最近、YouTubeを見ているとキャンプや野営、ブッシュクラフトなどの動画を上げる人が益々増えて来たように思う。これがブームと言えばそれまでなのかもしれないが、私から言わせてもらうとほとんどのキャンプ動画はお飯事のように見えて仕方がない。


そんな私も世界のトップアルピニストや南極を横断してしまうような冒険家やアラスカの自然を見事に写真にとらえてしまうネイチャーフォトグラファーから見ればガンダムに一瞬で殺られてしまうザクのような存在にしかない。


そんなザクの私は小学校2年生の時、ボーイスカウトに入団した。集団行動が苦手だった私を父と母が心配してまだ小さかった私をボーイスカウトに入団させたのである。


まあここまでなら良くある話かもしれないが笑えるのはここからだ。私の入団した隊は静岡県のかつて清水市にあった清水10団という隊だった。隊長は学校の教師をやっていてとても厳しい人だった。ただその厳しさと言うのは半端ではなく只者ではなかった。実は私たちの隊長はなんとサバイバル好きのミリタリーオタクだったのである。今ではブッシュクラフトという言葉があるが40年前の時代はそんなゆるい感じのアウトドアはなかった。私は自衛隊には入ったことがないので詳しくはないが、今思えば私がいた清水10団はガチ軍隊のようなサバイバル集団であったことは確かである。


今のボーイスカウトはどうなっているか知らないが、私の隊はとにかく良く歩かさせられた。たとえば夏山に行くと一日20〜30キロ歩かさせられたあげく、ゴールはキャンプ場や研修施設ではない。山道の途中にある熊笹などの藪の中での野宿であった。それもテントなしだ。熊笹を倒しそれをマットがわりにしてシュラフだけで寝るのだ。恐怖の一夜を過ごし次の日はまた日の出と同時に歩き始め、再び夜は野宿なのだ。食事はおにぎりやカンパンだけ。水は川で汲む。そうして最終日はやっとキャンプ場に到着してボーイスカウト恒例のカレーを作り、夜はキャンプファイヤーで歌い、踊らされるのであった(笑)


当時、小さかった私はキャンプとは歩き疲れてただ藪の中で休むこの野宿のことを指す言葉だと思い込んでいた。

しかし私たちの隊の異常性を知るにはさほど時間を必要としなかった。ボーイスカウトでは年に2回ほど他の隊と合同でオリエンテーリングを競った。オリエンテーリングとはマップとコンパスを使ってフィールドに設置されたポイントを巡り最後にゴールするまでのスピードを競う競技である。


そこで各チーム(4〜5名ほど)にマップが渡される訳だが私たちの隊のチームにはどこから見ても地図には見えない謎の暗号化された記号と数字と矢印の紙切れだけが渡された。まるでゴールデンカムイの刺青人皮のような紙切れを片手に私たちはスタート地点からすでに遭難者であった。そしてオロオロしながら6年生の先輩がなんとか謎のマップを解読し、日が沈み空が真っ暗になるまでゴール目指して歩き続けた。


その時にとっくにゴールした他の隊のマップを見せてもらった。全く自分らのとは違う。普通に地形図ではないか。カラフルな地図にはしっかりポイントも番号が振ってありコンパスなんか必要ないくらいの情報量が書き込まれてあった。そうして隊の異常性に気付いた自分らだが何故かそんなボーイスカウトに7年も在籍していたと思うとゾッとする。ボーイスカウトを辞めたのは中学2年生の頃だがすでに私は渓流釣りにハマっており、週末には近所の釣り好きのおっちゃんに車に乗せてもらって山へ通っていたのである。


ボーイスカウトやミリオタ隊長の思い出話はその他、ふんどし事件とかビーチで宙吊り事件とか台風に飛ばされたテント事件とか腐るほど沢山あるがとにかく今思えば自分のアウトドアスキルはほぼその時のミリオタ隊長から教わったものだったのだ。


アウトドアのザクはそうやって生まれた。だがザクなのでめちゃめちゃ弱かった。学生時代は世界に目を向ける機会もあったが私は日本に留まることにした。目の前にある自然だけで満たされるちっぽけなザクだってことが自分が一番分かっていた。都会の公園に生える野草だけでも私にとっては大自然だった。


今では自分で車とカヤックを使って日本中の山野、海、川を回ってキャンプして釣りして狩猟までしてそれだけで私の冒険は尽きる事がない。世界にはすごい人がいっぱい居るけど私の冒険は私だけが知るべきことで人に見せる物ではない。あの時隊長から教わったのはただのロープワーク、ナイフワーク、アウトドアスキルではなく、自然の中で生きる生活の知恵と社会という険しいジャングルから自分自身を見つけ出す方法だったのではないかと40年も経った今頃になって考えている。