「片手一杯の自由を得ようと思ったら片手一杯の汗を流し、

両手一杯の愛を得ようと思ったら両手一杯の愛を流さなければならない。」


私が好きな言葉です。


私にとって自由とは、「鋼の錬金術師」というアニメで基幹を成す考え方である「等価交換」によって得られるものであり、節度あるモラルの中で他者に与える迷惑が許容される範囲内で行える行動だと思っています。


等価交換といのは、自由という権利を得るために必要な義務を果たすということであり


節度ある自由とうのは、競争社会である以上、他者の迷惑や損失を招く行為は一定程度は認めざるを得ないと思いますが、それ以外は他者に被害を及ぼさない範囲で、好きなことが出来るというのが、私の考え方です。



中国や韓国の歴史認識問題は自らの非を認めて謝罪しろという内容が、日本側が主張する戦後賠償は決したという過去の賠償に含まれない内容だから、認めれば金にできるという思惑が見え見えであり、日本側はそれを認められないといことが問題なのでしょ?


反省がないとか言っていますが、日本が謝罪し戦後賠償を行ったことは反省がないことになるのか?

自国民の鬱憤を国外に向けるために、戦勝国たる自国より復興している隣国をターゲットに自国を潤そうとすることが正当な行為なのかという疑問が、私にはありますし、この問題を考える日本人の多くは疑問に思っているのではないでしょうか?


実際、中国はアジア諸国に対して、領土、領海で難癖をつけて経済的侵略を繰り広げていますし、韓国は自国の虐殺行為はベトナムに謝罪したから良好な関係が築けていると言っていますが、韓国と日本の間で良好な関係があったからこそ、アジア危機の回避に繋がる支援を受けられたであろうし、少なくとも1980年位までは、今ほど関係悪化していませんでした。


特に酷くなったのは、自国の選手がワールドカップで日本批判を繰り広げた行為を正当化するために、旭日旗をやり玉に挙げてからじゃないでしょうか?


それまで、アメリカも含めて合同演習などもしていますし、旭日旗批判なぞ無かったとおもいますがね・・・。


そして、それらを煽った朝日の誤報は、明らかに自由の範囲を超えたものだと思います。


朝日新聞の記者が殺されたこと、フランスでの風刺画に対するテロ、許されない殺人行為ですが、その根底に、逸脱した表現の自由があることは否めないのではないでしょうか?


フランスの風刺画に対しては、批判しているマスコミ関係者も世界的に多いと思われます。


殺人行為を肯定するものではありませんが、他者を侮辱するような表現が、私達が教科書で学んだ風刺画のように、歴史の1ページを著すものになうとは到底、思えないのです。


日本に対して言うならば、足が3本になった人間を描いた福島を揶揄する風刺画を許すことの出来る日本人は、多くないと思いたいのですがね。