弓手師は、飛び出しそうになる自分の右拳を必死で抑えていた。


この拳は、怒りにまかせて人を殴るための拳じゃないから。人を幸せにするための拳だから。守るための拳だから。弱い者を。正義を。あいつとの、約束を。









店長のいびりには、もう慣れたはずだった。


それなのに、今日はそれが殊更苦痛で、胸底から激しい怒りが沸き上がってくる。


それはきっと、今朝のあの嫌な夢のせいだろうと、弓手師は思った。


そう、彼女を失った、あの夜の夢だ。









そもそもこの店長という人物は、店員のアラを探して裏へ呼び出し、罵詈雑言を吐きかけて自分のストレスを発散するタイプの人間で、弓手師はこのコンビニに入った当初から、そのターゲットであった。


はじめこそ苛立ちを覚えたものの、最近ではそれにも慣れてしまって、ほとんど何も感じなくなっていた。


だから、店長の理不尽に拳を震わすほどの怒りを覚えるのは初めてに近いほど久しぶりに感じられたし、それは、弓手師が未だにあの夜のことを克服できていないという、証でもあった。









「なんでそんなこともわかんないの?そういうのが一番イラつくんだよ!!」



堪えろ。堪えるんだ。



「なんでわかんねぇくせに勝手にやんだよ。わかんねえんだったらすぐ俺んとこ聞きに来いよ!!」



我慢だ。頑張れ。



「無駄金払うために雇ってんじゃねぇんだぞ!!お前はほんとに使えねえな!!」



我慢しろ。怒るな。手を出しちゃいけない。それだけはダメだ。あいつとの、まさよとの約束のためにも。












まさよ、お前がいなくなってから、俺は抜け殻みたいだ。

あんなに幸せだったのに、こんなに早く俺の前からいなくなってしまうなんて。つらいよ。悲しいよ。

でもお前は、今は、幸せにやっているよな?お前の人生はつらいことばかりだったかもしれないけど、今は、全部忘れて、幸せだよな?そうだろ?そうあってほしい。そう、信じてる。










そう、まさよはいなくなってしまった。俺を残して。独りぼっちにして。


単調だった俺の生活は、まさよと出会ってから、それまでが嘘だったみたいに輝きだしたんだ。


まさよと過ごす時間は、楽しかった。


まさよも俺も、いつも店長に怒鳴られてばかりだったけど、そんなの、なんでもなかった。


幸せだった。


まさよの人生は、信じられないほど不幸だった。でもあいつは、そんなこと気にもしないみたいに、いつも明るく、笑っていた。


幸せにしてやれると思った。あいつを不幸から救ってやれると、そう思っていた。


でも、できなかった。あいつは死んでしまった。あの夜、俺の目の前で。











まさよ、今でも俺は、お前と出会ったこのコンビニから離れられずにいるよ。


お前と一緒に働いたこのレジや倉庫に、お前が使ったボールペンやハサミに、今でもお前のぬくもりを感じるような気がするんだ。いや、今でもお前が生きているような気がするんだよ。


覚えているかい?約束したよな。ずっと一緒だって。


だから、このコンビニにお前を感じるうちは、俺はまだ、ここを離れられない。


まさよ。でもお前は、もう俺のことは忘れていいよ。もう、幸せになってくれ。


俺のことは大丈夫。お前と出会う前よりは、たぶん、強くなれてるから。












弓手師は堪えていた。店長の悪態は、まさよとの思い出と相まって毒のように彼の心を苦しめたが、弓手師は堪えていた。まさよと、これからも一緒にいるために。












「なんだ?その目は?お前、今怒られてるんだぞ?わかってんのか?じゃあなんだそのツラはよ?何か言いたいことでもあんなら言ってみろよ!!お前、いつからそんな反抗的になった?まさよが入ってきてからじゃねえか?あいつにいいところでも見せたかったのか?え?じゃあよかったなあ!あいつが勝手におっ死んでくれてよお!!」



















・・・・・・・・・・・・・・・・。





















我に返ったときには既に、弓手師の右拳は店長の鼻頭を殴り飛ばしていた。













あの夜から必死に築き上げてきた心の堤防が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちた。


今まで押し込めてきたものが、心の奥からどっと溢れ出してきた。


喪失の悲しみ。助けられなかった悔恨。約束を守れなかった後悔。店長への怒り。自分への怒り。まさよのいない、この世界への怒り。苦しさ。つらさ。みじめさ。虚しさ。切なさ。愛しさ。


涙が、とめどなく流れ出してきた。


弓手師は、泣いた。大人になってから出したこともないような大声で、わあわあと泣いた。










そのとき、客が来たことを知らせる自動ドアのチャイムの音が、入口のほうから聞こえてきた。


驚いて、慌てて涙を拭き、裏からレジへと出てみると、早朝六時のコンビニに、まだ客の姿は見当たらない。誰もいない店内に、ただ自動ドアだけがぽっかりと、口を開けていた。


そして、次の瞬間、その大きく開いた入口から、夏の朝の爽やかな風が吹き込み、弓手師の頬を撫でた。











「ほら、お客さん、来たわよ。」












まさよのそんな声が、聞こえたような気がした。















弓手師は、涙と笑顔が入り混じったような複雑な顔で、力いっぱい叫んだ。


















いらっしゃいませ、と。








































































とまあ、あまりのバイトウザさに、こんな妄想に耽ってしまっていたわけですが。


何か?