2016年08月13日(土)
前の現場に居た時、歴史好き の上司が 報連相 の大切さを説明する際
島津家の 3本の矢 を例にあげて説明して下さいました。
ソレは、島津家 お得意の戦法 釣野伏 でした。
その戦法とは………先鋒隊が、敵に攻撃を仕掛けた後、一旦退却し、
頃合いを見計らい、引き返し 虚を突かれた相手が混乱した隙に
野伏 ていた後方部隊が奇襲し、3方向から攻撃する戦法です。
この作戦は、敵を圧倒し、
他の武将達も真似をしようと試みましたが、巧くいきませんでした………
コレは、仲の良い 実の兄弟であった と言う事と………
引き返すタイミング の 報告 と 連絡 がキチンと出来ていたからであって
如何に 報告 と 連絡 が大切であるかと言う事です
。
と説明をされておられました。
まぁ~~~………
報告 と 連絡 と 相談 が大切なのは間違いでは無いですし………
歴史に詳しい 課長の顔 を潰してもアレなんで………
なるほど………と 納得(大人な対応)しておきましたが………
皆さんは、どぉー思われますか

そんな訳あれへん………で・す・よねぇぇぇ~~~………
私の考える 3本の矢 を
図にてご説明致しますと………
①の部隊が、敵を攻撃
A の地点まで後退
敵は①の部隊を追撃
敵が C の地点を超え、②の部隊の前を通過し、完全に背を向けたら
②の部隊が背後より、敵を攻撃
野伏 は、島津のお家芸。
①の部隊を 囮 と思い込み、②の部隊迎撃の為
①の部隊に完全に背を向けたら
①の部隊が背後より、敵を攻撃
つまり………此処で大切なことは………報告 より
指揮命令系統の確立(誰の指示に従えば良いのか………の確立)
意思の統率(皆が同じ方向性を持ち、同じ目的を見据えている事)
なのである。
部隊は①②③とあるが………
指揮は③
義久 は①②部隊の全員に
『敵が背を向けたら攻撃せよ』
若しくは
『敵の背後からのみ攻撃せよ』
との指示を出していたのでは無いかと推測されます。
各部隊長がその場、その場でバラバラの指示をしていたんでは
指示が遅れるし、混乱する
各自が、自己の判断で命令を遵守する。
※何時、何をするか は決まっている。その時 は、自己判断。
コレが義久流 の 統率方法
また、何故 挟み撃ち では無いのか
バラバラに逃げられるより………一ヶ所わざと逃げ場所を作っておき
知らず知らずの内に、敵は、ソコ(D)に誘導されて、
待ち伏せ部隊③に討ち取られる仕組み
。
それに………
挟み撃ち を得意としていた 島津隊 は、挟み撃ち打破の方法 も心得ていた。
それは、関ケ原の戦い でも実証されている。
そうっ
島津の退き口・捨てがまり である。
挟み撃ち に合った場合、戦力を二分するより、一方に全勢力を注ぎ込み
一点突破の方が効率が良い。
また、九州方面へ撤退すると思われていたが、逆を突き、中央突破
勝敗は既に決していたので、最後の最後に 犬死 したくない(東軍勢)
一方、大将さえ無事に 薩摩 に辿り着ければ、島津の勝ち と考える(島津軍)
決死の覚悟は強い 窮鼠猫を噛む だから………
島津は………挟み撃ち では無く、三方攻撃を行った………のだと思います
。
P・S
勇猛果敢で知られる 島津軍
何故、全く戦わず 籠城 していたのでしょうか

三成 以外は、秀秋 を始め、色んな武将が裏切りそうなことを察知していた。
そこで……… 家康の暗殺 を何度も進言したが………
三成『そんな 姑息なマネが出来るか』
『あちらは8万、こちらは10万。数の上でもこちらが優位
』
と進言に取り合わなかった。
※秀頼(秀吉の息子)が西軍だったので………西軍に属してたが………
マジで 家康 と戦う気の武将は殆ど居らず………
10万の内、2万も居れば良い方だったのでは無いだろうか


秀吉 って思ったより 人望 があって………
反豊臣 では無く、全員(東軍 も 西軍 も)豊臣の家臣
ただ……… 上杉 が
可哀想 三成 が
気に食わん
やったんで………
義弘『あんなアホの為に、大事な家臣達を死なせるわけにはイカン


』
(豊臣 に忠誠は誓うが………
戦下手な 三成 には付き合えん………ってことです
)
と一戦もせず、城に籠城していたようである。

前の現場に居た時、歴史好き の上司が 報連相 の大切さを説明する際
島津家の 3本の矢 を例にあげて説明して下さいました。
ソレは、島津家 お得意の戦法 釣野伏 でした。
その戦法とは………先鋒隊が、敵に攻撃を仕掛けた後、一旦退却し、
頃合いを見計らい、引き返し 虚を突かれた相手が混乱した隙に
野伏 ていた後方部隊が奇襲し、3方向から攻撃する戦法です。
この作戦は、敵を圧倒し、
他の武将達も真似をしようと試みましたが、巧くいきませんでした………
コレは、仲の良い 実の兄弟であった と言う事と………
引き返すタイミング の 報告 と 連絡 がキチンと出来ていたからであって
如何に 報告 と 連絡 が大切であるかと言う事です

と説明をされておられました。
まぁ~~~………
報告 と 連絡 と 相談 が大切なのは間違いでは無いですし………
歴史に詳しい 課長の顔 を潰してもアレなんで………
なるほど………と 納得(大人な対応)しておきましたが………
皆さんは、どぉー思われますか


そんな訳あれへん………で・す・よねぇぇぇ~~~………
私の考える 3本の矢 を
図にてご説明致しますと………

①の部隊が、敵を攻撃
A の地点まで後退
敵は①の部隊を追撃
敵が C の地点を超え、②の部隊の前を通過し、完全に背を向けたら
②の部隊が背後より、敵を攻撃
野伏 は、島津のお家芸。
①の部隊を 囮 と思い込み、②の部隊迎撃の為
①の部隊に完全に背を向けたら
①の部隊が背後より、敵を攻撃
つまり………此処で大切なことは………報告 より
指揮命令系統の確立(誰の指示に従えば良いのか………の確立)
意思の統率(皆が同じ方向性を持ち、同じ目的を見据えている事)
なのである。
部隊は①②③とあるが………
指揮は③
義久 は①②部隊の全員に
『敵が背を向けたら攻撃せよ』
若しくは
『敵の背後からのみ攻撃せよ』
との指示を出していたのでは無いかと推測されます。
各部隊長がその場、その場でバラバラの指示をしていたんでは
指示が遅れるし、混乱する
各自が、自己の判断で命令を遵守する。
※何時、何をするか は決まっている。その時 は、自己判断。
コレが義久流 の 統率方法

また、何故 挟み撃ち では無いのか

バラバラに逃げられるより………一ヶ所わざと逃げ場所を作っておき
知らず知らずの内に、敵は、ソコ(D)に誘導されて、
待ち伏せ部隊③に討ち取られる仕組み


それに………
挟み撃ち を得意としていた 島津隊 は、挟み撃ち打破の方法 も心得ていた。
それは、関ケ原の戦い でも実証されている。
そうっ

挟み撃ち に合った場合、戦力を二分するより、一方に全勢力を注ぎ込み
一点突破の方が効率が良い。
また、九州方面へ撤退すると思われていたが、逆を突き、中央突破
勝敗は既に決していたので、最後の最後に 犬死 したくない(東軍勢)
一方、大将さえ無事に 薩摩 に辿り着ければ、島津の勝ち と考える(島津軍)
決死の覚悟は強い 窮鼠猫を噛む だから………
島津は………挟み撃ち では無く、三方攻撃を行った………のだと思います

P・S
勇猛果敢で知られる 島津軍
何故、全く戦わず 籠城 していたのでしょうか


三成 以外は、秀秋 を始め、色んな武将が裏切りそうなことを察知していた。
そこで……… 家康の暗殺 を何度も進言したが………
三成『そんな 姑息なマネが出来るか』
『あちらは8万、こちらは10万。数の上でもこちらが優位


と進言に取り合わなかった。
※秀頼(秀吉の息子)が西軍だったので………西軍に属してたが………
マジで 家康 と戦う気の武将は殆ど居らず………
10万の内、2万も居れば良い方だったのでは無いだろうか



秀吉 って思ったより 人望 があって………
反豊臣 では無く、全員(東軍 も 西軍 も)豊臣の家臣
ただ……… 上杉 が


やったんで………
義弘『あんなアホの為に、大事な家臣達を死なせるわけにはイカン




(豊臣 に忠誠は誓うが………
戦下手な 三成 には付き合えん………ってことです


と一戦もせず、城に籠城していたようである。