人生において、何が正しいのかは、人の価値観によって違うというのは、多くの人が感じていると思います。
正義、常識・・・これも、同様に語る人によって違うものですから、絶対的なものではないはず。
今、自分選んだ道が、正しいか、正解なのかは、恐らく人生が終わる時に、自己採点をすることになるのだと思っています。
だからこそ、自分に嘘をつかずに生きていたいと思うのです。
子供じみているのかも知れませんが、結果が全てという評価の方法が、人を傷つけたり、おとしめたりしても、数字を出した者が正しいといような風潮を生み格差を広げている。
そんな気がしてならないのです。
人と争い勝つことばかりを教えられて育った子供が、負けた時どうなるのか、考えているのだろうかと思うことが度々あります。
お金がなければ生きていけないけど、お金だけでは生きていけないと思えない限り、果てしない欲望に囚われて生きていかねばならないと思うのですが、それも生き方なのですから、認めて行かなければいけないと思うのです。
自分が正しいと思ったら、そのように生きれば良い。
でも、それは人に強制してはならない。
私は、それが良い事か分からないのですが、少数派の生き方を選択した人を認めろとは言いませんが、責めることも不必要な行為だと思うのです。
そういうのも有りだと思うけど、自分はしないなとスルーしてあげる優しさが欲しいと思うのです。
少数派の生き方を選んだ人間は、見本が少ないのですから不安を抱えて生きているはずですし、茨の道を歩くこともしばしばあるはずです。
自分の行為は自分に返るのですから、そっとしておいてあげても良いのではと考えています。
少数派の生き方を選択した人間は、異端視されることも覚悟しなければならない・・・これは自己責任だと思うのですが、だからと言って、それを責めても良いという理屈にはならない。
そのような不毛な争い事が、大きな戦争の源にあることを理解し、分り合えなくても、認め合えなくても、流していくような寛大さを持ち合わせたいし、多くの人に持ち合わせて欲しいと思います。
でも、それは違法の上に、自己の主張を通そうとする輩を認めるものではありません。
一部の環境保護活動家や団体の過激な行動は、主張を流すことは出来ても、その行為は流すことは出来ない、行為による影響の大小を除けば、テロリストと呼ばれる人と省庁の一部を占拠して主張を通そうとする人々は、違法行為によって自らの主義主張を通そうとしている点では変わりが無いと、気付いて欲しいものです。