ああ、彼女の鋭い言質は、さながら抜き手を見せぬ居合いの妙技。弓の道で言うならば、弓に離れを知らせぬ朝嵐の離れに似たり。彼女の言動は、ことごとくその裏に刃傷の狂気を隠しているのにもかかわらず、その見事な業前故に、それを見るものは感動をも覚えるだろう。それはさながら、日本刀である。人を斬るためだけに打たれた刀は、殺人という狂気をはらんでいるのにもかかわらず、美しい。

私は、彼女の妙技を白刃取る剛腕も持ち合わせていなければ、彼女の真向の一撃を上段に防ぎ、すかさず袈裟に切り返す剣技も備えてはいない。加えて、我が剣風は待ち剣である。相手の初太刀をかわせぬ待ち剣の士に、勝機はない。


となれば、武士としてとるべき道は唯一つである。一度この道を歩き始めたら、敗北はすなわち死である。技量敵わずといえど、相手に背を向くるは士道に非ず。我に残されたる道は、相手の初太刀を我が剣技の全力を以て受けるだけである。そして、もしも力及ばねば、潔く斬らるるもまた、致し方なし。

それは、この狼の斯道不覚悟と諦めるしかないのである。


死合いの時は近い。我が心境はさながら切腹の沙汰を待つ浅野内匠頭長矩。

だが、彼と違うのは、私にはまだわずかばかりの勝利の可能性が残されているということである。勝負の殆どわかりきった死合いであれ、兵法者同士の立合いに、絶対はない。

そしてまた、案の定私が相手の妙技の前に斃れたとしても、そこには手練の一撃に討たれた爽快感が残るだろう。

いずれにせよ、覚悟は磐石、我が心中は穏やかなり。あとは、そのときを待つだけなのだ。

ああ、これまでこんなにも人間を不可解だと感じたことがあろうか。そして自らをこんなにも不合理な存在だと自覚したことがあろうか。

私は今、自らに問うているのである。「お前は何をしたいのだ?」

その答えは未だ出ていない。その理由は単純である。それは私があまりに不合理な存在だからである。

だが、しかし、果たしてこの世の中に、合理的精神を持ち合わせた人間がどれほどいようか?もしもいるとすれば、それは経済理論の中で言われるところの合理的個人か、あるいは悟りに達した仏たちか。

われわれは常に矛盾を抱えて生きている。一方で「こうしたい」と思っても、もう一方の私はその欲求に対してブレーキをかけるのだ。「そこに近づいてはいけない。そこから先は危険だ。」

そこには相反する二人の自分が常に存在する。片一方は自らのために常にその純粋な欲求を追い求める。そしてもう片方は常に自分のためにその行動に伴うリスクを避けようとする。この両者は同じように自己という単一の存在の利益を最大化することを至上目標としている。それなのにも拘らず、この両者が提案する心の動きは、常に全く正反対の行動を示しているのである。そして、我々は個々のケースにおいて、この二者の提案の勢力図に従って自らの心の状態を決定するのである。

それはおそらく、人間が、いや、地球上の生物が永い歴史の中で培ってきた生きてゆくための機能なのである。


しかしながら、いま、我々がユンディズム、すなわち自らとの無限の闘争の、そのさらに先にあるものを垣間見ようとするとき、我々はもはや、この既存の、矛盾する二人の自己に縛られ続けることは許されないのである。なぜならば、自らとの無限の闘争というこの非常の困難を伴う作業を行い、そしてまた、その彼岸を目指さんとするときに、自己の利益を至上理念とする心の動きは、確実に我等の闘争の決意を挫けさせ、その努力を水泡に帰さしむるに相違ないからである。


すなわち、私の言いたいことは一つだけである。人間が考えてることはあんまり良くわかんないし、ターンちゃんの考えてることはもっとよくわかんないけど、頑張って弓手から伸びあって、星までまっすぐだ!ってことなのである。