私の目はお前を見ることが出來なかつた。しかし、私はお前を信じて全く總てを委して居つた。
私は、全く母の手にあるが様に至極安全に道を歩くことが出來た。是れは、全く心からの愛と忠實とで我々二人が硬く結びつけられて居たからです。
今やお前は花の下に寝つてゐる。
最早私の手はお前を愛撫することが出來ない。
嗚呼、私は悲しみのあまり呆然として居る。ドツパーよ。私は忘れんとして忘れることが出來ない。

 

『伯林郊外に在る動物墓地(昭和8年)』より、ドイツ戦盲軍人誘導犬の墓碑銘


帝國ノ犬達-盲導犬リタ
日本陸軍盲導犬と失明軍人(昭和18年)

 

【祖父とホルスター】


高校時代の夏休み、祖父宅へ遊びに行っていた時のこと。その日は会合に出席するとやらで、祖父母とも朝から不在でした。
私は独り家に残っていたのですが、コンビニすら無い田舎町なのでとにかく暇です。留守番を頼まれた以上はプラプラ出歩く訳にもいかないので、暇潰しに庭の隅にある土蔵を探索する事にしました。
蔵に入るのは小学生の時以来。中にあった甲冑だの古い雛人形だのといった不気味な物体に怖れをなし、以後は近寄っていません。

錆びた錠前を外して分厚い扉を開くと、澱んでいた黴臭い空気が流れ出してきました。

小窓から差し込む日光を頼りに、蔵の中へ。暗がりに目が慣れるのを待ち、とりあえず祖父の蔵書を漁る事にしました。
奥の壁際にある本棚は、積み上げられた荷物の中に半ば埋没しています。汗まみれになって邪魔な柳行李をとり除いていた時、本棚と行李の隙間に何かが落ちているのを発見。
……暗くてよく分かりませんが、古い革製品の様です。

引っぱり出して見ると、西部劇なんかに登場するアレでした。薄茶色の拳銃用ホルスター。
一瞬驚きましたが、幸いにも“中身”は入っていないようです。相当古いモノらしく、革の表面はボロボロ、肩掛用の革紐は絡まった状態でカチカチに硬化し、縫製の糸も千切れそうな位に劣化しています。壊さないよう注意しつつ蓋を開けてみると、その裏側には、知らない誰かの名前が墨書きしてありました。
何でこんなものが此処にあるのでしょうか?見てはいけないものを見てしまったような気がします。
ホルスターを元の場所へ戻し、そそくさと蔵の外へ出ました。

あのホルスター、恐らくは戦時中のモノでしょう。
先の戦争における我が家の従軍経験者は祖父ひとりだけですが、ホルスターに記されていたのは別人の名前でした。もしかしたら、祖父の戦友が所持していたのかもしれません。

昭和13年、大学を卒業した祖父は陸軍予備役将校の道へ進み、1年の修業期間を経て少尉任官。昭和16年に中尉として南方へ出征しています。
部隊が戦地に上陸したのは同年12月のこと。戦史によると、年明けにジャングルを踏破した日本軍は敵の山岳陣地を強襲。しかし、圧倒的な火力で迎え撃つ米軍の前に多数の死傷者を出して撃退されたそうです。
その際、祖父は炸裂した砲弾片を顔面に受けました。
担ぎ込まれた現地の繃帯所では治療不能。船で内地の陸軍病院へ送られ、破片の摘出手術を施されます。

結局、手術の甲斐無く片眼は失明し、祖父の戦争は3ヶ月間で終りました。

それでも、生きて日本に戻れた祖父は幸運だったのでしょう。戦地に残った所属部隊は後に全滅したそうで、「戦友達は一人も帰って来なかったらしい」と母から聞かされたことがあります。

あのホルスターも、そんな誰かの形見だったのかもしれません。
夜になって帰宅した祖父に、それとなく戦時中の事を尋ねてみました(勿論、蔵に入った事は内緒にしておきましたが)。
無口な人でしたから、私の問いかけに「そうだなぁ……」と言ったきり黙ってしまい、何だか気まずい雰囲気に。やがて夕食を終えた祖父は、席を立って自分の部屋へと行ってしまいました。
きっと、触れられたくない話題だったのでしょう。

夕食の後片付けをしていると、祖父が居間に戻って来ました。手には黒くて分厚い冊子を持っています。
そして「私が入営した時の写真だ」と言って、その冊子を私に手渡しました。
アルバムには、若き日の祖父の写真が並んでいました。京都の下宿で友人たちと語らう姿。台湾への昆虫採集旅行。大学では野球部にも入っていたのですね。スポーツなど全然興味ない人だと思っていたのに。

「結婚する前のお爺さん、えらいハンサムだわ~」などと言いつつアルバムを覗き込む祖母に「冷蔵庫にスイカがあったろう。アレ切ってきなさい」と祖父。
ああ、2人だけで話したいのね。
「迫撃砲を知っとるか?」
「打ち上げ花火みたいな奴でしょ」
「そうそう。私はその部隊を率いていた」
「へー」
「迫撃砲の弾は山なりに飛ぶからな、尾根の向う側の敵も狙えるんだ」
「ほー」
間抜けな相槌を打ちながら、アルバムをめくります。
入隊後に撮られた写真は、野戦演習、将校教育と軍隊生活一色に。

 

アルバム
祖父のアルバムより


その中に、戦地へ向う前の壮行会でしょうか、料亭の座敷で撮影された集合写真がありました。写っているのは和服姿の祖父ら将校3名と、軍服を着た25人の若者達。
黙ってその写真を見ている祖父に、「この人達はどうなったの?」とはとても聞けませんでした。あのホルスターの事も。
戦場での写真は無いのか、と問う私に「そういえば、上陸後は忙しくて写真を撮る暇も無かったなぁ」と祖父。
ナルホド。
「戦地ではずっとジャングルを行軍しとったし、負傷した時に土の中へ埋められたから、何も残っとらん」
「埋められた?」
「部隊が後退する時、私ら動けない重傷者は土の中に隠されたんだ。敵に見つからないようにな。晩になって部下が掘り出してくれたんだが……」
そこへ祖母がスイカを運んできたので、「だから、私の持ち物は、全部あそこへ置いてきた」と呟き、祖父は再び黙ってしまいました。
結局、私が聞いた戦争譚はそれだけです。それから15年が経ち、蔵も取り壊されてしまいました。あのホルスターの行方も分かりません。
去年、祖父から届いた手紙には「一度こちらへ来て、君の元気な姿を見せてください」と書いてありました。

それが、最後の便りとなってしまいました。

【傷痍軍人と盲導犬】

祖父は片眼を失っただけでしたが、戦争で両眼を失明した将兵は「戦盲軍人」「失明勇士」などと呼ばれていました。祖国の為に光を失った勇士として、戦盲軍人はどの国でも手厚い支援を受けています。
しかし、退役した彼等が社会復帰するには、就職や日常生活に於ける様々な困難が待ち受けていました(その辺の事情については、九段にある「しょうけい館」に詳しく展示してあります)。

第一次世界大戦直後のドイツでは、これら戦盲者の支援事業として新しい試みを開始しました。それが失明軍人をサポートする犬、いわゆる盲導犬の育成と戦盲者への貸与です。
私も中学生の頃、祖父の右眼が悪くなった時の事を考えて、盲導犬に関する資料を集めた事がありました。更には、「自分で盲導犬を訓練しよう」などと無謀なことまで計画していたのですが、敢えなく挫折。
まあ、アレですね。柴犬は盲導犬に向いていませんね。昔の私はナニを考えていたんだか(幸い、祖父の右眼は90歳過ぎまで衰えませんでしたから、結局は無用な心配でした)。


たぶん、祖父の件で盲導犬の資料を集め始めた事が近代日本犬界史に興味を持つきっかけとなったのでしょう。それらを調べる中で、戦前の日本にも豊かな畜犬界があった事を知りました。
だから「昭和13年のオルティ来日まで、日本人は盲導犬の存在を知らなかった」「日本最初の盲導犬はチャンピィ号」という解説を目にする度、私はいつも疑問に思っていたのです。
もしかしたら、日本人は自国の盲導犬史を全く知らないのではないか?と。

犬

「盲導犬(盲人誘導犬)」とは、視覚障害者の誘導を行う犬である。……などと説明するまでも無く、現在では誰もが知っている有名な補助犬です。
盲導犬について、日本シエパード犬協会の相馬安雄理事(新宿中村屋社長)はこの様に定義していました。

 

盲人獨自の焦燥感より、殆んど完全に主人を救い得る程度に迄己を空しうして、常在座臥盲主人の座右に侍り、絶對的に其の安全を保證するが如く行動する様に、犬の忠實性に基く科學的訓練法を以て教育された犬(『動物文學』昭和18年)

 

このような近代的盲導犬が登場する以前から、視覚障害者を誘導する犬は存在していました。歴史は意外と旧く、ポンペイの遺物にも描かれているそうです。

しかし、組織的な訓練などが行われていたのか、どのように誘導技術を継承していたのか等は謎のまま。

 

やがて、視覚障碍者の飼う犬は生活の伴侶、もしくはその他の目的での飼育へと変わっていきました。獨逸シェパード犬協会のシュテファニッツ総裁は著書の中でこのように書いています。

 

犬を連れた盲人は我々位の年輩のものには見慣れた光景だが、勿論其頃の犬は多くプードルで、口に帽子を咥へて、喜捨を集めるだけが精一杯だつた。これは今日の盲導犬の決してやつてはいけないことである(『獨逸シェパード犬(昭和10年)』より)

 

近代的な盲導犬の概念は、19世紀に登場しました。それが、ウィーンにヴェンナ盲学校を設立したヘル・ヨハン・ウィルヘルム・クライン神父。
1819年に著した盲教育に関する本の中で、彼は自身の番犬を訓練する方法及び犬を盲人が使用する方法を記しています。
但し、1927年にこの本を要約・再出版したベルリンのゲヴレル博士によると、ウィルヘルム・クライン自身が盲導犬を実用化したという確かな証拠は見つかっていないそうです。

近代的盲導犬のデビューは、凄惨を極めた第一次世界大戦の後。失明軍人の社会復帰事業として、誘導訓練を施した犬が貸与されたのです。

その存在は、戦後のベルリンを訪問した日本人たちの知るところとなりました。


(其のニへ続く)。