尾張屋(快活に)「弘文堂さん、御精が出ますなア……どうです、餘り混まないうちに、風呂へ行きませんか」
お隣りの尾張屋呉服店の御主人が、親切に聲をかけてくれました。
小林「尾張屋さん、いつも済みませんなア、態々誘つて頂いて……犬に伴れて行つて貰ひますのに……」
尾張屋「アハゝ、弘文堂さん……風呂へ行くには、犬伴れぢやア駄目ですよ。いくら賢い犬でも、背中を流してはくれますまい。おつと、そこでひと跨ぎして下さいよ。溝がありますから……。然し弘文堂さん、いつも家内とお噂をするんですが、眼がお惡いのに、よくまア、おやりですなア」
小林「いゝえ……皆さんのお蔭で、どうやら決心がついたところですよ」
尾張屋「でも、なんでせう……商賣となると、またいろ〃御不自由なこともあるでせう。お客さんは、貴君が傷痍軍人だといふことは識りませんからなア……。どうです、弘文堂さん。あんた、お嫁さんを貰ひませんか。私がお世話をさして頂きますが」


帝國ノ犬達-盲導犬
軍人援護會兵庫縣支部 紙芝居『盲導犬(昭和19根)』より 昭和19年

№9【リタとの生活】
※葉山太郎氏「日本最初の盲導犬」を元に、内容の追加・訂正をしています(2009年8月)。

昭和14年12月12日、傷の癒えた平田軍曹は、リタと共に富山へ帰郷します。翌年、平田氏がJSVへ点字で書き送った手紙には、郷里での新生活について書かれていました。

 

郷里の人々は中年にして盲いた私が、どんな足取りで歸つて來るかと不安と同情の目な差しで迎えてくれたのであるが、『リター』に導かれて危なげ無く歩くのと、初めて見る誘導犬とに驚異の瞳を見張つた。嘆息を漏らす様に、感嘆しつゝも安神してくれた。私の知人の一人が初めて『リター』を見た時、『見えない者がどうしてあの犬を仕末出來るのかと心配で氣が氣で無かった』と數日後になってホツトした様に私に述懐した。家族の者も口にこそ出さなかったが、それ以上案じてゐたらしい。私が『リター』に關して説明する事が、一度に全部信用出來なかったのである(平田宗行)

 

平田軍曹以外には懐かなかったリタも、10日程で家族との親和に成功。平田家の一員としての生活が始まります。平田氏とリタはJSV金澤支部からの支援を受けつつ、亡き戦友の墓参や、講演や愛犬家座談会等での盲導犬PRに努める日々を送りました。
金城校の加藤二郎氏からは「リタを生徒に見せて盲導犬への認識を深め、動物愛護の心を培いたい」との申し出があり、昭和14年12月22日に同校を訪問しています

 

三郷の停留所へつくと、平田さんは『ベンチ』と命じた。リタはベンチの所へ導いた 之は珍しい訓練だゾと私は驚いた。こゝから電車に乗るのだが、中々混んでゐる。その人混みの中へ平氣でリタは主人を導いて行く。足を踏まれやしないかとハラハラしたが、何ともなかつた。
リタは吊皮に下がつて立つて居る人々の脚の間に埋まつてゐる。尾は相變らず挟んでゐる 併しシヤイらしくは見えない。
突然窓に飛びついて驚いた。蝿を見つけたのであつた。JSV誌の記事を思ひ出して微笑が湧いた。
乗合の人は、赤十字のついたハンドルを見て盲導犬だと知つて色々勝手な噂話をしてゐる。犬の頭を撫でる人もあつた。リタは大抵黙つてゐたが、時々低く唸る事もあつてあぶないナと思つた。併し幸ひ事なく済んだ。
汽車では犬箱に入れねばならない。犬を離れてポカンと突立てゐる平田さんの手を引いて汽車に乗せる時、遠くでリタの悲しい聲が聞えた。平田さんも暫しの別れが淋しかつたらう。
金澤の驛で平田さんをホームに待たせてをいて私はリタをつれに行つた。リタは夢中でグングン綱を引いて行く。平田さんは元の所に立つてゐる。一歩も動けないのだらう。犬がすぐ傍まで來ても解らないらしい。首環の鈴を、も少し大きくしなけりやいかんと思つた。主人を見つけるとリタは狂喜して飛びつく。縁なき人々の目にも痛ましく美しい光景で多勢立留つて見てゐた。
學校につくと、生徒達は講堂の席について待つてゐた。新聞で見て盲唖學校の盲生全部がきゝに來てゐた。會員の他有志の人も集つてゐた。演壇へ犬をつれて上るのも美しい光景である。
講演は戰爭の事とドイツ盲導犬の事と、そして自分とリタのお話であつた。お話もしんみりした調子でよかつたが、演壇に立つ人とその傍の犬。其の形が感傷の強い八百の乙女達に少なからぬ感激であつたに相違ない。とりわけ先日ブリンノ(※金城校で飼っていた犬)の葬式をすませたばかりであつただけに、女學生への大きな刺戟であつた。あとで、先生あの犬の仔を貰つて下さいと攻められて困つた。盲生の中でも、此の犬の仔を欲しいと云ふものが幾人も出てきた。盲導犬の仔なら、すぐこんな作業をすると單純に考へてゐるらしい。
講演が終つて拍手が鳴ると、リタは作業の終つた事を悟つたと見えて停留場の時と同じ様に又平田さんに飛びついて喜び狂ふ。演壁の上で平田さんも少々之に辟易して居られた。應接室には各新聞社の記者達がつめかけて色々質問をあびせ、カメラを向けた。翌日の新聞には一斉に派手な記事が出た。

座談會の會場までは十町ばかり街を歩いた。リタは例によつて左側を導いて行く。そして電柱や(かなり道の中央近くに立つてゐるが)ポストの所はアツと思ふがうまく右へよけて行くのは鮮かであつた。座談會の魚半食堂はエレベーターに乗つて、それからデパートの食堂のやうな中を通つて別室へ行く。其の乱雑に並んだテーブルや椅子やお客の間をうまく縫ふてリタは行く。平然として平田さんも行く。私はあの大擔な歩き振りに驚いた。新宿邊りの人混みの中でも歩けると平田さんは云つて居られた。座談會には會員の他、盲學校の先生も列席された。楽しい犬談に時の移るを忘れた。私達は盲導犬の豫想外の實用價値を認識した。そして此の訓練に少なからぬ興味を持ち始めた。
日本で一番先にZpr(※種族訓育試験)をとつた、そして最初のSchH(防衛犬試験)をとつた金澤支部として、之は當然の事だらう。MH(伝令犬試験)は既に阿部さんのボドがとつた。HP(牧羊犬試験)は北海道のエツがとつた。私達は更に此の訓練を研究して見やうと新しい勇氣が湧いた。
「どうも犬は高さの觀念がないので目をつむつて行くと看板に頭をうつてね……」と松本さんが云つた所を見ると、もう既にとりかゝつてゐるらしい。尾を挟む事、應接室で不用意な新聞記者を襲ひ而も齒を立てなかつた事などが、問題としてで議された。之は後日私達の手で研究して見やう。私は―私個人として―かねて家庭犬としての訓練を主張し、考へ込んで來た私は盲導犬とまで行かなくても、誘導犬として幼稚園へ行く子供の送り迎へ位はしたいと思ふ。之位の訓練は是非やらうと思ふ。そこそこに出來てゐたブリンノが死んだのが新に愚痴も出た。
だが今更、死んだ子の歳を數へて何になろ。私は又何やら新しい希望の曙を見た。残り惜しい思ひの中に私は再び停車場へ平田さんを案内した。平田さんも私達に別れる淋しさ―假令一夜の友であつても犬の友達は懐しい―感じて居られたらしい。
汽車が動いた。「さようなら」「お達者で」と云ひ交して汽車が走つて行つた。一番あとに貨車が通りすぎた。其の中でリタが啼いてゐた。

 

加藤二郎「盲導犬を迎へて(昭和14年)」より


帝國ノ犬達-リタ
金沢の金城高等学校を訪問した平田軍曹とリタ(昭和14年)

これから2年後、日本は対米戦争に突入。枢軸国側の戦況は次第に悪化していき、ドイツとの輸送ルートが途絶した事で盲導犬の追加輸入は絶望的となりました。
やがて空襲と食糧難によって人も犬も生き延びる事に懸命となる時代が訪れます。戦争末期の金澤では、帝国軍用犬協会の呼びかけによって本土決戦民間義勇部隊「国防犬隊」が編成されるほど逼迫した狀況にありました。
平田氏とリタが戦時下をどのように暮らしたのかは判りません。残された記録も、まだ国内が安全だった昭和15年4月に書かれた手紙だけです。

 

リターは樂しそうである。それ以上私は和やかである。リターは四方の眺めに見入っている。未だ淺春の日光は淺いが、川端のねこやなぎはいまにも芽をふきそーになつてゐる。
森の若草、咲けよ櫻、小鳥も來て歌え、蜜蜂も飛べ、蝶も舞え、そして日本の盲導犬の進軍を讃えよ。皇紀ニ六○○年の春と共に……。

 

(三月、富山にて 戦盲ヒラタ・リター)昭和15年4月

 

※「日本最初の盲導犬」によると、リタは一旦陸軍病院へ戻されたそうです。

平田軍曹と共に暮したリタとは違って、ボドは陸軍病院で戦盲軍人の補助を続けていました。財団法人アイメイト協会の塩屋賢一会長もその著書『アイメイトと生きる(出窓社)』で触れておられますが、盲導犬達は戦盲軍人に与えられた犬と、陸軍病院に入院している軍人の誘導に当った犬に分けられていた様です。
多数の戦盲軍人を誘導する為、限られた頭数の盲導犬達をフル稼働させるしかなかったのでしょう。
陸軍病院に残ったボドですが、一旦は退院した舛田准尉とともに暮らしていたとの事。

 

實驗者は當時入院中の桝田少尉である。桝田少尉は病院退院後その犬(ボド)をつれて郷里に歸つたが、新聞記者にこんな感想をもらしてゐる。
『病院當時からボドに伴はれて構内を自由に散歩しながら、盲導犬の研究を續けてゐましたが、ボドはとても可愛い奴で、看護兵が私の肩をたゝいてくれたり、髭を剃つてくれたりすると、私に危害を加へるとでも思つてか、看護兵に飛びついて大騒ぎをして私を護つてくれました、責任感の強い事は人間以上です』
千葉一正著『光に起つ(昭和17年)』より

 

其の後、桝田准尉と暮らしていたボドは再び陸軍病院へ戻った様で、幾つかの資料にその名が記録されていました。

 

・杖先に 土をたたきつつ院庭を ボドーの後つき散歩するなり

陸軍上等兵 川内寅松

 

最近面談した陸軍病院山本曹長の話を聞いても、氏は戰盲となられてから愛犬ポドー号にすつかり身を托されてゐるのであるが、『毎日犬と起居を共にすれば、犬は私を知るばかりではなく、私の目の見えない事を知つてくれてゐる様に思ひます。普通の人なら、尾を振つて喜びますが、私にはその尾を振つてゐる事を私の触感に訴へてこれを知らしめ様としてゐる事がわかります』
云々との事であつた。

芝池太郎『人犬話解(昭和17年)』より

 

上記の山本氏は、ボドの最後の主人となった人です。

 

盲導犬の訓練は犬の先天的良性質に、幼い頃より誘導へ適する如く躾をし、それに訓練を施し、これを習慣としたもので、常にこの良習慣を反復することに依つて、盲導犬としての優秀さを發揮せしめることが出來るのであります。歩行は決して犬に全責任を負はせ、自働車へでも乗つてゐるやうに思ふのは間違つてゐます。犬に任せて居りさへすれば、自分の欲するまゝにどこへでも行かれると思ふのは間違で、又こんな蟲のいゝ考へ方をしてゐるとすれば、それは根本から誤つてゐます。

盲導犬との歩行は、犬に誘導されると同時に犬を誘導して歩くのです。歩行中の半分は失明者が負はなければなりません。實は私も最初、戰友が盲導犬と一緒に歩いてゐるのを聞いて、たゞ人形のやうに、犬に連れわれて歩いてゐるのだとばかり考へてゐましたが、さて實際自分が犬を頂いて歩くやうになつて、始めて盲導犬も人が使ふものだと言ふことをはつきり知りました。でありますから、使用者が一度でもその習慣を壊すやうな動作でもすると、盲導犬はその特徴を失つてたゞの犬になつてしまふ虞れがありますから、犬の優秀さを望むのは勿論でありますが、それ以上、使用者がしつかりした歩行感覺を持つてゐなければならないことを知りました。
歩行と訓練は常に忘れることの出來ないものでありまして、人間の修養が一生續けられねばならないやうに、この歩行訓練も常に續けられなければなりません。よく人が、若し盲導犬がゐなくなると歩行に非常な不便を感ずるだらうと言はれますが、これは盲導犬を持たぬ人のいはゆる机上の空論であることが犬を持つて初めてよく解つたのであります。犬と歩く時は勿論、導かれる我々神經はピンと張つてゐなければなりません。かうして歩いてゐると。歩く自信と勇氣が充分出て來て、とかく困循になりがちの失明者が、非常に活動的になつて來ると思ひます。私は犬の使用後六ケ月でありますが、病院を基點として戸山ケ原、西大久保より淀橋町に到る間、省線大久保駅、新宿、河田町、牛込榎町、小石川失明軍人寮、東京盲學校、後樂園等は犬と一緒に往復することが出來ます。勿論犬が居なくともこゝの地理は解つてゐますから、一人で歩行し得る自信はあります。たゞ犬と一緒ですとその速度が常人に劣らず、馴れた道はむしろ正眼者より速く歩くことが出來ますが、普通の道路ならば一キロを十分で歩行出來ます。

光一つ見えぬ身が正眼者に劣らず、むしろ正眼者を追ひ越して堂々と闊歩して行けるのは實に愉快であります。犬を得ることに依つて孤獨感から救はれ、生活に對する強い自信が沸いて來た私自身の經驗から、戰友が一人でも多くこの犬を使つて、その不自由を除去して欲しいと念願してゐます。

 

『光に起つ』より、山本卯吉曹長の談話

 

大阪の堺輜重兵第4連隊所属に所属していた山本卯吉氏は、昭和12年に第4師団と共に出征。黒竜江省にて開拓民保護や馬賊討伐に当たった後、自動車工術習得の為に新京関東軍第1連隊へ派遣され、原隊復帰後はノモンハン戦や漢水作戦などに参加しました。
昭和16年3月19日、大洪山作戦で応城県張家台の部落偵察任務中、彼の部隊は手榴弾攻撃を受けます。当番兵の飯田一等兵が即死、右眼を失う重傷を負った山本曹長も第4師団第4野戦病院へ担ぎ込まれました。
「左眼はまだ治療をすれば望みがある」との軍医の言葉に希望を託し、漢口兵站病院・南京兵站病院を経て帰国。5月に広島の三滝病院・岡山陸軍病院を経て7月14日に東京第一陸軍病院へと転院します。

翌17年1月、山本さんに盲導犬ボドが貸与されました。ボドとの歩行訓練に励む中、3月14日に回復不能と診断された左眼の摘出手術を受けます。

「だがこの頃は他の傷病兵のことも知り、またボドという“分身”を得ていたので気持ちは落ち着いていました(山本氏)」

12月、准尉に昇進した山本氏は陸軍病院をボドと共に退院、28日に故郷の大阪府池田市に戻ります。翌年2月28日、自立を決意した彼はボドに導かれて東山町の自宅から大阪市の点字毎日新聞社まで24キロを走破。この事は「盲人の快挙」として翌日の新聞に載ったそうです。
西区の叔父宅に寄宿した山本さんは、阿倍野区にあった日本ライトハウスへボドと共に通勤し、岩橋武夫氏の指導下で点字出版業務を開始。12月に結婚、早川電機に就職して「大阪失明軍人会館」と改称された日本ライトハウス内の早川電機分工場でプレス工として勤務します。

昭和20年3月13・14日、大阪はB29の大空襲に見舞われました。叔父の家に居た山本夫妻は、降り注ぐ焼夷弾の中を避難します。
足手纏いとならぬよう先に家を出た山本さんは、ボドに導かれて土佐堀通りへ。

 

火の海の中で近所の少年と会いました。そして彼に手を引かれ猛火の中をかいくぐり、明け方安治川橋に出ました。ボドは勇敢でした。燃えさかり降りそそぐ炎の中の間隙を縫って、私を見事安全地帯へ誘導してくれました。叔父の家は全焼し、周囲も一面焼け野原となりました。妻たちは池田の実家に辿り着いていました。
その後私は工場の寮で寝泊まりして働いていましたが、池田にいた妻からボドが栄養失調で死んだと知らされました。涙がとまりませんでした。


日本最初の盲導犬ボドは、こうして終戦を待たずに世を去りました。
残るアルマとリチルトについてですが、戦後になって日本盲人職能開発センターを設立された松井新二郎氏は、その著書の中でリタとボド以外のドイツ盲導犬について触れています。

 

しかし、どこで勉強するにしろ、私には目の代わりをしてくれる存在が必要でした。そういうところに、盲導犬がやってきたのです。この盲導犬は、シェパード犬協会の会長でもあった新宿・中村屋社長の相馬安雄さんがドイツから仕入れたうちの一頭で、『ルティー』という名前の雌のシェパードでした。ルティーは、ドイツのポツダムで訓練を受けた優等生でした。それだけに、日本語は知りません。そのため私は、下手なドイツ語で指示を出しながら、ルティーと一緒に歩きだしたのです。私がルティーと一緒に歩いていくと、軍の担当者がメモを取り、写真を撮り、撮影機を回しながらついてきました。犬の行動から、どういう訓練が行われたか、どんな能力が隠されているかを分析するためです。
病院は私のために、二階のバルコニーに面した部屋を提供してくれました。出窓もある素晴らしい部屋でした。私はそこでルティーと生活しながら、マンドリンを弾き、勉強をし、自由に外出していました」
『手の中の顔』より

 

ドイツから輸入された盲導犬のうち、雌はボドを除く3頭。そのうちリタは平田軍曹と共に暮していましたから、「ルティー」はアルマかリチルトという事になります。
「ルティ(Ruthi)」はおそらくリチルト(Ruthild)の事で、アルマは「アスタ」と陸軍病院で呼ばれていた盲導犬なのでしょう。どちらの犬なのかはともかくとして、入院中の松井氏とルティーは相性も良かった様です。

 

婦人会の招きで、日比谷の有楽座で演奏したこともありました。徳山環さんという声楽家が、ユーモラスに私を紹介してくれました。
『松井さんは、犬と一緒に来てくださいました。でも、この犬はビクターの宣伝の犬ではありません。これは盲導犬です。ドイツから、はるばるやってきた盲導犬なんです』(「手の中の顔」より)

 

松井氏が退院した後、陸軍病院に残ったルティがどのような働きをしたのかは不明です。アルマについても、写真以外の資料を見つけることが出来ませんでした。
※その後、ルティは戦盲軍人の岩倉金夫氏と共に関西で暮らしたそうです。アルマについては「其の13」で森野千雄氏の項目を参照してください。

そういえば、相馬黒光さんは輸入された盲導犬が5頭であったと書いていましたよね。

五頭のうち一頭は某宮様(JSVの筑波藤麿会長?)、三頭は犬の方の会、あとの一頭を安雄が持つてうちで訓練した。その犬は牝でリタといつて賢い、なかなかいい犬だつた。訓練の上陸軍病院に丁度入院中の戰盲の方に上げることになつた。もと学校の先生だつたというその方は、犬を連れるようになつて非常な満足で、『これで私も明るくなつた。リタと一緒にいると實に心丈夫に生活できる。もうしばらくもリタは離せない』そういう報告で、安雄にとつてこれは大きなよころびであつた。その後三人の戦盲者が、盲導犬によつて眼の見える人と違わないほどの仕事をしていることを聴いた(滴水録より)

 

陸軍やJSVの資料には4頭の事しか記録されていませんので、「5頭目の盲導犬」については謎のままです。
続いて、他の盲導犬達について紹介しましょう。

(第十部へ続く)