【事件概要】

 
1986年2月1日、岩手県盛岡市のショッピングセンター「フェザン」地下のトイレ内で、子供が亡くなっているのを警備員が発見した。死因は首を吊ったことによる頸部圧迫。呼吸や脳の血流が阻害され数分で機能障害に陥り、医学用語では縊死 (いし)と呼ばれる。
 
所持品から、身元は東京都中野区の区立富士見中学校に通う鹿川裕史くんという2年生男子生徒であることが判明した。遺書も所持しており、そこにはいじめが原因だと記述があった。
 
なお、このいじめには教師も参加していたことが判明しており、初めて新聞やテレビで大々的に報じられたいじめ事件である。
 
鹿川くんは1972年3月10日生まれで、父親は生地問屋、母は専業主婦。1つ下に妹がいる。温厚な性格で友達もいた。
 
【いじめの全容】
 
1985年4月、鹿川くんは2年生になり、仲の良い友達とクラスが離れてしまう。そもそも富士見中学は、生徒の9割近くが区立神明小学校から入ってくるため、ほとんどが顔見知りであり、小中一貫校のような感じであったことがわかっている。
 
(区立富士見中学校は2009年に近隣中学校と合併し現在は存在しない)
 
鹿川くんはそれなりに仲間を作っていたが、温厚な性格と152cmの小柄であったからか、買い食いのために店に走ったり、下校時にカバンを持たされる「パシリ」の役回りになっていた。7月に担任は父に「息子さんが使い走りをさせられているみたいですよ」と連絡している。担任は定年を数年後に控えたベテラン教師で、イジメの事実を知っていても介入することがなかった。
 
鹿川くんへのいじめは次第にエスカレートしていき、いじめに介入していた生徒は同じクラスだけでなく他クラスにも数人いた。「サンドバッグ状態だった」と証言する生徒がおり、「何をしてもいい」状態だったことが、後の聞き取り調査で浮き彫りになった。
 
いじめの内容として「プロレス技をかけて投げる」「椅子や机を積み上げて囲んでそこに閉じ込める」「モデルガンの標的にして打つ」「野球拳を強要して勝ち負け関係なく服を脱がせる」「マジックペンで顔に髭を書いて廊下で踊らせる」といったものがある。
 
10月始めに鹿川くんは同級生数人とバンドを組んだ。鹿川くんは、当時流行っていたCCBの笠浩二と同じボーカル兼ドラムを担当していたがマネージャー兼務。ここでも嫌な役回りは彼に押し付けて、 3年生を呼ぶときはいつも彼に行かせていた。この頃から彼の表情は次第に暗くなっていく。
 
10月15日から17日まで鹿川くんは家出した。家出の理由は不明瞭で、担任には「お父さんが怖いから」と話している。
 
【葬式ごっこ】
 
11月14日と15日に、鹿川くんのクラスで「彼を死んだことにして教室で花を置いて線香をあげる」という「葬式ごっこ」が行われた。事の発端は生徒の一人が「鹿川を死んだことにしよう」と言ったこと。当時「笑っていいとも」のコーナーだった「安産コーナー」の生と死を逆に考えたものである。
 
黒板の前に鹿川くんの机が置かれ、あめ玉やミカンが添えられ、遺影に見立てた彼の写真と花を挿した牛乳瓶も置かれていた。さらに「鹿川くんへさようなら」と書かれた色紙があり、クラス生徒が寄せ書きをしていた。内容は「ばか」「いなくなってよかった」「ざまあみろ」といった誹謗中傷が多く、「もういなくなった人だから」と彼の名前の書いている係の名札も黒くペンで塗り潰した。
 
当時、鹿川くんはスケボーで足を怪我しており、治療のために遅刻することが多かった。この日も遅刻して教室に入るなり「なんだこれ」と笑っていたが、しばらくして黙りこんでしまった。この日、鹿川くんは寄せ書きを家に持って帰り、家族に「これ見て、先生もここに書いてるんだよ」と言っている。
 
この不謹慎極まりない「葬式ごっこ」は彼に対するシカトの延長であり、寄せ書きに教師4人も参加していた。教師は生徒に「どっきりだから」と言って頼まれていた。この一件は「教師なのに生徒の悪ふざけが過ぎるとは思わなかったのか」と富士見中学に非難が集まった要因となった。
 
【葬式ごっこ後のいじめ】
 
11月26日、下級生に「お前は弱虫だ。俺の方が強い」と因縁をつけられ、一緒にいた上級生に「悔しくないのか」と言われ、その下級生とタイマンを張ることになった。二人とも大きなケガなく終わったが、帰宅した息子の傷を見て父が問いかけると、息子は一緒にいた上級生の名前を出したので、父はすぐに上級生の家に行って抗議した。上級生は「チクった」として逆上して、その後、彼を呼び出して数人で殴った。
 
11月28日、同級生から1000円もらいジュースを買いに行くように言われたが、お釣650円を渡さないまま遊びに行った。渡した同級生が問い詰めると「使ってしまった」と返事が返ってきたので、地元の青年館の空き部屋に連れ込んで殴った。
 
息子は父にいじめの実態を話すことはなかったが、父は一方的な解釈でいじめに加担していた同級生の家に出向き「あんたの息子をよく監視してくれ。これ以上息子にまとわりついたらどうなるかわからんぞ」と激しく言うこともあったが、保護者からは「友達同士のことだから」と冷たくあしらわれている。
 
さらに、鹿川さん宅に「鹿川裕史、お前を殺す」といういたずら電話もかかってくるようになり、父は再度同級生宅を訪ねている。同級生たちは父を恐れて「もうやめたほうがいいかも」と話すようになった。
 
1986年元旦、鹿川くんは同級生たちと高尾山に初日の出を見に行った。現像された写真では明るい表情が写っていた。その他にも同級生や担任から年賀状が来たりしていた。
 
3学期になってもいじめは続いた。始業式の日に階段の踊り場で複数人から集団暴行を受けた。さらに血のついたカッターシャツをカバンに隠して帰ろうとしたときに上級生に見つかって殴られている。
 
鹿川くんはいじめから逃れるために欠席するようになり、欠席が10月に6回、12月には8回、年明け1月には11回と増えていった。欠席したい時は、学校に行くフリをして病院の待ち合いで時間を潰したり、登校したとしても職員用トイレに隠れたり、保健室にいたという。
 
1月22日、体育の授業中に職員室前のプラタナスの木に登るように指示され、揺さぶられた。さらに上級生からサザンオールスターズの歌を歌うように命令され仕方なく歌っている。
 
前述の通り、父はいじめの事実を知っており、担任に相談したり保護者たちに厳しく注意していた。教師もいじめを目撃しており、始業式のリンチを教頭が目撃し注意したが双方が否定してきたので何も言えなかった。担任も鹿川くんの欠席に対して「ずる休み」程度にしか思っていなかった。
 
1月30日、午後1時過ぎに登校したが授業中に廊下に出ていたため2年生教諭が生徒指導室に連れていき30分ほど話を聞いた。そこで彼は初めて「荷物を持たされた」「パシリに使われている」といじめのことを話した。
 
教諭は担任を通じて母に連絡を取って、迎えにきた母と担任を交えて話をした。担任は転校を勧めたが、彼は賛同しなかった。話し合いの間、いじめグループの3人は彼のスニーカーを見つけてトイレの便器に捨てている。彼は母と一緒に下校し、そのときに「もういやだ」と漏らした。
 
【自殺】
 
1月31日、彼は家を出たきり行方不明になった。父は池袋や新宿のゲームセンターや音響機器店など、中学生がいそうな場所を探したが見つからず。翌日、不安なまま、喫茶店で同僚と打ち合わせをしている時に、外を赤いセーターの少年が歩いているのを見た。父がとっさに「ヒロなのか」と声をかけると少年は走り去っていった。だが、それは息子ではなかった。
 
鹿川くんは岩手県盛岡に来ていた。父の実家があるため来たことがあった。2月1日、盛岡の繁華街をさまよった彼は、盛岡駅の駅ビル「フェザン」の地下1階トイレのフックにビニール紐をかけて、トイレ床に遺書を置き、首を吊って命を絶った。
 
家の人へ そして友達へ
とつぜん姿を消して 申し訳ありません
(原因について) くわしいことについては
(いじめた人の実名) に聞けばわかると思う
俺だってまだ死にたくない
けどこのままじゃ 生き地獄になっちゃうよ
だけど俺が死んだからって
他のやつが犠牲になったんじゃ
意味ないじゃないか だから
もう君たちもばかな事するのはやめてくれ
最後のお願いだ
 
フェザンは夜9時に閉店したが、トイレの鍵が閉まったままなので不審に思った警備員が確認すると彼は絶命していた。制服のポケットに生徒手帳が入っていたので身元が判明した。
 
所持していたカバンの中には着替えと折り畳み傘、年賀状2枚と写真が3枚。さらに、サンシャイン60の入場券が入っていたことから、岩手に行く前に池袋を訪れていることが判明。岩手に来たのは親族を訪ねようとしていたのか、最初から死のうと思っていたのか真意は不明。
 
2月3日、岩手県石鳥谷町で火葬された。岩手の親族は「岩手行きの列車に揺られて生と死の間をさまよっていたと思うと胸が詰まる思い」と涙ながらに語っており、遺骨は5日夕方に東京に戻った。
 
【自殺後の動き】
 
担任はクビになりたくないので、2月5日に生徒たちに鹿川くんの寄せ書きについて署名しなかったことにしてと口止めするように言い、教育委員会はいじめを把握していたが報告せず、聞き取り調査では鹿川くん自体に原因があるのではと言い、遺族から反感を買った。
 
さらに担任は、公務員にも関わらず隠れて塾でアルバイトしており、それがバレて懲戒免職になり、校長と寄せ書きに参加した教師たちは減給処分になった。なお、校長と教師2人は依願退職している。
 
担任が干渉しなくなったのは、過去に生徒に殴られて肋骨を骨折したことがあり、それがトラウマになって生徒を注意出来なくなったからである。
 
さらに、事件後の生徒たちも精神的に不安定になり、授業中に生徒Aが同級生Bに「お前は鹿川二世だ。あいつみたいに自殺しろよ」と何度も殴られ、腹を立てたBとAは取っ組み合いのけんかを始めてしまう。教師が止めに入ったが、AではなくBを注意したため、Bは納得がいかず「先生あんまりだ。あいつを殺して俺も死ぬ。包丁買ってくる」と教室を飛び出し、金物店の前で生徒と教師が言い争いになる事態も起きてしまう。後の調べで、その教師は「葬式ごっこ」に参加していた一人であることが判明している。この件に関してAは「先生たちが「全力をあげてイジメ問題に取り組みたい」とカッコイイことを言っていたので、本当にイジメを止めることができるのか試してみたかったから」としている。
 
テレビや新聞でも連日報道されたため、鹿川さん宅にも「死んで当然」「息子が死んで良かった」といった嫌がらせの電話が相次いだ。さらに、遺書で挙げたいじめに加担していた生徒とその母親を「あいつらは悪魔だ」と誹謗中傷したビラが、何者かによって校区内の各家庭のポストに入れられていた。なお、ビラは電柱や掲示板にも貼られていた。
 
4月、警察はいじめに加担した16名の生徒を傷害罪と暴力行為で書類送検した。
 
6月、鹿川さんは東京都と中野区、いじめの主犯2人の両親に対して2200万円の損害賠償を求めた。9月に東京地裁は主犯2人を保護観察処分にした。
 
1991年3月、東京地裁はいじめと自殺の因果関係と予見可能性を認めず、いじめの存在そのものを否定。証人として事件当時の校長や担任などが出廷し、「これらはむしろ悪ふざけ、いたずら、偶発的な喧嘩、あるいは仲間内での暗黙の了解事項違反に対する筋を通すための行動またはそれに近い行動であったとみる方が適切であり、そこには集団による継続的、執拗、陰湿かつ残酷ないじめという色彩はなかった」と説明し、家族間で問題があって遺書の「ばかな事するのはやめてくれ」は両親に向けて、「他のやつ」とは妹のことではないかという説を立てた。
 
 
1994年5月、東京高裁は「常人なら屈辱感など心理的苦痛を感じないことは有り得ない」としていじめの事実を認め、鹿川さんに対して、東京都と中野区、そして主犯2名に1150万円の損害賠償支払いを命じた...
 
 
まとめ (閲覧者のみなさまへ)
 
この記事をご覧いただきありがとうございます。この記事は2020年2月に作成されたものですが、2021年2月に北海道旭川市で起こった女子中学生のいじめ自殺事件がクローズアップされていることもあり、アクセス数が増えています。当ブログの「忘れてはならない事件」記事は、何年経っても風化されずに「教訓」として残るように作成しています。この過ちが繰り返されないように。
 
2021年6月5日21時36分 ブログ管理人より