長男の学年末テストが近づいてきました。
机に向かっていれば、それは「勉強」という認識の長男。確かにそれは間違ってはいませんが、そんな感じなので「テスト勉強」はしたことがなく、毎回提出物に追われ、やっとの思いで終わらせて何とか乗り切るパターン。
個別支援級から転籍し、学校にも通えていて、提出物をきちんと出せていて、テストもきちんと受けられていれば、私的には合格なのですが「一般社会」はとても厳しい。
前回のテスト後の面談で主人が「試験勉強に向けての計画表を作成させたい」と先生に要望をし、今回はテストに向けて学習計画を立てて進めることにしました。
2週間前からの計画で、初めの1週間で提出物を仕上げ、後半の1週間でテストのための勉強をしっかりやろう、ということになりました。
まずは提出物を洗い出し、ページ数を確認。毎日どのくらいのページ数をこなす必要があるかを計算します。長男の場合は勉強を「時間の長さ」よりも「量」で管理する方が分かりやすいタイプなので「この教科を何ページやる」というようにやることをリスト化していきます。
学校から帰ってきた長男が「頭が痛い」と言います。保健室に行ったが熱はなく、風邪症状も特になし。疲れが頭痛症状で出やすいタイプなので、頑張り過ぎのサインでもあります。
「痛みに波があり1時間のうちに2~3回ジーンと痛みを感じる。痛みのレベルは10段階で2くらい。目の上あたりとその奥が痛む」とのこと。こんなにきちんと説明できるようになったんだ、と成長を感じたのと同時に「過度に頑張らせてしまっているのではないか、無理させているのでは」という心配も。
食欲もあり、本人は元気そうにしてはいるものの、疲れやストレスが溜まっているのは確か。「休み時間も提出のワークをやっていた」なんて話を聞くと「休み時間なんだから休んでなさい」と言いたくなります。でも、本人は頑張ろうとしています。自分の体の反応にも付き合いながら、何とかやろうとしています。私的にはもう十分なのですが「一般社会」の基準で考えると、これは合格ラインではない。
主人が提出物のやることリストを完成させ、その中で「英語のワーク1日4ページ」というノルマが発生しました。主人は単純に日割り計算をしてこの数字なんだから問答無用やりなさい、と長男を部屋に行かせようとしました。
そして言われるがままの長男も素直に部屋に行こうとします。
おいおいおい…ちょっと待ってくれ。
出来ない目標を立てても意味がないし、課題の量が適切でなければ持続可能ではない。
主人と長男に待ったをかけました。
英語はLDの長男にとっては一番ハードルが高い教科。中学一年生の最後のこの時期になっても「BOOK」が書けません。音では分かっても書くことが出来ません。音と文字をマッチングさせる方法が分かりません。そんな状態なのに無謀すぎる計画でした。
「いくらワークに答えを書き写すだけの作業だと言っても英語の単語を全く覚えていない状態でやろうとすると1日4ページはかなりの量。アルファベットを1文字ずつ確認しながら書いていくってことは想像以上に疲れるし時間がかかる。見開き1ページやるのに20~30分かかっている。1日の量を減らして仕上げるまでの期間を延ばさないと睡眠時間が確保できない」と言いました。
根拠がある説明なら主人も納得します。英語に関しては提出日までの日割り計算で計画を立て直しました。
「一般の子の普通のやり方」を主人は提案します。
その理由は「一般級にいるし、皆と同じやり方で出来ないと困るし、それが出来るから一般級にいるんだから」ということです。たぶん。私の推測ですが。
忘れてしまうのかもしれません。この子は今までと変わらずに支援が必要な状態にあることを。
なぜか?今が「安定」しているから。
でもそんなことは無いのです。
いつも「綱渡り」です。ものすごいバランスの中を毎日やっとの思いで頑張っています。
子供の現在地をしっかり把握して本人のやり易いやり方、安心できる方法を一緒に考える。
その作業があっての「一般級」なのです。それを日々見守り続けているから「安定」しているのです。
忘れてはいけない。この子には支援が必要で、支援があっての、今の生活だということを。
出来ることは確実に増えているし、成長もしている。確かにそう。だから忘れてしまう。
「この子はもう一般級でやれているんだから」と。
でもそれは、見えない部分でその何十倍もの時間と労力をつぎ込んで支え続けている環境があるからこその話。学校、先生、友達、地域、家族、トータルパッケージで、私たち家族は何とか頑張れている。
表面の見えるところはすべて「整った話」。整えるまでが大変なのです。
毎日元気に子供たちが帰ってきてくれることがどれだけの「奇跡」か。
今の我が家の生活は家族全員がものすごいバランスの上に成り立っている。
今この生活が出来ていることが本当に「奇跡」だと思ってる。
私がパニック障害とか不安障害とか鬱にならずに毎日ヒステリックにはなっていながらも、毎朝きちんと起きれてパパや子供たちを送り出せている。
これは我が家の「奇跡」なのです。
パパ
日中、外でお仕事頑張って疲れているのに、帰ってきて子供に勉強教えてくれてありがとう。
でもね、パパ。忘れないで。
我が家は常にスモールステップ。一般級に転籍したからといって、環境が変わっただけで、その子の本質は変わっていない。成長はしているけれど、性格や個性は変わっていない。
だからみんなと同じにはなれないし、なりきれないの。だから、みんなと同じやり方をうちの子たちに求めないであげて欲しい。
この「世の中的」「社会的」に問題ない常識の範囲で、この世界のことを「この子バージョン」に変換して一切のことを教えてあげて欲しいのです。そしてそれはお手数ですが「本人の成長と発達」に合わせてお願いしたいのです。「この年なら、この学年なら出来て分かって当たり前、むしろそうじゃなかったらこまるでしょ」という物差しもダメ。その物差しも必要かもしれないけど、そもそも本人が理解できるところまで発達していなかったら、いくら一般社会の基準通りに伝えても分からないんだよね。だから分かるように変換して欲しいのです。ルビをふって、文字を大きくして、分からない言葉は意味も教えて。
そうやっていちいち丁寧にゆっくり分かりやすく、分かるように教えてあげて欲しいんだよね。そうすればきっと理解できる。そうすると教えてもらったことが点で終わらず、自分の経験とつながって線に出来る。この理解が、次のタイミングではもっと早くもっと正確に自分で処理出来ていくための材料になる。その理解と経験から出来る脳内の網目を満遍なく細かく張ってあげられるように教えてあげて欲しいんだよね。
私も出来てないし、人のこと言えない。だけどそう思って子供達一人ひとりを見ているんだよね。
これは「特別支援」に完全に寄ってしまった考え方。
私が「最終的に生きていかなければいけないのはこの社会」と言っているくせに
「子供たちを成長させようとか鍛えようというアクションが全くなく、守ってあげているだけ」とパパから思われているんだろうな、と気が付いてもいます。
でも、まだまだパパが思っている以上にうちの子たちは一般車道には合流しきれていない。私の中では、合流地点で右往左往していて後続車両にクラクションをブー!ってやられている軽自動車なイメージなのです。思い切って合流しても、標識を間違えたり、進行方向間違えてり、信号みてなかったり。警察にお世話になって、また合流地点からやり直すんだけど、一つできるようになったと思うと、次はこっちが出来なくなっちゃう、なんてことも発生して、前進してはいるものの目的地は遥かかなた。生きてる間に辿り着けるのだろうか、って思ってしまうこともあるくらい。
「子供のことを信じなきゃ何も始まらない」パパの言う通り。私もそう思う。
でも日常を担当している私の肌感覚は実はこんな感じなんだよね。パパと全然違うでしょ、きっと。
でもどっちの視点も考え方も必要だと思っている。
だからパパを否定することはしないし、言わないけど、知っていて欲しいのは
「母親の我が子の見取りはこういう状況だよ」ってこと。
知っといてくれると、有難いんだけどねー。知っといてくれるだけでいいんだけどねー。