道徳は、いかにすれば幸福になれるかを教えるものではない。
すなわち、非常に高徳な人物が必ずしも幸福であるとは限らないし、また同時に、見下げはてるようなクズが必ずしも不幸のどん底で苦しむとも限らない。高徳な人物が不幸のどん底で苦しみ、クズがこの世の春を謳歌するということは、この世の中において、ままあることなのである。
なぜならば、道徳と幸福というものは、同じ世界に存在するものではないからである。
幸福は、あくまで幸運の賜物(こううんのしぶつ)であり、徳を積んだから与えられるものではない。道徳とは、自らが幸運に恵まれ、幸福を与えられたときに、いかにすればその幸福にふさわしい人間となっていられるかを教えるものなのである。
こんな感じの考えは、カントの思想の一つである。応報主義的な、善いことをすれば幸せに、悪いことをすれば不幸に、という信念が、現実に即してはいないということを、彼は示したのである。
私は、この考えは真実のある一側面を確実に捉えていると思っている。
皆さんはどう思われるだろうか。
もちろん、彼の指す「幸福」の観念が非常に世俗的な意味における幸福である、ということは前提である。
より高次の、「幸福は自分の心次第さ。」みたいな哲学者的幸福論を指してるわけじゃないのである。
そういう方向に話を持ってったら、ストア派の哲学とか、エピクロス学派の言うアウタルケイアとかの土俵になっちゃうのは目に見えているからである。つまり、一般的な意味での幸福論なのだ。
実際周りを見渡してみれば、ほらほら、世の中の幸せそ~な億万長者とかモテ男とかが、必ずしも倫理の面でずば抜けてるだろうか?そんなことないだろう。捨てられたタバコを拾ってゴミ箱に持ってく冴えないメガネ君より、タバコポイ捨てとかしちゃうイケメンのほうがモテるのが、この世の常ってもんである。死ね!ポイ捨てイケメン死ね!!
だから、たとえ高徳に生きたって、お金がガッポガッポなわけでもないし、モテるとも限らない。楽しくもないかもしれない。不幸にならないわけではない。
そんなら真面目に正しく生きる必要なんてないじゃん。倫理なんてくそくらえ、道徳なんてうんこ食べろ。
そう考えてよいのだろうか?
私はそうは思わない。
やはり、それでも我々はあくまで倫理に根ざし、道徳を追求し、徳操高潔、技能円熟、識見高邁にして特に斯界の範たる弓引きを目指さねばならない。そういうことを、私は今日、訴えたいのである。
世の若者たちに訴えたいのだ。見てみなさい。時代の寵児ともてはやされたホリエモンの末路を。彼みたいになりたいと多くの若手ビジネスメンが思ったであろうホリエモンの、あの憐れな落ちぶれ方を。彼はたぶん、表舞台には再起不能だろう。
だが彼は、あれほどのバッシングを受けるほど重大なる犯罪を犯しただろうか?連日その非道っぷりがマスコミに何時間も何時間も報道されるほどの、ちっちゃいころの文集とかが紹介されたり、昔の恩師がインタビューされたりするほどの、重大なる犯罪を犯しただろうか?答えは、おそらく否であろう。ヤマハの一件の方が事件としてはよっぽど問題だと私は思う。
しかしながら、それでもホリエモンがこれほどの社会的制裁を受けるのは、なぜだろうか。
マスコミの過剰な煽りもあろう。金持ちへの妬みもあろう。
しかしそれ以上に、彼が、その幸福にふさわしい人間だとみなされていたかどうか、ということが大きくこの問題に関係しているのではないかと私は考えているのである。
つまり、日本の社会には、以前から彼の幸福にその徳が見合っていないという考えがかなり内在しており、それがこれほどのバッシングにつながったのではないか、と。
この考えには、実力でのし上がったんだからふさわしいも何もねーじゃん、という反論が予想される。
たしかに、彼が億万長者にのし上がったのは、多分に彼の高い能力がそれを可能にしたのだろう。しかしその才能は?その才能を育てる土壌は?環境は?
彼の能力と成功を生み出した要因は、多分に幸運によって与えられたのではないか?我々は、どんな人間に、どのように生まれてくるかなどということは選べない。それは確実に、幸運の賜物なのである。
その幸運によって与えられた幸福に、彼はふさわしい徳を備えていただろうか?彼は高徳な人間だっただろうか?もちろん、実際に彼が高徳であるかどうかなどということは分からないし、人の価値を外から他人が値踏みすることはできない。しかし、この問いに対して、イエスと答える人が日本社会にどれほどいるだろうか。
彼の一連の発言から、徳を見出した人はどれだけいただろうか。
ただの拝金主義者に見えた人が、どれだけ多かっただろうか。
それに対する反動が、一連のホリエモン・バッシングの正体だと私は考えるのである。
たしかに道徳は幸福を勝ち取るための方法ではない。しかし、徳がないとみなされるか、あるいは高徳だとみなされるかが、どれだけの意味を持つか、ということをこのホリエモン・バッシングは如実にあらわしているのではないか。
やはり、我々は倫理と道徳に従って行動せねばならないのだと思う。もしかしたら、いつの日か幸運の賜物が、突然与えられるかもしれないのだから。そのときに、我々が、それにふさわしい人間になっているために。誰からもその幸福を祝福されるような人間になっているために。
私はなぜ今日はこんなに真面目に語っているのか?
答えは簡単である。ヒマだからだ。