帝國ノ犬達-盲導犬来日
横浜ニュー・グランドホテルに到着したゴードン氏とオルティ号(昭和13年)

 

№4【オルティ来日】

 

そんな我が国の状況に一大転機が訪れたのは、昭和13年のこと。

この年の3月19日、一人のアメリカ人青年が横浜港に降り立ちます。青年は27歳のハーバード大学生ゴードン(Gordon)。そして、彼の傍にはオルティ(Ortie Fortunate Field's SZ403345BH)という雌のシェパードがぴったりと寄り添っていました。
SZ403345BHで判るとおり、オルティは盲導犬(BIH)の資格を持つ犬です。
両眼失明者であるゴールドン氏は、福祉団体の支援による世界旅行の途中オルティと共に日本へ立ち寄ったのでした。
我が国に初めて本物の盲導犬がやって来たのです。

 


盲導犬初来日という事もあって、横浜には新聞記者が詰め掛けました。東京朝日新聞は、この出来事を「觀光に米国の盲人 添ふ、物言はぬ妻 天晴れ・内助の盲導犬」として伝えています。

 

盲導犬をお供に世界觀光旅行
盲人への福音を身を以て見せる米青年が十九日正午入港のノルウェー汽船グレタ・メルクス号で横濱へ上陸、ホテル・ニユーグランドへ入つた。この青年ジヨン・ホルプス・ゴルドン君(二七)はペンシルバニヤ州ヒラデルヒヤ市生れ。そして片時も放さぬベターハーフはスヰス生れの盲導犬シエパードのオルテイ號(九才)。正しい訓練を受けたこのオルテイ號こそ盲導犬のナンバーワンでもある

 

この時、朝日記者とゴールドン氏は興味深い受け答えをしています。

 

最後に記者は『今度の事變に出征した日本の軍人諸氏の中にも多數盲目になつた人が居りますが、貴下の如く愉快にこの日を楽しむ事が出來たらどんなに幸福でせう』といへば『私とこの犬が多少でもさういふ方々のためにお力になれば、喜んでなんでもいたす考へでゐます』

 

単なるリップサービスにも思えますが、この言葉には米国盲導犬団体シーイング・アイからのメッセージが含まれていました。
その辺については後程。

 

帝國ノ犬達-オルティ2

東京を歩くゴールドン氏とオルティ(昭和14年)


3月21日、ゴードン氏とオルティ号は、横浜で合流した案内役のマーシー氏と共に東京へと向かいました。
宿泊先の帝国ホテルへ到着したのは17時頃のこと。「食堂と出入り口に近い1階の部屋に泊まらせてほしい」との申し出に、ホテル側も通常通りの宿泊手続きをします。

しかし、そこで問題が起きました。
フロントからの「犬はどういたしますか?」という質問に、ゴードンさんが「勿論オルティも一緒です」と答えたからさあ大変。
帝国ホテル数十年の歴史上、犬を宿泊させた前例などありませんでした(初日に宿泊したホテル・ニューグランドではどうだったんですかね?)。

ホテルの窓口担当者は、「折角ですが犬は屋外にお願いします。もし部屋に御一緒なら失禮ですがお斷りいたします」とオルティの宿泊を拒否。
今でこそ「盲導犬お断り」などと言う施設は減って来ましたが、盲導犬が存在しなかった当時の日本では無理からぬ話でした。犬の宿泊可能な施設といえば、狩猟家向けに営業している旅館程度。
“御国の為”に行われる軍用犬展覧会でさえ、「遠方から犬を連れて参加する会員の為、犬を泊めてくれる宿を探すのに難儀した」と帝国軍用犬協会の記録にもあります。
因みに、昭和11年頃の日本シェパード犬協会での状況はこんな感じ。

 

質問(金澤 土屋久信氏)
1936年度日本種族蕃殖ジーガー展に、初めて我がグループより出陳させて戴き度いと思ひますが
a.犬の宿泊所はありませんか。
b.出陳犬の必要なる携行品、殊に頸輪及び引き紐の式と型等
(中略)
回答(相馬安雄氏)
a.上野驛前上野デンキホテル(下谷区下車坂町十一)に犬と共に宿泊出來る様交渉してあります。洋室一泊\2.50、一室二人宿泊の場合は二人にて\3.75であります。犬は一緒に室内に連れて入れます(無料)。室料の外に一割のサービス料が必要です。JSVの會員として手紙を以て御自身御申込み下さい(JSV会報より)

 

視覚障害を持つ議員の為に盲導犬の議場同席まで認められていたアメリカと、盲導犬が1頭も存在しない日本とでは、その受容れ態勢に天と地ほどの差が存在しました。
予想外の対応に驚いたゴードン、マーシー両氏は、オルティを泊めてくれる施設を捜す相談を始めます。しかし、そう簡単に大型犬宿泊OKのホテルが見つかる筈もありません。
異国の地で困り果てている彼等の姿を見て、同情した高森副支配人が機転を利かせました。

 

『それでは折角來られたので、特別に犬もいつしよにお泊めしますが、なにぶんイタリー使節團も來てごた〃してをり、前例もないことなので、短い時日に願ひます』とゴルドン君を北側階下の一三一ダブル・ルームに案内した。

 

大阪朝日新聞記事より

 

帝国ホテルの英断は、ゴードン氏の日本旅行を快適なものとしました。続いて京都を訪問後に知人のメイシー医師と合流、31日11時半に新京阪電車で大阪へ到着した彼はJSV大阪支部の鈴木氏らから出迎えを受け、新大阪ホテルへと向かいます。
ここでも“盲導犬お断り”のドタバタが再現されると思いきや、今回はすんなりと宿泊が許可されました。

 

同ホテルでは、犬のお客さんを泊めたことは前例がないが、東京帝國ホテルでも型破りのサーヴイスをしたゴルドン君のこととて、喜んで三○六號室に愛犬オルテイ君(九才)も案内された。
(中略)
優しく頭を撫でると嬉しさうに主人公の顔を嘗めるやうにすり寄つて來る。ゴルドン君は『僕の耳と鼻に響くものは日本の美しさと静けさです。のんびりとした春の田園風景が見えぬ僕の目に映ります。日本に來たからには櫻の香を知らずには歸られません』とニツポンの印象を語つた。午後は大阪の盲學校、社會事業關係の人々と盲人及び盲導犬につき意見を交換、市内見物に出かけた(同上)

 

オルティ
小石川の盲学校生徒達から歓迎を受けるオルティとゴードン氏。

 

但し、盲導犬来日を好意的に受け止めた報道ばかりではなかったらしく、新宿中村屋の相馬黒光(相馬安雄JSV理事の母親)は著書の中でこの様に記しています。

 

その時新聞にこういうことが出た。『ゴルドンは日本に来てずいぶん憤慨している。どこでも犬を連れて行くことを喜ばない。電車に乗ろうとしても乗せてくれない、宿屋に行つても泊めてくれない、こんな不自由な國はない、こんな非文化なところはないといつている』。
私はこの記事を見て、盲目の青年の無礼に腹が立つた。けれどもこういう相手をつかまえて憤つて見てもはじまらない。それより日本の生活はどういうものか、實際を見せて教えてやろう。私はそう思つたのでゴルドンを袖ヶ浜の宅へ招待しました。ゴルドンは、その犬と秘書役の獸醫を連れて袖ヶ浜へ來た。そこで、玄関で犬のあしを拭いて上げさせ、應接間に通した。犬の胴のところに皮の紐がつけてあつて、それにつながる紐をゴルドンが持つていた。
危險があると犬がぴたりと止まる、それで盲人も止まる。それだけのことだけれど、犬を連れて氣確かに見える様子は、後姿など盲目だとは思えない。どこでも同じで電車みちを横ぎる時でもちつとも不安を示さないという。私が盲導犬を見たのはこの時がはじめであつた。この犬は牝犬で、大きいけれどもおとなしい。ゴルドンが應接間で腰かけると、犬はゴルドンの左にぴつたりと寄り添つている。

 

相馬黒光著『滴水録』より

 

黒光さんは、ゴードン氏を連れて日本間、床の間、仏間(オルティは入室不可)、勉強部屋、洗面所、風呂場、女中部屋、台所を回り、日本式家屋について案内します。その後、一緒に食事をしながら語りかけました。

 

『分つたでしよう。日本の生活はあなた方のと様式が違う。シルクの上には犬は載せられない。私達は坐つて生活しているから、犬をいつでも傍においていられない。だからあなた方が、日本では犬を虐待する、犬を可愛がらないという感想はまちがいです。どうぞよく日本の生活を見て行つて下さい。これが現在の日本の純日本式なのですよ。贅澤なくらしでもなければ、貧民の生活でもない、ミツドル・クラスの生活なのですよ』と教えて上げたら、ゴルドンはとても喜んで歸つた(同上)

 

まあ、盲導犬の初来日でしたから色々なトラブルが発生するのは仕方ありません。
何も日本だけがこんな調子だった訳ではなく、同年、先進的な畜犬文化を持つ筈のイギリスでも、米国の盲導犬を巡ってひと騒動起きています。


それは、ある米国人女性が盲導犬と共にイギリスを訪問した際「規定の検疫期間を経なければ盲導犬を入国させない」とイギリス農業省が突っ撥ねたのが発端でした。イギリスの大衆は「人道上、盲導犬を入国させるべきだ」とお役所的対応を批判しますが、意外にも当局の判断を支持したのが英国の愛犬家達でした。
彼等は、多くのイギリス人が忘れてしまった狂犬病の恐怖を知っていたのです。

 

イギリスでは、1921年に狂犬病を撲滅していました。同じ島国でありながら、狂犬病対策に四苦八苦していた日本とはえらい違いですね。
しかし、そのイギリスでも外国から密輸される犬によって度々狂犬病が侵入しています。例えば、インド帰りの英国女性が「検疫が面倒」とペキニーズを密入国させたところ、その犬が狂犬病を発症。仏国パスツール研究所からの支援と多額の費用を投じて封じ込め作戦を行った等、幾つもの苦い経験があったのです。その為、イギリス当局は海外から入国する全ての犬に対して神経を尖らせていました。
補助犬の取扱いは、今も昔も難しい問題なのです。

 

【オルティと畜犬団体】


ゴードン氏にとってこの訪日は、観光旅行と言うより盲導犬のPR旅行的なものとなってしまいました。彼が関西へ向かう前に、東京の福祉団体と畜犬団体では、先を争ってゴードン氏への講演や盲導犬実演を依頼しています。

当時、大陸の戦いで多数の日本軍将兵が失明していました。この年には日ソ両軍が衝突したノモンハン事件も発生。砲撃や火炎放射器による失明者が続出していたそうです。
そんな中、畜犬団体と福祉団体では、「今度の事變に於て盲目の凱旋を爲した人々も相當あらうと思ふが、彼等の爲めにこの盲導犬が幾分でも役立つものとすれば、我々は極力これが研究を爲す義務がある」と、盲導犬の実用化を検討していました。
そこへ本物の盲導犬がやって来たのですから、興奮するなと云う方が間違いです。書物を通じてその存在は知っていたものの、オルティの誘導能力を見た日本の関係者達は大きな衝撃を受けました。
 

帝國ノ犬達-オルティ1

オルティの誘導実演を見学する帝国軍用犬協会の南理事。

 

帝國ノ犬達-オルティ3

同じく、帝国軍用犬協会幹部とオルティ号の記念撮影。前列カイゼル鬚の人物が坂本健吉陸軍少将。

後列には中根榮や碓氷元もいます。

 

話は戻り、帝国ホテル宿泊後のこと。22日KV関係者はホテルに彼を訪ねて盲導犬に関する講演を依頼します。
突然の頼みにも関わらず快諾してくれましたので、当日夜に八重洲園での盲導犬座談会が開催される運びとなりました。この座談会には坂本陸軍少将や南理事らKV幹部が参加し、講演の後にゴードン氏との質疑応答が行われます。

 

「帝国軍用犬協会は犬の軍事利用ばかり考えていた横暴な団体」という批判もありますが、それはロクにKVの資料を調べていないか、自分に都合よく脚色している証拠です。

KVについてきちんと調べれば、「使役犬の可能性を探る為、牧羊犬や警察犬や盲導犬の研究に取り組む畜犬団体」としての面があることを知っている筈ですから(まあ、横暴だった事実に変りはありませんけれど)。

それでは帝国軍用犬協会による盲導犬座談会の様子をどうぞ。

 

青山「犬の氣分の變る事はありませんか」
ゴールドン「違つた國に参りますと色々の臭がするのです。今日はある小學校に参りましたが、色々の臭がしますし、皆が騒ぎますので、どうしていいか判らぬ様でした。此の犬は五年間も一緒に居りますが、元はスヰスに居た犬ですが、その後一緒になりまして、方々色々と旅行等もして居りますので、殊に困つたといふ事はありません」
南「街路だけに使つて室内等に於て他の方法に使ふ事はありませんか」
ゴールドン「ガイドドツグとして訓練されて居りますが、自分が危い時には保護してくれます」
大橋氏「基本の訓練をやつてから訓練をするのでせうか。最初の訓練をどういふ様にするか聞きたいと思ひます」
ゴールドン氏「使ひ方は、使ふ様になつた犬を持ちましたので、どうして訓練するかといふ事は殘念でありますが、私には判りませんから、モリスタウンに直接聞いて頂きたいと思ひます」
青山「その犬は御主人に危害を加へ様としなければ絶對に咬みつく様な事はありませんか」
ゴールドン「今迄は決してそういふ様な事をした事はありません。抑々(そもそも)こういふ犬に選ぶのはやさしい犬を選びますから、そしてしよつ中人と一緒に連れて行きますから、兎に角やさしい犬でなければなりません。咬むといふのは外の人に迷惑であるばかりでなく、主人にも嫌な思ひをさせるのです。それが十四ケ月位經つと其の性能が判るのです」
南「私共元から犬の色盲に就いては聞いて居りますが、ゴー・ストツプのシグナルのあるところに來た時、自分が一番先頭に立つた時には、人の動きもないし、犬はシグナルが見えないし、危險ではありませんか」
ゴールドン「犬はシグナルが見えませんからないと同じです。それで四(ツ)角等に來た時は自分で判りますから、犬を前へとやりまして犬が進めば危險はありませんし、止まれば進んではいけない事になるのです。それ等はどうしても仕方がないわけで自分で犬を使ふ様にしてやるわけです」
大橋氏「その犬は三ヶ月で實際に出來るものでせうか」
ゴールドン「實際三ヶ月で出來ます。餘りにその期間が短い様に思ひますが、訓練士が四、五年かかりますから、何も訓練はしてなくても出來るのです。勿論それは平均でありまして、長いのもあります。短いのは四週間位で出來るのもあります」
(中略)
尚ほ終わつてからもその實演を見たが、ゴールドン氏の犬を信頼し切った足どり、階段其他障碍物に於けるオルテイの確實な誘導振りに観る者をして感嘆の聲を放たしめた。
帝国軍用犬協会『ゴールドン氏に盲導犬を訊く(昭和13年)』より

 

JSVでもゴールドン氏歓迎会を麹町の萬平ホテルにて開催(3月26日)、上野公園でオルティ号の映像を撮影を行うなど本格的な盲導犬の研究に着手しました。

 

帝國ノ犬達-オルティ

JSVによる、上野公園でのオルティ號誘導記録より。西郷さんとツンとゴールドンさんとオルティ。
 

帝國ノ犬達-オルティ

同じくJSVのオルティ誘導実演記録より、上野公園内を歩くオルティ。

 

【陸軍病院の講演会】

 

3月27日には、中央盲人福祉協会の仲介によって、臨時東京第一陸軍病院でのゴードン氏講演会が開催されます。
今回の聴衆は、陸軍病院の医療スタッフと入院中の戦盲軍人たちでした。

当時の東京第一陸軍病院第ニ外科では、眼病、および戦地で受けた銃撃、爆発、火傷、事故等で眼を傷めた軍人達が治療を受けていました。症状の程度も、手術や矯正で視力回復できる人、色覚を失った人、突然に視力を失った人、徐々に視力を失っていく人、片目だけ失明した人、視覚と聴覚を失った人、失明の上に頭部損傷や手足の切断まで伴う重傷を負った人と様々でした。
これらの中から、両眼の視力を失った全盲及び矯正視力が0.1以下の弱視者は「戦盲軍人」と呼ばれています。

戦地で眼を負傷した兵士は、まず前線の包帯所で応急手当てを施され、野戦病院での治療を経て内地の病院へ後送、そこでも治療困難な者は東京第一陸軍病院第ニ外科へ転院されていました。
眼科専門の陸軍病院第二外科には、当時最先端の知識と技術を持つ眼科医が揃っていました。しかし、治療の甲斐なく失明する軍人は多かったそうです。
戦意向上の為にも、彼等のリハビリや社会復帰支援は軍当局の重要な課題となっていました。

 

戰傷失明に於いては、ほとんど誰もがこのまま失明してしまふとは信じられなかつたと述懐する。野戰病院に於いて、絶望と明らかなものでも、軍醫は直接本人にその由を告げるに忍びないとの事であり、後方の完全せる設備による治療で必ず見えるやうになると信じて後送され、竟局東京の病院に至つて、その失明確定を宣せられてつひに一縷の望みが絶えた刹那、全く暗黑の底に沈みはててしまふ由である。

 

緒方文雄『失明軍人歌集(昭和18年)』より

 

駄目であろうとは知りながら、それでも一縷の望をかけたこの病院で、眼科の専門醫であり、權威である軍醫から、失明を宣告されると、覺悟してゐるとは言ふものの、全く暗い永劫の谷底に突落されたやうな絶望的のものを感じ、悔は無くとも言ひ切れぬ苦惱と、煩悶と、孤獨感がその後幾日か彼等を包んでしまふのである。白衣の胸に『戰盲』と赤く書かれた一寸ぐらゐの標識をつけられ、かつて豫想もしなかつた杖を渡される!
『ふと目が覺めたら馬鹿に明るいのです。おや、と思ひました。こんなはずはない。確かに軍醫殿から、お前の眼は折角だが見えるやうにならないと言はれたんだが、と。そこにある新聞をとり上げて見ると、活字もハツキリと讀めるんですね。有難い。見える!見えるやうになつた……、と思つた時、目が覺めるのです。この時ぐらゐがつかりすることはありません』
その當座はこんな夢ばかり見ましたと、私は幾人もの戰盲患者から聞いた。

 

千葉正一著『光に起つ(昭和17年)』より

 

視力を失ったことへの絶望と将来への不安から、感情のコントロールができなくなり、やり場のない怒りを医師や看護師にぶつけてしまう患者もいました。後に日本盲人職能開発センターを設立した松井新二郎元会長も、昭和14年からここに入院していた傷痍軍人のひとりであり、その著書『手の中の顔』で当時の事を記しています。

 

残念にも、私は白衣に身を包み、軍刀を抱きかかえるようにしながら看護婦に付きそわれ、東京の第一陸軍病院に送還されました。当時この病院には戦盲病棟というのがあり、戦争で光を失った軍人が収容されていました。廊下の壁には、憤懣やるかたない気持ちで、たたきつけた杖の傷跡が生々しくついておりました(「手の中の顔」より)

 

最初は看護婦に手をひかれても、何か足許が危くて歩き辛かつた彼等も、やがて杖を頼りに便所ぐらゐには行けるやうになる。それも始めは、到底廊下の中央は歩けないので、壁を杖で叩きながら歩くのである。『杖で壁を叩いて歩くので、こんなに傷つけてしまひましたよ』
Y少佐が苦笑してゐたこともあつた(『光に起つ』より)

 

軍事保護院では、社会復帰支援施設として小石川に失明傷痍軍人寮を設立しています。退院した戦盲軍人の中から希望者は入寮手続きを行い、そこで生活しながら失明傷痍軍人教育所に通い、リハビリと点字の学習、社会復帰に向けての職能訓練等を受けていました。
失明軍人社会復帰事業で一番の障害となったのは、失明軍人の家族でした。
「せっかく生きて帰郷した息子や夫を、再び東京の傷痍軍人寮へ送り出すなんてとんでもない」と、必死で引き止めようとする家族を振り切って入寮した人も多かったそうです。

 

確かに失明軍人は、他の盲人が羨むほど大切に扱われました。そうした一つに、軍事保護院から贈られる杖がありました。白い杖ではなく、真っ赤にきれいに塗られたケヤキの杖でした。丈は胸までのロングケンで、頭と石突きを水牛の角で面取りしてあり、紫の長い房がついている豪華なものでした。そして、表には『戦傷失明』の文字と、その下に数字が彫られていました。私の場合なら『百七十七号』。日露戦争から数えて、私は百七十七人目の両眼失明者でした。
(中略)
それもこれも、国民を戦争へ駆りたてる政策の一環でした。それだけに、日本の盲人福祉の歴史から、失明軍人の援護の問題は消されてしまった感があります。しかし、ここには世界でもまれな福祉の具体的事例があったのです(『手の中の顔』より)

同じ視覚障害を持つ人々が対象だったからでしょうか。東京第一陸軍病院で行われたゴードン氏の講演は、それまでの盲導犬のPRに重点を置いた内容とは違い、盲導犬と共に暮らす第二の人生について語られています。

 

院長閣下、紳士諸君並に名譽ある軍人諸君にお話しする機會を與へられました事を光榮に存じます。御國の爲に身命を捧げて多大の功績を擧げ、且つ尊い眼を御國の爲に犠牲にされました軍人諸君にお話の出來ます事を心から嬉しく思ひます。

今日私が特に申上げたいと思ひます事は、失明者にとり良き眼となり良き友となつてくれる犬の事でありまして、此の犬の爲に普通の人と同じ様に自由な行動の出來ました私の經驗をお話しして、少しでも皆様のお役に立ちたいと思います。

私が五年半の間起居を共にして来た此の犬はドイツ種のシエパードであります。犬を導犬として使用しますには、第一に犬を訓練し、更に犬を使用する盲人を訓練するのでありますが、犬の訓練には少なくとも三週間を要し、主人たるべき盲人の訓練に更に四週間を要します。

 

以下、長くなりますので、同氏による講演内容を要約して記載します。

・盲導犬との信頼関係
盲導犬を使用する上で大切な事は、犬と主人との気分が完全に一致しなければならない事。一挙一行動に深甚な注意を与え、決して犬をしかったり打ったりしてはならない。上手くやれば出来るだけ褒めてやり、犬の眼を信頼する事。

・盲導犬の装備
盲導犬の装備としては、犬の体に装着する皮帯と背中に付ける取手(ハーネス)がある。主人は帯の一端と取手を持って犬と歩行する。段差等では犬が一旦停止するが、その動きを帯や取手を通して感じ取る。これらの装備があって、主人と盲導犬は一緒に行動できる。

・犬との相性について
盲導犬訓練校で犬と人間の両方を訓練する理由は、犬と気持ちを合わせる為である。神経質な人と呑気な性格の犬が一緒になったり、その反対の場合にも上手くいかない。ただし、犬の智能にも限度があるので、奇跡的な能力を期待してはいけない。初めて行く場所には周到な用意と注意が必要だが、事前に道順を調べ、盲導犬の眼を借りれば問題無い。

・盲導犬との初期親和について
訓練校を卒業後、盲導犬と共に新しい生活を始める最初の週は行き届いた注意を必要とする。毎日のブラッシングや散歩は勿論、食事や睡眠中も常時傍に置き、犬の世話は全て主人が行う事を犬に自覚させ、信頼感を抱かせなくてはならない。命令も、声の調子や身振りで主人の気持ちを伝えるようにする。

・アメリカの盲導犬学校について
盲導犬訓練学校はモーリスタウンにある。校内には盲人用の町内地図が設置してあり、地図上の訓練歩行ルートに沿って貼ってある糸を記憶しながら各人が路上訓練を行う。馴れるに従って時間と距離が追加されていき、訓練士の付き添いがなくても犬との行動に支障が無くなれば合格となる。

 

私は訓練校へ行く時には友人に連れて行つて貰ひましたが、四週間の訓練を受けまして、その間にすつかり氣持が出來上りましたので、帰る時は犬を連れて一人で歸りました。モリスタウンからフイラデルフイヤ郊外にある私の家まで、バスや汽車に五六回も乗りかへて犬に連れられて歸りましたので、家の者は非常に驚いてゐました。家人が驚く程自由を得たのであります。それ以來五年半の間、オルテイは私の“見る眼”になつてくれたのであります。


・盲導犬によって得た利益
オルティのお陰で独立心を持てた事、安全な落ち着きを得た事、新しい親友の様な交わりを得た事。バージニア大学やハーバード大学に入学し、学生生活を送れたのもオルティのお蔭である事。盲導犬と一緒に居ると自信を持って行動できるし、盲導犬も外敵から身を守ってくれる事。

 

私は眼は見えないし體は小さいし致しますので(原文ママ)、悲觀したり失望したりする事がありますが、さう云ふ場合にも犬はよく私の氣持ちを察して慰めてくれるのであります。言葉は交わせなくとも動作により慰め力づけてくれます。この犬と共に何處までも行ける様になつたのは私にとつて本當に大きな利益でありました。

 

ゴードン氏は、次の様な言葉で講演を締め括りました。

 

米國では今三、四百匹の導犬が居りまして、盲人の爲に見る眼となつてよき奉仕をしてゐます。又獨逸では盲人の手引をしてゐる犬の数が五千頭と言はれて居ります。どうか御國に於きましても、犬の訓練が始められ、その忠義な働きによつて多數の盲人が自由を得られます日の一日も早からんことを、心から願つて居ります。

私が今度御國に参ります時に、米国盲導犬協會の會長であるユスタス夫人(※シーイングアイのユースティス夫人)が『どうぞ日本でも忠義な働きをする盲導犬を訓練せられ、失明者の爲によき眼を與へられたい。若し日本に希望者があれば米國盲導犬協會では出來るだけの便宜を計りたいと思ふ』と呉々も言つておられました。もし院長閣下や諸君がお望みなら私も出来るだけ御盡力を致したいと存じます。

 

東京第一陸軍病院長の三木良英軍医中将は、ゴールドン氏の講演に深い感銘を受けました。そして、社会復帰していく失明軍人の為に、盲導犬を支給する事を決意します。
日本陸軍は軍用犬の訓練運用ノウハウしか持たない為、盲導犬に関しては福祉団体と畜犬団体の協力が必要でした。関連団体の取り纏めについては、この講演を仲介してくれた中央盲人福祉協会の原泰一専務理事へ一任されます。
こうして、陸軍省医務局を中心とした我が国初の盲導犬事業計画が始動したのでした。

 

(第五部へ続く)