「不登校」は私ではなく、クラスメイトの子。
「今、どこでどうしているのかな?」
と時々思い出す…。

私が中学校2年生の9月1日、クラスに大阪から転校生が入って来た。

当時はテレビで、綺麗な長い髪の女性の後ろ姿を追って振り向かせて、
「これ知ってますか?新商品なんですけどぜひ使ってみて下さい」
とか言ってエメロンシャンプーを手渡すCMが流行っていた。


東京、大阪、名古屋、札幌、仙台、福岡、函館…、全国各地の都市の
「ふりむかないで〇〇編」
三重県のはなかったと思うけど…。


転校生はラクスルCMのん似でモダンなショートヘア、

都会から来ただけあってエレガントで立ち振る舞いも洗練されていた。


たちまちクラスの、というより学校のマドンナになって

男子生徒の注目を一身に浴びていた。
(といっても田舎だから学年は2クラスしかないけどね)

彼女は数日経った頃から遅刻や早退が目立つようになり、

やがて欠席がちになり、9月中旬以降はパッタリと登校しなくなった。

半世紀も昔のことだから、

当時は「不登校」とか「登校拒否」といった概念はなかった。


「義務教育なんだから学校に来るのは当たり前」
「義務教育なんだから生徒は勉強するのが当たり前」
と「〇〇するのは当たり前」とか「先生の言うことを聞け」と言うのが

陰険な担任教師の口癖で、当時の私はそれに洗脳されて違和感はなかった。

教師は彼女の不登校が「クラス内で孤立した原因がある」とか

「誰かのいじめとかが欠席の理由だ」と決めつけて
ホームルームの時間にクラス内で犯人捜しをしていたが、
彼女は転校してきたばかりで差別もいじめも有り得ないのだから、

当たり前だけど担任は容疑者を見つけられなかった。

次に、担任は彼女の母親に何度も電話をして、

家族から登校するよう説得をお願いしたらしいが、彼女の登校はなかった。

担任はクラス内で学級委員など5人を指名し、放課後彼女の家へ寄って
「登校するように説得しろ」
と。
その選抜メンバーに私も入っていたのだ。


田舎から町に引っ越していく幼なじみは時々いて、

転学の挨拶とかは見慣れていたが、
与作がヘイヘイホーして木を切るようなド田舎に都会から引っ越してくるなんて、

今からすると変なんだけどその頃は何の疑問も思わなかった。

彼女はお寺の近くのお茶農家の老夫婦の家に、母親と同居(居候?)していた。

老夫婦の親戚で母子家庭だとその時知った。

ハイカラな洋服を着た母親は担任からの説得要請があったこと、

それを彼女に伝えたことを教えてくれたが、彼女は
「学校に行きたくない」
の一点張りらしく、
「困った子ねぇ…」
と言うものの、母親は妙にサバサバしていて
彼女の不登校は慣れっこになっているように感じた。


あちこち転々として私の住むド田舎に来たらしいように私は感じた。

彼女の父親の話題は禁句の雰囲気で、

離婚したのか事故や病気で死んだのかも不明だったが、
「彼女の不登校はどうやら家庭環境にあるのかもしれない」
と私は想像した。

母親に彼女の10畳くらいの部屋に案内されると、

彼女は学習机の前で本を読んでいたが、
私たちが部屋に入るとベッドの上に移動して座った。

田舎の家屋は例外なく木造平屋かせいぜい2階建てで
極端にいえば、NHK連続テレビ小説「おしん」の山形の山奥の実家、

貧困農家の延長みたいな造りだから、
彼女の部屋はトンネルから抜け出した絶景のような別世界のようで目を見張った。

田舎では洋室はないからベッドで寝る人はいない。
年寄りでも病人でも畳部屋で布団で寝るのが当たり前だから。


私は初めてベッドを見た。
しかも和室の畳の上に高級な絨毯(じゅうたん)が敷き詰められ、

しかも部屋の真ん中にベッドがあるので違和感を感じた。
絨毯を見るのも座るのも触るのも初めての典型的な田舎の子だった。

学習机も田舎では見たこともないゴージャスなもので
書棚には英語や数学、理科などの参考書が何冊もあり、
星の王子さま、アンネの日記、レ・ミゼラブル、北原白秋全集、
走れメロス(太宰治)、蜘蛛の糸(芥川龍之介)、羅生門(芥川龍之介、)
こころ(夏目漱石)、坊ちゃん(夏目漱石)、三国志(吉川英治)、

最後の将軍(司馬遼太郎)…、
などが整然と並び、彼女の知的水準の高さに私は驚いた。
それらの本は当時の無学の私は読んだことがなかった。

今なら「引きこもり」とかふつうにあるが、当時はそういう概念はないし、
今みたいにテレビやスマホでゲームをやることもない。
彼女は自室で独学で勉強し、読書の虫だったのだ。

私がその後歴史や文学に興味を持ち、読書をするようになったことや
都会に憧れるようになったのは彼女の影響なのだ。

説得部隊は、彼女に
「学校においでよ」
「どうして学校に来ないの?」
「誰かにいじめられたの?」
「学校で一緒に勉強したり遊んだりしようよ」
「明日、学校で待ってるよ」
…、
などを善人を装って彼女に話していたが、私は
「そういうことは彼女の気持ちに寄り添ってないんじゃないかな」
と思い、彼女に声をかけられなかった。

というより、当時の私は無知、無教養すぎて彼女に語りかける言葉が、

何が最適なのかその時は思い浮かばなかったから。
時たまボンヤリと頭に浮かぶ頃には話題が次に移っていたのだ。

また、私が彼女に何か言ったところで、彼女の心には響かなかったはずだ。

彼女は何度か
「学校には行きたくない」

「あんたたちに関係ないでしょ」

「もう放っといてよ」
と私たちに言い、

ついには説得隊員の話の途中で布団に潜り込んでしまい無言を貫いた。
説得はみごとに失敗した。


彼女からすれば
「私の気持ちなんて誰にもわからない」
「放っておいてほしい」
という「ありがた迷惑」、「思いやりという名のお節介」でしかなかったのだ。
私はそれは理解出来て説得隊員であることを恥じた。

当時、登校できない子どもは容赦なく

「落ちこぼれ」とか「なまけ者」というレッテルが貼られた。
椅子取りゲームで脱落した子に敗者復活戦や救済策はなく

置いてけぼりになっていた。

彼女は母親に不登校の理由とか相談したのかどうかわからないけど、
再三「つらい」「苦しい」「寂しい」「助けて」の

「SOS」サインを早い段階から発信していたはずだが、
母親にはそれが届かなかったのだと思う。

そうして彼女は自信や元気を失い、心を閉ざし、殻に閉じこもり
不登校で身を守るようになったのだと思う。

思春期でもあるし、説得されていると感じれば反射的に反抗してしまい、
納得できないことにはなかなか素直に応じないのは今でこそ理解できるが、
当時の私は無知すぎた。

今だったら「テレフォン人生相談」の大原敬子さん(幼児教育研究)や、

三石由起子さん(作家・翻訳家)、

マドモアゼル・愛さん(エッセイスト)あたりに相談すれば

良い回答が得られたかもしれないけどね。

子どもが不登校になると、一般論だが
周りの大人たちは不登校の原因探し、悪者探しを始め、
父親は
「おまえの育て方が悪い」
と母親を責め立て、母親は
「あなた(父親)だって、仕事仕事で家のことをほったらかしにしてきたじゃない」
とか切り返し責任を転嫁し合い、
学校側はクラス内のいじめの有無や担任への相談に真摯に向き合ったかどうか…、
学校側の落ち度を危惧し都合の悪いことは隠ぺいし保身に走る。

要するに、周りの大人たちは

不登校生徒の心に寄り添うことは基本的に無いのだ。

そもそも
「原因を取り除けば問題は解決する」
という考え方自体が間違ってると思う。

仮に「いじめ」が原因だとしても、「いじめ」は学校で起きているのだから、

子どもが教師に相談して教師が効果的に動いてくれれば

解決の糸口も見えるだろうが、そもそも

「〇〇がいじめるから学校に行くのがつらい」

と言えないから不登校になるわけで、教師に言ってもダメだと思えば、
教師に相談することは避けるはず。


また、教師の対応によっては逆効果になり、

さらに火に油を注ぐことだってあり得るのだから。
そのへんはネガティブな弱者は敏感だよね。

「だったら親に相談すればいいだろう」
と思うかもしれないが、

親に出来るのは教師に連絡し、教師に解決させようとする責任転嫁くらい。


なので、体裁を整えるだけの保身教師に解決能力が無いと判断していれば、

子どもは親にも相談できないのは当然なのだ。


偉そうなことを言ってるけど、

実は私も子どもから相談を受けない黒歴史がある。


私の長女は小学校3年生からクラス内で猛烈ないじめに遭い、
私にそれを言ったのは6年生の12月だった。

長女は学校で約4年もいじめに遭い苦しんでいたのに

私はそれにまったく気づきもしなかったのだ。

長女は小学校から大学までエスカレーター式で進学できる

都内のミッション系私立学校に通学していたが、
「中学校に進学したくない」
とクリスマスの日に唐突に言い出し、

理由を聞いたら「4年間もいじめを受けている」と言い、私は仰天した。

私は当時仕事で忙しくしていて、

長女もそれを理解・配慮して私に相談しなかったのだと思う。


もちろん「SOS」サインを何度も出していたはずだけど、

長女は小学校入学以来、ずっと皆勤を続けていたこともあり

私はまったく気づいてあげることは出来なかった。

後でわかったことだけど、子どもは教室で担任が出席を取ると、
その後腹痛とかで保健室に逃げ込んでいたらしい。

(結果、長女は6年間皆勤した)

6年生の12月といったら、時期的にもう他校の私立中学の受験はムリ。
私立小学校から公立中学校に進学したら、またいじめに遭う可能性もある。
それで、長女は面接だけ(本人のやる気だけを確認する面接、試験はない)の

インターナショナルスクールに進学した。

小学校では徹底した没個性の方針だったが、中学校はその真逆で
生徒の個々の個性を尊重、褒めて伸ばす、個性を伸ばす教育で
それまで周りに配慮して意見を言わないタイプだった長女が、
良くも悪くも自己主張をするタイプに変身できた。

子どもが健全に生育するうえで、学校や教師が子どもに与える影響は大きい。
もちろん家族間のコミュニケーションを十分取ることの重要性は言うまでもない。


説得失敗後、1週間くらいして、担任が朝出席を取り終わると
不登校の彼女が転学したことを無感情でサラッとひと言通達し、

クラス内が少しざわついた。

彼女の転校の挨拶はもちろん無く、

私が最後に彼女に会ったのは登校の説得に行った1週間前が最後だった。

彼女に寄り添ってあげられなかった苦い思い出、

私の長女が私に相談しなかった苦い思い出…。

子供の心のケア、サインを見逃さないことはとても大事。

紀元前1世紀頃、

前漢の武帝が匈奴(きょうど、モンゴルの遊牧民族)との戦いで財政が悪化、
塩、鉄、酒の専売制度に関する会議録「塩鉄論(巻五・利議)」に、
「言う者は必ずしも徳有らず。

 何となれば、これを言うは易くして、これを行うは難(かた)ければなり」
とある。

要するに
「言うは易く行うは難し」
「口で言うのは簡単だけど、実際に実行することは大変難しい」
これは私のこと…。


孔子の「論語(憲問篇)」には
「子曰く、徳有る者は必ず言(げん)あり。言有る者は必ずしも徳有らず。
 仁者(じんしゃ)は必ず勇有り。勇者は必ずしも仁(じん)有らず。」
とある。

「徳のある者は必ずよい言葉を言う。

 しかしよい言葉を言うものは必ずしも徳のある者とは限らない。
 仁のある者は必ず勇気がある者だが、

 勇気がある者が必ずしも仁のある者とは限らない。」
という意味で、これも徳も仁もない私のこと…。

長く生きていれば、誰にでも墓場まで持って行きたい黒歴史ってあると思うよ。


彼女は転校後どうしたのかな?
救済策とかあったのかな?
理解し合える友と出会えたかな?
良い人生を過ごせたかな?

時々彼女を思い出す。