亡くなった実父の口癖

「感情を凌駕するのは理屈だ。」


若い頃、父とぶつかってばかりいて、亡くなってからも、わだかまりが捨てられずにいた私ですが、この言葉は、私のポリシーになりつつあります。


結局、人と人の感情のぶつかり合いが争いを生む中で、人類が今現在、持ち合わせる解決策が法の支配なのだと思います。


時折、裁判を無慈悲だと批判する人がいますが、法律は無慈悲なものであり、無慈悲でなければならない理由があるのです。


刑法における敵討ちを含む私的復讐の禁止や、民法における自力救済の禁止は、感情を持ち込む限り報復の連鎖は断ち切れないとの理念から生まれたものであり、刑事裁判の判決は加害行為に罰を与えるためのものであり、被害者の敵討ちではないということなのです。


これに全ての人が納得できるとは思っていませんが、他者を説得するときに感情を剥き出しにして成功するのは、せいぜい泣き落としが成功したとき位でしょう?


理屈に基づいて行動することが出来れば、多くの争いが未然に防げるはずなのですが、残念ながら多くの国家や人間が欲という感情に惑わされて、理屈を暴力で破壊しようとしています。


それが中国の海洋侵攻であり北朝鮮のミサイル実験、そして構内での様々な法律を無視した抗議活動であります。


様々な抗議活動を行うに人に対して非礼だと言われそうですが、法律を遵守した上で、制度に則って行われる抗議活動は正当な行為ですが、法を守れなければ、行為の大小の違いはあっても原理は同じなのです。


理屈というのは、ことの大小ではなく、その行為の成否を問うものであるということが、感情を凌駕するという所以だと思っています。


国が行うから戦争で、個人が行うから問題無いというような考え方は理屈とは言えません。


理屈とは、誰が、いつ、どのようにやっても駄目なものは駄目と判断出来る基準であり、例えるなら、安全を問うた時、問われているものが、生活必需品や食料品であろうが兵器であろうが、判断基準が同じで無ければ理屈にはならないということです。


兵器と食品を同じものとするなというのが感情であり、物として同じ価値に置くことが理屈・・・と、なるのだと思います。


実父が言っていた、もう一つの言葉


「屁理屈だとか理屈っぽいと言うのは、理屈を唱えられない者の言い訳だ。」


かなり上から目線のように感じて、好きになれない言葉でしたが、様々な場所で、自らの主張が論破された後に、まるで論破されたことを無かったことみたいに同様の主張を続ける人を見ていると、その意味が理解出来るような気がしています。