ケトル
お湯を沸かして何かを飲むとホッとします。2022年に書いたやつです。*********「ケトル」日本語教師という仕事を知った時教科書があって自分がいれば(技術を身につければ)仕事が成立するんだな「身軽でいいな」と思った。国境なき医師団や、理系の技術者になる能力が無くても国境を越えて食べていける。教科書は思ったより重かった。現地に行けば有るのは分かったけれど、お守りの役割と自分はこれで食べていくんだという決意表明の意味もあった。最初は基本の教科書を2冊持って歩いていた、初級ⅠとⅡその後、中級を持つようになるとアクティビティのネタ帳のような教科書をスーツケースに入れて赴任した。そのうち、ふと思った。現地で、現場で求められている事を知ってから、ある物で組み立てても遅くない。コロナ禍でオンライン授業を始めると対象レベルと持ち時間、求められていることとできることを考えて組み立てていることに気が付いた。紙の教科書が手元になくても怖いと思わなくなった。教歴が長くなるにつれ、教科書を持ってなきゃという強い思いは減ってもどこの国でも必ず最初にケトルを買いケトルが無いと落ち着かないのは変わらないことに気が付いた。ケトルのスイッチを入れてお湯を沸かし、インスタントコーヒーを飲んで一息つく。必ず生活の最初に用意するのにあまりこだわりはなく前の住人にもらったものだったり最初に入った用品店で売っていた物だったりもした。教科書と自分さえいたらやれるって思っていたのにやってみたら実際に一番最初に装備していたのは「ケトル」だった。仕事が楽しい時も、辞めたい時も時間が戻ることがあったとしたら、どうかまた同じ冒険を、と願う時もケトルでお湯を沸かしていた。自由であること、身軽であることは、孤独なことでもあってって言ってられるのは自分のことだけ養ってればよくてそれが可能な健康と気力があるからでここで言う「孤独」なんて自分で選んだ嗜好品が気に入らないんだよねって話しみたいで、おこがましいから口に出すことはできなくて誰かといるから孤独じゃないなんてシンプルなもんでもなくて。自分を好きで居てれる人と一緒にいても全く心ここにあらずになってしまうことだってあって人の輪の真ん中に居る時だって傍から見たら「楽しそう」に見えるのだろうなと思う日もある。誰かといるから寂しくない、なんてことはない。反対に、自分と居るのにその人の「心ここにあらず」を思う時だってある。そうした全ての瞬間、一緒にいたのは「ケトル」だった。ボタンを押すとお湯が沸く。お湯を沸かして温かいものを飲むと、その時は、全ての嫌なことや対峙せねばならないこと形容しきれない感情の渦全部が、食道を通る温かさと共に溶けていくからだと思う。私はよく「がんばってね」と言われるし、それが負担になることは無いけれどなかなか人には言えない。もう頑張ってるだろうなぁと思うから。言えない頑張ってと応援してるよを「温かいものでも飲んで」に託すことが多いなと気が付いた。*****************私は「温かいものでも飲んで」に、頑張ってるのを知ってるよを託しがちだけどこれがお酒だったり、甘いものだったり、手作りの料理だったり願いを託す「美味しいもの」にその人が出る気がちょっとします。留学生から「日本人は礼儀正しく丁寧だけど他人行儀で冷たい」という話を聞くと、確かにそうだなぁと思うこともあるのですが最近は「何か食べ物もらったことない?」と聞いてみたいなと思うようになりました。きっとどこかでもらってると思うの。大学生の頃、落ち込んでいた時に英語のネイティブの先生が話を聞いてくれ研究室を出ようとすると「It's up to you」(あなた次第)と言われました。その言葉から「あなたが自分で選択できるって私は信頼しているよ」というメッセージを感じ取り共感的に寄り添うことだけじゃないんだ、信頼って温かい……と思ったことがあります。今日本語を教えている現場では学習者と密な関係を築くことはない状況ですがコロナより前の時代、学習者に泣かれたり凹まれたりした時に「温かいものでも飲もう!」と言ってお茶や珈琲を淹れてたなぁってことを思い出しています。彼、彼女達の文化とは違う寄り添い方かもしれなくて、私にとっての「It's up to you」みたいな感じでこういう方法もあるのか…のような気もするしきれいさっぱり記憶からデリートされてるだろうなって気もしなくもないけれどああやって励まされたことがあったなぁ~と地球のどこかで誰か1人でも思い出してくれることがあったらそしてそれが彼らにとって思い出すと心が温かくなることだとしたら、とてもとても光栄だなと思ったりしています。