小さい頃のアルバムを見ていると違和感を感じることがある。
「記憶の中の風景と違う」
そんなとき、自分の記憶を疑った。
違う場面と混同している、感情が風景を変えた、思い出なんて美化されるもの・・・
それらしい理由はいくらでも見つけられる。
でもそれは写真が正しく切り取られた「現実の一部」の画だという大前提があったから。
フィリピンでのアルバムを見せていて違和感を感じることがある。
写っているのは、きれいな風景、こどもたちの笑顔、ゴミ山・・・
話しながら思うのは、一番伝えたかった日常の写真がないことが多い。
写真を撮るには、カメラを取り出し、被写体に向け、ピントを合わせ、シャッターを切るという動作が必要。
考えてみれば当然なのだが、写真は意識的に切り取られた画なのだ。
他の人にも見せたい風景を、ずっと残しておきたい瞬間を、伝えたい現状を、意識的に切り抜く。
例えば、きれいな海の風景を、足元のゴミの落ちた砂浜をフレームから外して写す。
ずっと残しておきたいと思えた瞬間にカメラを偶然構えてるなんてことはなく、良い画になりそうだと予想してカメラを構えタイミングを待つ。
無関心な人にも力強く伝えるために、センセーショナルな画を探し求める。
ファインダーを通して見えるのは人為的に作られた別世界。
それが良いとか悪いとかじゃなく、ただそういうもんなんだなぁと・・・
カメラの性能は格段に進歩してきているだろうが、レンズを通してみる画は人の眼で見る画は違う。
人の視力の及ばないところまでくっきり見える一方、暗闇にまったく弱かったりする。
写真とは、ありのままを撮ろうとするのでなく、その別世界を楽しむべきものなのだ。
そんなことを思い始め、よく携帯カメラを様々な場所に向けるようになった。
なんでもないものが意外に良い画になることもある。
上の写真はどれも家から徒歩5分圏内の場所の風景。
昔から美的感覚は褒められたためしがないので、自己満足としかいえないだろうが、切り取り方によってはこんな画にもなるんだと喜びを感じながらシャッターを切っている。
携帯なのでボタンを押すだけで味気ないけど、できあがる画には味がある。
初めは緑とか空とか、自然を撮りたいと思っていたけど、最近は人工物も面白い。
身近に雄大な自然を求めるのがもともと間違いで、人工物は避けようがないのだから、その不自然な共存に美しさを見出せれば・・・
と、センス0のアーティスト気取りは思うのです。
グリムス
【ネタのタネ】




