HAKATA PARIS NEWYORK

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本業はファッション、グラフィックなどデザイン関連のクリエイティブディレクター。創る側の視点で今のファッション関連の事情を評論する。マスメディアはもちろん、業界紙誌も扱わないテーマに踏み込む。

 2025年大晦日の今回は今年亡くなられた方に思いを馳せる。9月4日に、91歳で逝去が発表されたイタリア人デザイナー、ジョルジオ・アルマーニ氏である。筆者が同氏の名前を知ったのは大学生の頃。ブロンディのデボラ・ハリーが歌うコールミーが主題歌になった映画「アメリカンジゴロ」でだ。主人公を演じたリチャード・ギアが着る衣装がジョルジオ・アルマーニと報じられた。どんなブランドなのか、映画を観て確かめた。グレイッシュ(アルマーニ氏はグレージュと呼ぶ)な独特の色合い、柔らかいのにこしがある生地は、それまでの日本では見たことがない。これがイタリアが生み出すファッションなんだと圧倒された記憶がある。

 それ以来、ホテルニューオータニのショップには何度も出かけてチェックし、モード誌、一般誌を問わずアルマーニの特集を読み漁った。アンタッチャブルやシャウトなどの映画にも衣装提供されると聞けば必ず観て確かめ、ニューヨークのゲッケンハイム美術館が監修した分厚いクロニコルにも目を通した。それらで知り得た知識をもとにアルマーニ氏の足跡を振り返ってみたい。同氏は1934年7月11日にイタリア北部の小さな町、ピアチェンツァで生を受けた。幼少期は第二次世界大戦の真っ只中。町は戦略拠点だったため空爆の目標とされ、同氏自身も3歳下のロザンナと一緒に機銃照射から逃れた経験も持つ。家庭は決して裕福ではなかったが、母親はお金をかけずきちんとした服装を子供達にさせる才能に長けていた。

 母親の手作りの服、そして幼少期に着た制服の魅力は、のちにアルマーニ・ファッションを創造する上で、多大な影響をもたらした。まさに「服育」の成果である。1949年、アルマーニ氏はレオナルド・ダヴィンチ理系高等学校の2年生に編入学。小説「城砦」の主人公に感銘を受け医学の道を志し、ミラノ大学の医学部に進学する。だが、3年時には解剖学の試験が障壁となって退学。とりあえず兵役に就くと、大学で医学を学んでいたことを買われ、医療班に転属となる。だが、この頃はすでに戦時状態ではないことから、同氏にとって軍隊生活は退屈そのもので、隙を見ては絵を描いたりして過ごしていた。

 

 アルマーニ氏は責任感が強く、感受性も鋭かった。家族のことを人一倍大切に思い、できるだけ早く経済的に自立したいと考えていた。ただ、ファッション業界に進むことなど、微塵も考えていなかった。同氏は兵役に就いていても、空いた時間があれば就職活動をした。幼馴染みのラケーレ・エンリケスに相談すると、彼女は働いていたミラノの大手百貨店リナシェンテが広報部のスタッフを募集していることを伝えた。同氏はこのチャンスを見逃さなかった。この時、妹のロザンナを撮影した写真を何枚か持参し、面接を受けた。

 広報部長はロザンナがプロのモデルではないことを知っていたにも関わらず、アルマーニ氏のことをすごく気に入り採用に尽力した。こうして同氏はリナシェンテ百貨店に就職し、同百貨店に1963年まで勤務した。そこは人材の宝庫だった。建築家、デザイナー、広告クリエーター、リサーチャーなどが創造力を結集させ、次々と斬新な企画を打ち出していた。ただ、百貨店としては転換期を迎えていたのも事実だった。目指したのは、ミラノの上流階級の洗練されたセンスを商品政策に反映することだった。

 

 アルマーニ氏は広報部でクリエイティブ部門のアシスタントとして、写真家の撮影助手、ショーウインドウのデコレーションなどをこなし、ひいてはメンズウエアのバイイングにも携わった。世の中が求めているものの一歩先を読む。アパレルと産業の間に存在するメカニズムを知る。生産と流通のシステムを理解する。同氏は、リナシェンテ百貨店で多くのプロジェクトを生み出したジャンニ・ボルドーリ氏が見抜いた「高品質の製品を提供するには、ファッションデザイナーとバイヤーが直接対話することが重要」という話に感銘を受けた。

 

 そして、ボルドーリ氏がさりげなく着こなす型を崩したソフトなジャケットは、デザイナーとなって制作し始めたジャケットの原型にもなった。数々の仕事を通して育まれた鋭い感覚は、アパレル業界で市場が求めるものとは何かを見極めることにつながった。そして、より広い世界に向けて発揮されるようになる。米国やインド、日本と当時のイタリアではあまり馴染みのなかった国々からより良い製品を選びぬき、リナシェンテ百貨店に提案するのがアルマーニ氏の仕事になっていった。

 

 アルマーニ氏の仕事ぶりは周辺の知るところとなり、交友関係にも影響を及ぼしていく。アドリーナ・ボッティもその一人。彼女は同氏を気に入り、ニノ・セルッティに紹介した。セルッティは新たに売り出そうとしていたメンズブランド、ヒットマンのデザインを担当するアシスタントを探していた。当時、セルッティの名声は高く、初めてパリに進出したイタリアブランドでもあった。ただ、一般的なメンズアパレルは定番化したデザインばかりで、富裕層にとってはテーラーでオーダーするしか選択肢は無かった。セルッティはアルマーニ氏を面接する時、何種類かの生地をテーブルに並べ、一番好きなものはどれかと尋ねた。同氏が選んだものはセルッティの好みと一致。それが決め手となり、採用が決まった。

 

 同氏はヒットマンのメンズウエアのデザインに携わり、同社で1970年まで8年間を過ごした。この時、メンズスーツの既成概念と内部構造を取り払うことになる。ボタンの位置をズラし、肩パッドを薄めにした。ソフトで着心地が良く、若々しいイメージのメンズジャケットを創造したのである。また、広告制作にも挑んだ。長髪の男性モデルを撮影したが、髪に隠れて顔は見えない。キャッチコピーは「ヒットマン・バイ・アルマーニ」。写真には肝心の服が写っていないが、当時とすれば全てが革新的だった。広告キャンペーンは大成功し、アルマーニ氏の名前を一躍有名にした。

 ファッションは特権階級が選り抜くものから、できるだけ多くの人を着飾らせたいという欲求に移っていった。高級既製服=プレタポルテの到来である。アルマーニ氏は、デザイナーとしての腕を磨き、人間としても成長していった。71年にはフィレンツェのメーカーの依頼を受け、初めてレディスファッションに挑戦した。ラコステと同じような生地を使ったシンプルで清楚な服。ショート丈やロング丈にバウハウスのスタイルを取り入れ、サンドレスを思わせる襟ぐりには細かい計算を宿した。また、サンプルを取引先に見せる時は、自分がデザインした商品に対して迷いを感じさせず、的確に発言するなど使命と責任をわかっていた。

 

 時代は前後するが、1966年、アルマーニ氏は一流建築事務所に勤める建築家、セルジオ・ガレオッティに出会う。同氏より10歳も年下だったが、情熱的で他人を感化する性格だと知った。同氏は彼の魅力に気圧され、ビジネスパートナーとして歩み始める。1970年初め、同氏はセルッティを去り、二人でミラノのヴェネツィア通りに小さなオフィスを構えた。ヒットマンの仕事を継続する一方、いくつかのブランドのアドバイスも手がけた。ガレオッティがマネジメントを担当し、同氏がクリエイティブワークに専念する。こうしてジョルジオ・アルマーニというブランドは少しずつ形になっていった。

 

 

100ドル以下で買えたジャケットの衝撃

 日本でのアルマーニ評価は高級ブランドのイメージが付き纏い、1980年代後半の好景気に突入すると「バブルの産物」のように捉えられた。本当は他のブランドにないグレージュの色合い、柔らかでありながらこしがある生地、肩パッドを薄くしたナチュラルショルダーや独特なシルエット。そこを評価して欲しかったのに、日本では成金趣味的な受け取り方ばかりだった。確かにファーストラインのジョルジオ・アルマーニはジャケットでも20万円以上で、一介の会社員に出が出るような代物ではなかった。価格を下げたエンポリオ・アルマーニは何とか手に入る程度だったが、コストを上げた素材が使われていることで、ジョルジオのイメージからは少し外れた。本質を求める層にはやはり抵抗があった。

 

 アルマーニがブランドとして成長・発展する一方、アパレル業界に変化が訪れているのも確かだった。アルマーニ氏は「メイドイン・イタリーを生産という意味で捉えるなら、国内に集中している生産体制に困難と危機が訪れるのは時間の問題。生産構造を変えるために必要な努力を怠ってはならない」と、メディアの取材に語っている。競争の波がイタリアに迫っていると感じていたのだ。事実、縫製・加工に時間もかかる紳士服は工賃に左右される。だが、中国やルーマニアでは10分の1、20分の1のコストで生産できるようになった。他にもスペイン、オーストリア、ハンガリー、ウクライナなどにも生産拠点が作られた。イタリアには小規模なメーカーが細々と残るくらいではないかと言われ始めた。全てが根本から変わり始めたということ。国も、人々も、精神も、ファッションも、そしてモードの考え方もである。

 

 それでも、ジョルジオ・アルマーニはプレステージ性の高いブランドとして維持しなければならない。価格競争に巻き込まれれば、消え去る運命を辿るのは目に見えている。しかし、アルマーニ社という会社や取引先は存続させなければならない。デザイナーも経営者も難しい判断を求められた。そんな時、アルマーニ氏は母親から批判の言葉をかけられた。「ジョルジオ、そのベージュは全部忘れた方がいいわ」。同氏にとっては鋭い指摘だったが、母の評価は正しかったと認めている。アルマーニの伝統色、グレージュは他の色が使われるときでも存在していた。ただ、限度をギリギリ超えないルールのなかで、色も微妙に変化していく。それは新たな挑戦の一歩手前で立ち止まるという感性の余白でもあった。

 

 1990年代に入ると、アルマーニグループは戦力強化に注力。売上げアップよりもイメージを確立することに集中した。広告展開もその一つ。アルマーニ氏は早くからその重要性を見抜いていた。80年には創業10周年を記念し、地元紙10ページにインタビュー形式の社史を出稿。週刊誌の広告スペースをジャックしたこともあった。2000年代ならともかく、この時代には全く斬新な手法だった。90年代には社を挙げて広告戦略を強化し、世界的なモード誌、週刊誌&日刊紙の広告欄を丸ごと使って宣伝した。街頭広告でもアルマーニのビジュアルが露出した。ミラノのブロレット通りの一角に掲示されたビルボードがそれだ。エンポリオ・アルマーニの広告下は人々の待ち合わせ場所にもなった。ニューヨークのタイムズスクエアで見られたカルバンクラインの下着の巨大パネルにヒントを得たものだった。

 広告展開によってアルマーニのブランド力は格段に向上し、認知度も高まっていった。アルマーニ社はニューヨーク、パリ、東京などの主要都市に旗艦店を展開し、次々と顧客を獲得。その中にはセレブリティ(著名人)もいて、彼らはこぞって着用した。オスカー俳優ではケビン・コスナー、トム・ハンクス、アネット・ベニング、ジョディ・フォスター。最近では役所広司もアルマーニを纏った。エリック・クラプトンはアコースティックアルバム「アンプラグド」のカバー写真でアルマーニのソフトなジャケット姿を披露。そのスタイルで1990年のツアーを敢行した。2016年米大統領選のヒラリー・クリントン民主党候補がニューヨーク州予備選挙の勝利宣言を行なった時に着ていたジャケットもアルマーニだった。

 

 一方、アルマーニの人気は模倣を生んだ。米国のバイヤーたちはこぞってアルマーニの作品をコピーした。それに対し、アルマーニ社はテーラーのようにディテールにまで繊細な技術を施し、個性的でコピーが難しい服に仕上げていった。簡単に再現できないテクニックを駆使することで、違法業者を締め出そうとしたのである。アルマーニ氏はそれを義務感だと語っている。アルマーニの服を選ぶことで差別化を図る顧客に対してのそれ、そしてアルマーニ氏自身と会社に対するそれだった。クリエーションは独占していきたい。だが、営業戦略的には大量販売したい。二律背反するテーマは、アルマーニ氏のような卓越した創造力を持ち、ビジネスでも成功したデザイナーにも突きつけられた。

 

 ファッションを消費していくことに歯止めがかからず、ブランドは人気を背景に価格が釣り上げられていく。アルマーニは100ポンドもするジーンズを売っている。カルバンクラインもディナージーンズという高級カテゴリーを創造した。メディアは服作りの本質を見ようとはせず、わかりやすい価格だけを論って批判する。アルマーニ氏は次第にラグジュアリーという形容詞が使われることに嫌悪感を抱いていた。しかし、怯むどころか、オートクチュールのラインまで立ち上げた。自ら求めてここまでに達したわけではなく、偶然に偶然が重なって自分が処した環境によって育てられ、キングオブミラノと呼ばれる頂点に立った。齢61歳。全くの遅咲きというか、大器晩成。むしろ、一流は環境で育まれることを証明した。

 1990年に入り、アルマーニグループは連結売上高が約4000億リラに到達。利益も600億リラを計上した。もちろん、会社が大きくなっても事業を維持していく上では、ブランドのポートフォリオも重要になる。プレステージからボリュームまで。それぞれの収益のバランスを整え、多層的に組み合わさってこそ、会社は発展していく。アパレル業界に押し寄せたコスト競争やグローバル化の影響は避けられない。だからこそ、常にあらゆる人々の感覚を先取りし、トレンドや消費に影響を及ぼす社会の変化を直感しながら、対応していく。アリタリア航空のCAの制服、サッカーイングランド代表の公式スーツ、イタリア五輪代表の公式ウエアをデザインしたのもその表れだろう。と言うか、それがアルマーニ氏の真骨頂なのだ。

 

 ボリュームゾーンへの進出はアルマーニ社の新しいフェイズでもあった。1991年、ニョーヨークのSOHOにアルマーニ・エクスチェンジ(A|X)の1号店をオープン。その後も郊外SCなどに40店を立て続けに出店した。ミラノのフィナルテ社とアルマーニ社の支配下にあったシミント社がイタリア製の生地などを利用し、アジア諸国で生産したカジュアルウエアを販売。オープン当初はTシャツやジーンズが主体だったが、シャツやブルゾンなども増えていった。1994年冬、SOHO店に展開されていたジャケットは、アルマーニの定番でもあるサンドベージュで、イタリア製の生地を使ったナチュラルショルダーでソフトなシルエット。見事にアルマーニの世界観を再現していた。価格は99ドル。当時は円高で1万円を切っていた。

 アルマーニ社は1989年にシミント社の株式を20%取得し、94年に支配下においていたが、同社の経営や組織上での問題が解決できないままだった。結局、米国おけるシミント社の投資コストがアルマーニグループ全体の収益を圧迫したことで、グループとパートナー関係にあったシンガポールの王グループに米国におけるA|X店舗の商標を譲渡しなければならなくなった。米国でのA|X事業は大成功し、アルマーニ社はシミントの雇用と小株主の利益を守ろうと努力したにも関わらずだ。成功体験を重ねてきたアルマーニ氏にとっては、初めてとも言える挫折だった。同時に信じられるのは自分だけだということを学んだ。

 

 ただ、A|Xがアルマーニテイストを持つカジュアルウエアをこなれた価格で販売し、発展させていくという新路線を軌道に乗せたのも事実だった。そう考えると、衣料のジョルジオ、エンポリオ、コレツィオーネ、ジーンズ、A|X、EA7(スポーツ/五輪イタリア代表の公式ウエアにも採用)。衣料以外のビジネスではジオ(フレグランス)、カーサ(インテリア)、レストラン、ホテル、ドルチェ(チョコレート)と、多層的な構成とカテゴリーの拡大。アルマーニブランドをより強固なものにしているのは間違いない。しかも、アルマーニグループは非上場企業である。短期で収益を上げリターンを得たいファンドや投資家の思惑に左右されることなく、中長期的なビジョンのもとで経営を維持することができた。

 衣料、雑貨、インテリア、飲食、不動産。業種、手がける事業はバラバラでも、それらは全てアルマーニ氏の感性で形作られた点では共通する。目指すゴールはいったい何だったのか。いくつかの事業を持って、ヒットする商品やサービスを生み出す。だが、ブランドの世界観を統一できるものだけのものに絞る。それが可能だったのは、株主の意見に左右されない非上場企業だったからかもしれない。アルマーニ氏の死去に伴い、グループの行く先は変わろうとしている。生前、アルマーニ氏は遺言で、同氏が保有していた株式についてLVMHグループ、同グループ傘下のエシロール・ルックスオティカグループ(眼鏡の企画製造、販売を手がける)、ロレアル(化粧品)を売却先の候補に指名していた。

 

 死去から数ヶ月が経ち、今後のアルマーニ社の具体像が報道されるようになった。エシロール・ルックスオティカグループは、アルマーニの株式取得の準備を整え、同グループがアルマーニ財団と相続人に買収を申し出たという。アルマーニ氏自身が遺言で同社の名前を明かしていたのだから、アルマーニグループは同グループの元で再建の道を歩んでいくと思われる。ただ、遺言では継承開始から18カ月以内にグループの株式15%をLVMH、ルックスオティカ、ロレアルのいずれかに優先的に売却し、3~5年目には同じ買い手に30~54.9%を売却するか、5~8年目の間にイタリアもしくは同等の市場(ただしイタリアを優先)への上場を検討するかを選択できるとされている。

 

 デルオルコ=アルマーニ財団会長兼ジョルジオ アルマーニ取締役会長は議決権株式の40%を保有する。また、財団は上場後もジョルジオ アルマーニの支配権を確保するべく、株式の30.1%を保有することになっている。だから、経営権の掌握や新たなデザイナーの起用などが早急に進むとは考えにくい。少しずつ変化していくのではないだろうか。ただ、グレージュといった独特の色合い。肩パッドや芯地を外したソフトな仕立て、ボタンの位置を低くし、ラペルの幅も狭めたアンコンなデザインは、これからもずっと残して欲しい。アルマーニを愛してきた多くのファンもそう願っていると思う。

 

 ※当コラムは2010年ごろからGoo Blogにて執筆をスタートしました。ですが、25年11月18日でサイトのサービスが終了し、Amebaへの引越しを致しました。過去14年にわたる月別アーカイブは、2011年から併載していますlivedoorブログ(http://blog.livedoor.jp/monpagris-hakata/)でご覧いただけます。