2016年07月25日(月)くもり

ある所に 難攻不落 と言われていたお城が御座いました………

そのお城は、後に 織田信長 も 居城 にした程のお城です。

そのお城とは………



岐阜城(当時は 稲葉山城)

当時の城主 斉藤龍興 は

斉藤道三 の孫に当たりますが………

こいつがまた………凡人

否々……… 凡人 ならまだ マシ ………

なんと言います………まぁ~~~………盆暗………なんですなぁ~~~………にひひあせるあせるあせる

道三右下矢印義龍右下矢印龍興

一部の家臣のみを寵愛し………

しかも………評判の悪い 斉藤飛騨守 を 重用 していたことなどが、

家臣の不信感を煽り、全く信望を得られていなかった………

道三 の時代は、表面上、友好関係を結んでいるかに見せていた 信長 も

この 好機 を見逃す筈も無く……

再三、龍興 を攻め立てた………

永禄06年 新加納の戦い

しかし………この 窮地 を救った1人の武将が居た。

その人物こそ、若き日の………



竹中半兵衛

であるグッド!べーっだ!

半兵衛 は、この当時の武将には珍しく、インドア派 で、本ばかり読み耽っていた。

(勿論、この本は 兵法書 であったにひひ。)

しかし………新加納の戦い で、自軍を勝利に導いた 半兵衛に対して

龍興 は、誹謗中傷を繰り返し、蔑み、小馬鹿 にしたのである………

こんな、盆暗 な 龍興 に対し………

半兵衛 は、一計を案じた

永禄07年 稲葉城乗っ取り事件

である。

夜間、沢山のめらめら松明を焚き、沢山の旗幟を立て………大軍を装い、夜襲 をかけたのである。

ビビりの 龍興 は、敵の夜襲と思い込み、家臣を見捨て、城より逃亡したのである。

こぉーして、半兵衛 は、

難攻不落 と云われていた城稲葉山城 を、たった1日で陥落させたのである。

その時、信長 は

『城を明け渡せば、美濃の半分を与えよう』

と 半兵衛 に打診するが………

半兵衛 は

『城主 である 龍興 を 御諌め する為、一時、城を預かっているだけ………』

と、この申し出を断り、事実、この半年後

1、この企てに加わった全ての者に対し、一切の お咎め無し
1、今後の城内の体制の見直し

を条件に、城稲葉山城 を 龍興 に返還し、自身は隠居した。

しかし………こんな 盆暗 な城主なんで………

結局は、信長 に、攻め落とされ、城を奪われてしまいます………ガーン汗

その後………

その時(乗っ取り事件)の、功績 を高く評価された、半兵衛 は、信長 より、再度

『自分の家来にならないかはてなマーク

と打診されますが………この申し出を断ります………

っが………

木下藤吉郎(後の 豊臣秀吉)からの申し出は受け入れ、

黒田官兵衛 と共に 豊臣軍を支える 軍師 になったのでしたにひひ

P・S

数年前、大河ドラマ で 軍師 黒田官兵衛 が放送されてもてはやされていましたが………

黒田官兵衛 ってそんなに 凄い軍師 だったんでしょうかはてなマークむっ

1577年 信長 を恐れた 荒木村重 という武将が謀反を起こします。
1578年 単身、荒木村重 の下を訪れるも、幽閉されてしまいます。

官兵衛 が、自分を裏切ったと思い込んだ 信長 は、

人質であった 官兵衛 の息子 松寿丸(後の 黒田長政)を殺せ と命じますが………

官兵衛 が別の子の首を差し出し、松寿丸 の命を救います。

1年後、官兵衛 は、無事救出されますが………その時、既に………

元々、体の弱かった 半兵衛 は、官兵衛 の代わりに出陣した先の陣で病死していました。

官兵衛 が、間抜けにも、荒木村重 に幽閉されていなければ………

官兵衛 の代わりに、出陣していなければ………

半兵衛 の方が、もっともっと活躍していたと思います。

歴史に ~たら、~れば は無いですが………にひひ汗