今日のお話の中でもっとも印象に残ったのは、「悟り」に関するものでした。
我々は「悟りを開く」という言葉をそれほど抵抗なく使用していると思います。
しかし、冷静に考えてみると、「悟りを開く」というのがどういう状態なのか、我々は良くわからないでその言葉を使っているように思います。
そもそも、「悟りを開く」という状態どどういう状態なのか簡単にわかるくらいなら、誰でも簡単に悟りを開けてしまっているはずです。
しかし、今日の大先生のお話を聞いて、少しだけ「悟りを開く」という状態がどういう状態なのか、論理的に理解できたので、紹介させていただきたいと思います。
まず、「悟り」の話をするまえに、「自我」についての定義を確認する必要があります。
「自我」とは、この世に存在するあらゆるものの中で、たった一つしか存在しないもの、というように定義するのだそうです。
人間ひとりひとりに、それぞれ「自我」が存在すると思いますが、この世に同じ「自我」は存在しない、すなわち、この宇宙に存在するものをその自我に見せた場合、自我は必ず見たもの・感じたものに対して順位づけを行うようにできており、その順位のつけ方が、人によって(=自我によって)違うと思います。

例えば、同じ年齢の子供を2つの異なる自我に見せた場合、その子供をかわいい、と思って高い順位にランキングする自我もあれば、それほど高くない順位につける自我もあるでしょうし、ましてやその子の親の自我などは、この世の最高位にランキングするかも知れません。
結局「自我」は、その見たもの、聞いたもの、感じたものを常に評価して、順位づけする作業を続けていることになります。
なお、その「自我」にとって極端に順位の低いもの、つまり興味のないものや関係のないものは、いくらその自我に与えても順位がつかない、すなわち「見えていない」状態になるそうです。
言葉を変えていえば、その「見えていないもの」がいわゆる「盲点」となるそうです。
「自我」は、その宿っている肉体には当然高い順位を与えるものだと思います。
その自我の宿る肉体が、食べ物を必要としていれば、それを満たすことがその自我にとっての優先度の高いこととなるのが普通だと思います。
そして、「悟りを開く」という状態ですが、これは、自我を消すことなのだそうです。
自我を消す、すなわち、入ってくるあらゆるものに対して順位付けをするのをやめて、すべてフラットにとらえるのが自我のない状態、すなわち「悟りを開いている」状態なのだそうです。
「悟りを開く」状態にはいると、自分の肉体に対する優先度さえなくなりますから、お腹が空いているだとか、どこかが痛いとか、そういう入力に対してさえもフラットな対応=動じない、ということになると思います。
当然、悟りを開いている状態であれば、自我のある時には見えていなかった「盲点」も見えることになります。
・・そのような説明を聞くと、なんとなく「悟りを開いている状態」というのがどのような状態なのか、なぜ落ち着いたイメージがあるのかわかったような気がします。
しかし、同時に、いかに「悟りを開く」のが難しいことなのか、思い知らされたりもします。
自分など、「悟りを開いた状態」とは全く対極の状態に今いることを痛感しますね。。
まだまだ、です。