余り大型でない犬、手引犬。吾手に傳る左右上下の引づなの感触、私の感覺は充分だ。
欲しい。
そんな風な意欲を毎月の様に、考へ考へ、遂に私は北海道に住居する人々の……同じ様な肉體の人々の事も考へる様になつた。日本犬―北海道犬―ふと私の考を意味付けるかの様に、健康な友人らが日本犬を持つてゐる事に氣付いた。私は遂に、日本犬を入手する事が出來た。それからの私の生活には、犬が割り込んで來たのだ。
犬を引く。それが現在まで、また更に將來にまで、明るい光と希望と安心とを増大させながら續くに違ひない。
私は肉體的にも、經濟的にも、洋種の優良犬を、手引犬として、入手することは不可能であつた。日本犬として、私は北海道犬の、優秀さをも同時に知つてゐたので、とにかく私は私の出來得る範圍内で入手した。そして犬との生活は愛玩では決してなかつた。犬と私と、家族と三位一體のものでなければならないのだ。

まづ私は犬との生活にも、犬を訓練するのにも、さうした考へ方をし、それを實行して見た。案外な成績が私をよろこばせ、希望を持たせた。彼は常に、よく粗食して呉れた。又寒さにも實によく耐へてくれた。さうした事々は、私の經濟的な負擔をも、輕減してくれ、心配のないものにしてくれた。彼は常に私の前を歩いてくれる。彼の體格は、洋犬のそれに比して、短小であり、然も氣性も極めて純良である。他の凡ゆる洋犬の手引犬に比較して、それらの點で遜色はないと私は思ふ。

こうしたふべての事が從來日本に輸入された、所謂誘導犬なる犬との差であり、又、特筆すべきは、粗食、耐寒、從順、體格短小と云ふ事である。その誘導犬としての良否は、それは今後のことに待たねばならない。私は唯、私と犬との生活の斷片をここに誌す事によつて、私と同じ肉體の所有者、又そのよりよき理解者である世の識者に告げるのみなのである。
そしてこの日本犬(私の場合は住居の関係上北海道犬なのである)がやがて、よりよき手引犬として訓練され、指導されて、より大なる範囲に活用される事を、衷心より希望し、又それをなすべく與へられた課題を解くものであるとの自負のもとに、この稿をつづる


盲導犬

三上氏と示路による誘導實演(昭和15年)

 

私は、先づ犬を操作しなければならない(訓練の詳細は後日に正確を期し度いと思つてゐるので、ここには、操作上の諸點と、注意すべき事柄の概略をしるして見たいと思ふ)。現在、多くの誘導犬なるものは、主人はその犬と、ほぼ平行の位置を保つて歩行をするのが原則とされてゐる様である。然し私は、さうではない。私は犬の後部に歩いてゐる。委しく云ふなら、私の犬と、私の位置、間隔の關係は次の通りである。
犬の右斜後に、犬と一歩乃至半歩はなれて左手に、鎖を持つてゐる。それが私と犬との歩行時に於ける、平常の場合の原則であり得る。
更に私は、惡路(凡ゆる場合の惡路を意味する)の場合には、この位置よりも、もつと犬と直線的な、關係を持續する。それは誘導犬に對して、私の持つ疑問の故にでもある。
何故なら、犬は私に良い道を歩行させ自ら惡路を歩くであらうか。例へいかによりよく訓練されたとしても、總ての誘導犬なる犬がさうしてくれるであらうか、と云ふことである。と最う一つの理由には、犬の後に歩行することは、前方からの障害物をどんな場合にも、さけ得ると云ふことである。
私は吹雪の道を歩行する。横なぐりの風は、雪と云ふ感じよりも、更に荒れた粗大な不快さで私をたゝきつける。私は犬の眞後より歩く。道はすでに失はれてしまつてゐる。犬は見事な嗅覺で、その失はれた道を見出しつつ敢然と歩いてくれる。
私はその後を歩けばよいのだ。更に強く吹雪けよと叫びたくなる位、私は滿足と、光とを持つて歩行する。突然、私の犬はその歩をゆるめた。私も同様に、……犬は、吹きだまりに直面したのだ。然しやはり歩く。ゆつくりと、注意深く、私も進んで行く。犬は淺い所、固い雪の面を選んで歩く。私は遂に困却を知らずに、その吹き溜りを通り得る。
更に又、四月、解雪期の道を、山に向つて私は散歩する。四月の薫風は、北とは云へ眞新しい生命の息吹を私の體一面に、やわらかい感触で吹きつける。緑も、美しい様々の色彩と、ふくらみを持つてゐるに違ひない。でも道は、雪解の水にぬかるんでゐる。犬は私の注意を理解するのか、時折私を振りかへるらしい。鎖の動きはそれを敏感に私に傳へる。道は相當の傾斜である。水が流れてゐるのか、ちら〃とひそやかな音を立ててゐる。溶雪期の雨に洗われた山道は、石が多く歩行は困難である。然し犬はよく歩く。私は私で、その春をよろこびつゝ犬に引かれる。犬との位置は犬の直後、前述の通りである。
北國の春はさすがにをそい。然しそれは實に多種多様な色彩と光と影とを持つてゐる。さわやかな南風に、私は歩を止めた。ふと冷え冷えとした空氣と、急にかぐわしい香氣とを感じた。
犬も止まつてゐる。私はとある樹蔭に入つてゐるのを知つた。美しい影は地上に幻想を畫いてゐるだらう。そして又、限りなき光と香氣との交叉でもあるに違ひない。私はそれを感受する。登りも下りも、何の不安もなしに私の散歩を私と犬とは終る。
石狩の沃野に夏の風が吹き通る頃、私は、驛の階段を登る。一段、一段、左を行く。犬も私より二段先を登る。彼は極めてゆるやかに行く。引鎖は緊張もない。弛みもない。適度に張られた感じである。一段を行く毎にそれは、上下する。私はそれを感じつつ、階段を意識外に、登行すればいいのだ。犬は下る時、一寸止まつた。然しそれは何も私の歩行に障害とはならなかつた。矢張り鎖に依つて下ることを私に傳へる。鎖も同様に快的な、リズムに乗つて、汽車に走る。旅行のたのしさは、私も犬も充分によく知つてゐる。
私の最近の四季は、かくて明るい希望で滿ち〃てゐる。青空を仰いで歩くのだ。

私等は實に前かがみに、地上のみを注意して来た。今こそ皆んなで青空を、大氣を、充分に享受しなければならない。
惡筆に、悩まされながらも私はこの希望にたたかれて、この一文を草した。更に又、私は云ひ度い。將來、私等の生活に、犬との關係を深めて行く事は、私らの健康と幸福とに大いなる光を投げかけるに違ひないと云ふことを。
最後に私は機會を得て上京、誘導犬訓練の状態を本格的に、研究して來たく思つてゐると同時に、犬の愛好者諸兄のよりよき協力を希望するものである。私等と犬とに與へられた課題、それは多くある。その一つ一つを私等は、たん念に理解して行かねばならない。
秋冷の加はる日毎、毎日を散歩に、通勤に、さては又向寒の小春日和をたのしみつつ冬への心配もなく、私は誰れ彼れとなく友人を訪問する事だらう。日ざしはうららかに佳麗な山ひだの紅葉を心に見つつ、擱筆する次第である。

 

三上富雄『私の手引犬』より 昭和15年10月14日

 

鈴木さんや三上さんの様に、独力で盲導犬訓練を試みた民間人は結構居たのかもしれませんね。……などと思っていたら、大阪でも「盲導日本犬」の記録を発見しました。

 

【大阪の勝利】

 

豊島園富士撮影所の支配人だった大味正徳氏(53歳)が失明したのは昭和13年のこと。眼病手術の失敗が原因でした。其の後、大味氏は東京から大阪へ転居。住吉区の阪南町で静養生活を送ります。
絶望の中、彼を支えたのはヘレン・ケラーの生き方でした。更に盲導犬オルティ号が来日したとのニュースを聞いた大味氏は再起を決意、日本犬協会の藤原繁吉氏に仲介を依頼し、堺市の人物から紀州犬の「勝利」を購入します。

 

勝利號と云ふ名は皇軍が徐洲で大勝した時生まれたので斯く命名したとの事である。現在二年半の赤毛犬で大きい方である。
勿論大味氏は犬に經験があるわけでもないので、如何に訓練するべきかと云ふ方法も別に意得してゐるのではなく、初めは散歩の時連れ出す程度であつたが、勝利號は自分の主人が普通人とは異なつてゐると云ふ事を間も無く理解した。初めの内こそ勝手に大味氏を摺り廻したので溝に落ちたりした事もあつたけれど、忽ちにしてよき指導者となり、往來では人の居らない所を選び、四ツ辻では先づ周圍を見て自動車が來れば止り、注意して大廻りに廻り、ゴー・ストツプの交叉點では必ず立止つて交通整理係が手を揚げないうちは敢て進まないと云ふ用心は、人間に勝るとも決して劣らん利口さである。そこで、大味氏は丁度眼が開いた様な心境となつて、今迄の暗い心境は勝利號によつて全く解消されて仕舞つたのである。
今や人情紙の如く薄く功利主義は深く人の心に喰ひ込り、恩を仇で返す世の中に、犬の世界の、否、吾人の愛する日本犬は、西洋犬に比して極めて粗末な取扱ひを受け、而かも彼の求むる所は腹を滿すに足るだけの食物と、主人の優しき愛撫の手により外に何物も無いに拘らず、其の報ずる所は不自由な主人の眼となり杖となつて朝夕奉仕する。
(中略)
大味氏は五十五歳の俄盲人なるに拘らず、人手を借りず杖に頼らず、如何なる人ごみの所でも勝利號を杖として往來し、樂しき月日を送つて居る。今は住吉區昭和町三丁目十三番地のヘレンケラー來朝紀念の愛盲事業に從事し、半井大阪府知事を會長として盲人と云ひば按摩とか音樂に關係ある方面にのみ職業を求めさせたが、適材適所に用ゆべく、偉大なる神の如き仕事に精進しつゝあるのである。嗚呼正に前途を誤らんとした大味氏は、一日本犬の牝によつて光明を見出した事は獨り大味氏の幸福とする所ばかりでは無いので、仝氏は此の幸福を總ゆる盲人、特に失明戰傷者に分ち與へんと祈願し、今春勝利號を連れて東海道を徒歩で上京し、失明戰傷者を慰籍して盲導日本犬を勧めんとしたのである。

 

高久兵四郎『盲導犬(昭和15年)』より
※この上京計画は大味氏の病気で延期となりました。


帝國ノ犬達-勝利

大味氏と勝利號の紹介記事。日本犬協會資料より、昭和15年


勝利号の活躍を知った日本犬協会では、昭和16年から日本犬を使った戦盲軍人誘導犬訓練計画を開始します。

 

牝犬たるを要す。

生後六ケ月以上一年半未滿のもの
中型犬若しくは其以上の體格のもの
溫順にして服從心に富むもの
警戒性發達し、而かも憶病ならざるもの
右の條件に適合せるものを飼養の會員は、無償で事務所に一任して献納するか、又最低價格を明記して通知されん事を望む。然る時は事務所より實地調査を行ひ、適當と認むる時は、之を受入れ更にテストを行ひ、盲導犬として初歩訓練を施し直ちに献納の運びを探る計畫である。

 

日本犬協会事務所『盲導犬献納』より


あと、この時代の盲導犬についてもうひとつ。
戦前のドイツの記録には、まるで介助犬のような能力を持つ盲導犬が出てきますが、日本の盲導犬の中にも似たような犬が居たそうです。

 

『良くしたものですね』
『えゝ、その友達が、此の犬を仔犬の時から育てゝ居て、便に連れ出す時、必ずオシツコつて出したので、自然それが出來る様になつたのでせう。冬の寒い時分、炭が欲しい時は部屋の隅から炭かごを持つて來て呉れるし、又元の所へ持つて行つても呉れるのです。タオルや煙草やマツチ等も向ふのテーブルから持つて來て呉れるのです』
タバコとかマツチの言葉を聞いた爲か、その犬は又立ち上がつてH氏の膝に顔を持つて行く。
『あゝさうか、タバコとマツチを持つて來て』
犬はいそ〃と向ふの低いテーブルに行つてl、先づタバコを持つて來たが、直ぐ引かへしてマツチを持つて來る。

『よし〃』
見てゐると、此の小さな動物が何とも云へずいぢらしく、可愛ゆくなつて来る(前出『盲導犬の黎明』より)」

 

当時、このような介助任務は「常用誘導」と呼ばれていました。

 

之は日常家庭生活中の誘導訓練であつて、犬は常に起居を共にし、指導手がベツトにをればその側にゐて、便所、食堂、休憩室、ポスト其他日常生活の必要なるものに對して名詞によつて誘導させる訓練である。

例へば、W.C.と云ふ言葉に依つて直ちに便所に誘導し、ポストと云ふ言葉に依つて直ちにポストまで盲人を案内するの訓練を行ふ。

 

宮川文雄『時局に必要なる盲導犬と其の訓練法(昭和13年)』より


盲導犬事業は社会的重要性を持つとして、JSVは昭和15年2月28日の理事会で誘導犬部の設立を満場一致で可決します。本部、地方支部及び各グルッペにて研究会を随時開催し、戦盲軍人誘導犬普及運動と一般社会への啓蒙活動、点字の学習等が始まりますが、それ以上事業が進展する事はありませんでした。

(次回へ続く)