すり鉢のようなラパスの盆地を後にして、赤茶けた砂漠のような大地を猛スピードでバスは走り抜けました。すると一体どこまで人の手で耕すことができるのだろうと感ぜざるを得ないような遙かな大平原が広がっていたそうです。


 その彼方を縁どるように、灰色にかすんだ山脈が連なっていました。そしてプーノに向かうびりー君たちの左手後方には、来るときにもびりー君の目を引いた、ひときわ大きな雪山がそびえ立っていました。ラパスから見えるひときわ高く天にそびえる雪山はなんと言うのかそういえば調べてなかったなとネットで見てみるとイリマニ山とありました。来るときは正面に、帰るときは背後にあったそうで間違いないそうです。


 時折、道路からそんなに遠くないところで、牛や豚、羊などが放牧されていました。そして、農民も移動の手段として自転車を使うことが多いみたいで、自転車の車輪に踏み固められた細い道がどこまでも続いていたそうです。


 バスはSanta Cruz Der Surだったそうです。乗務員のオジサンがクスコを発った時と同じ人だから、来た時と同じバスに乗っているらしかったということです。


 帰りのイミグラシオンは慣れたもんだったということです。しかし、ルイスは出国手続きに思いのほか時間が取られるのでボリビアとその国民を口汚く罵りました。「仕事に熱意が無い、どうして出国手続きにこんな時間が取られるんだ!ボリビア人はしょうがない」ということだったそうです。


手続きが済んでびりー君は「念のためにトイレを済ませておきたい」とルイスに言ったそうです。行きの時にここのレストランで1ソルでトイレを使わせてもらっていたから、またできるときにやっておきたかったそうです。ルイスも、そこの近くに両替屋の屋台がいっぱい並んでいたことを思い出して、「では、早く行こう」と言いました。


 しかし、イミグラシオンと通りの反対側にあるその場所へ来るとルイスは愕然としました。来るときは仰山ひしめいていた両替屋が、今日はその場所には一軒もなかったということです。彼はしばらく狐につままれたような顔をしていました。


結局、両替はペルー側でしたということです。


 びりー君たちは、プーノでバスを降りました。そして、自転車タクシーを拾い、フリアカ行きのバスの発着所へ向かいました。フリアカ行きのバスは、長距離夜行バスとは一回りも二回りも小さいマイクロバスだったそうです。多くの車が日本製で、日本で活躍した在りし日を忍ばせるように日本語があちこちに書かれていたということです。


 ちょうど昼時だったので、びりー君たちは、どこかうまいレストランにでも行こうということになりました。


 プーノ、フリアカ付近では、人が三人ぐらい座れる座席が自転車のハンドル部分と合体している自転車タクシーがたくさん走っていたそうです。リマ、クスコ、ラパスでは見かけなかったような気がしたそうで、やはりああいったより鄙びた地方都市でしか走っていないようだったと言います。尤も、びりー君はラパスではあれをこぐのは無理だと思ったそうです。狭い道に人が大勢いたし、何より坂が多すぎるということです。


 「でも、よく考えたものだね」とびりー君は続けました。「荷物が重いけど、タクシーを使うにはちょっと近くて気が引けると言うときに便利だと思うよ」ということだそうです。


自転車タクシーを使って近くのレストランに行こうとした時、自転車タクシーの金具に引っ掛けてルイスはズボンを破ってしまったそうです。目的地に着いてから、しばらく運転手のオジサンをとっちめていましたが、もう、これはどうにもならないなとあきらめたみたいで、やれやれと言う風に解放してやったそうです。


 これが日本ならすんなり弁償させることもできるでしょうが、プーノでは?・・・ダメでしょう。

 「彼らの収入なんて知らないが、無理やり弁償させたら、社会の落伍者を一人作り出すことになりかねない」ということです。「やはり、自分で気をつけなきゃしょうがない」と、びりー君は言っていました。


 アーアと痛がっていたから、心配して聞いてみると、怪我もしていたみたいだったそうです。ばい菌でも入って化膿などしないでくれよと祈る気持ちでした。しばらく痛んだものの大丈夫だったということです。


 2階建てのレストランでは、ワールドカップサッカーがテレビ中継されていました。すぐ隣では、アメリカの大学生と思われる男女のグループが、わいわいがやがややりながら、テレビを見たり、何かを話し合ったりしていたそうです。びりー君たちは、そこで、トゥルーチャ料理とお決まりのインカコーラを注文したそうです。