「誰かの為に。という嘘。」
ある方のブログでみかけたタイトルが、心にひっかかり、コメントをしたあとに、ゆっくり考えてみました。
まず内容の概略を説明しないといけないと思うので、そこからになってしまいますが、私の理解したところでは、
「誰かの為に。」と言いながらの他者への行為は、結局自分の為なのだから、「誰かの為に。」と言わずに、「自分の為だ。」と言ってやれば良い。
概要は、こんな感じかな?これだけ書くと、厳しい言い方と誤解をされそうなので説明を続けると、「誰かの喜ぶ顔が見たい」とか「誰かに必要とされたい」とか、「誰かに・・・」という行為は、「誰かに喜ばれて自分が嬉しい」、「誰かに必要とされて自分が嬉しい」と言うように、最終的に嬉しかったり、喜んでいるのは自分なのだから、それは自分の為にやっているのではないのか?という疑問から端を発している話なのです。
重要なのは、この方が、何故、そのような疑問を持ったのかという点で、ここからは記事を読んだ、私の推測になるのですが、「誰か喜ぶ顔が見たいからという理由で自分を犠牲にしたのに、感謝されなかったときに怒る人も残念ですよね?」という、一節があることからも、そのような体験をなされたということ、そして、周囲の人は、ことさら、それをアピールすることなく、当たり前のこととしてやっていたようで、「誰かの為に。」と言うのは「、国家天下の為に。」と言いながら、自分の得票の為に動いているように見える政治家などを筆頭に、「嘘なんじゃない?」、自分の為でしょ?と言う感情の表出が、この題名なのかなと思いました。
私の解釈では、こんな感じですが、これはこれで間違いではないと思うんですよね。
現実に、そのような人は、存在しますし、ここまでに何人も、何十人も見てきましたから・・・(笑)
でも、問題がないとも言えないし、全面的な肯定が出来ないのも、事実なんですよねぇ。
「情けは、人の為ならず。」と、昔から言うように、他者への情けは、巡り巡って自分に戻ってくるから、人の為では無いという教えがあるように、他者の為に何かをするということは、結果として自分に戻ってくるならば、自分の為という解釈はできるのですが、自分の為になるのは結果であって、動機やプロセスという原因では無いということを捉え切れていない点で、問題がないとは言えないと、私は考えます。
ボランティアに携わる、私が知る人々は、感謝されなくても怒ることはないですし、不特定な誰かに対して活動している人は、感謝の言葉など聞く機会も、滅多にないですからねぇ・・・勿論、自己満足でやっていると言われれば、否定は出来ないのですが、自分の為だと思ったら出来ないけど、他者(見知らぬ誰か?)の為だと思ったら出来ることは、多いのです。
育った環境の条件によっては、自分に自信が持てなくなったり、自分を好きになれなくなってしまったりする子供達は大勢いますし、自分の存在価値を見失ってしまった人に、自分の為に頑張れと言っても、頑張ることは出来ないし、自分の為なら、何もしたくない・・・生きることすら放棄しかねない状況の人が、その拠り所となるのは、他者との関係において、自分の必要性、存在価値を見出すという、相対的存在感とでも表現すれば良いのかと思いますが、人生の張合いとでも言うべき物が必要になります。
それは、間違い無く「誰かの為に。」が、スタートであり、結果が「自分の為。」であったとしても、結果を求めて行動することが出来ない行為であり、「誰かの為に。」と、頑張っている自分を褒めて、好きになれたとしても、「誰かの為に。」という思いが無くては、成立しない行為だと、私は感じています。
ま、簡単に言えば、理屈なんていらないし、必要の無い、「誰かの為に。」という、衝動が突き動かす世界があり、そこに集う人々にとっては、自分の為に出来ないことが、誰かの為には出来てしまうだけの事実があるだけなのだと思います。
この方も、自分を犠牲にして誰かの為に、何かをすることを否定している訳では無く、それは、周囲の人が当たり前のようにしていたから、当たり前の行為なのではないか?と、感じておられるようでしたが・・・
「当たり前」と言える行為はを「当たり前」と言って良いのは、それを行っている本人だけで、他者はそれを当たり前だと思ってしまっては駄目なのでは無いでしょうか?もっと言うなら、当たり前と呼べる行為自体が存在してはいけないのではないしょうか?例え、親であっても身を挺して子供を守るのは、本能であったとしても、それを当たり前だと感じた時に、人は感謝と謙虚な心を忘れてしまうものなのではないでしょうか?
逆に、感謝をしていたら「当たり前」とは、思わずに感謝をするのではないかと思うのです。
当たり前と言っている本人は、自分を犠牲にしてるなんて考えてもいないと私は思うのです。
犠牲にしていると思うから、相手に何かを求めてしまう、当たり前と言っている人ほど、相手に感謝を求めないのは、犠牲では無く、当然の行動との認識があるからだと思うのです。
犠牲だと思わずに、見返りを求めずに「誰かの為に。」という行為に、当たり前と思わず感謝をする謙虚な心、これが、人間関係の理想形の一つなのでは無いでしょうか?
このような書き方をすると、結局、感謝して欲しいのでしょ?と、思われそうですが、決してそうではなく、感謝を忘れる程に、人は贅沢になっていくと、私は考えています。
食に窮していた人は、食に感謝出来ますが、三度の食事を当たり前と思っている人は、食に対する感謝が薄れていると思うのです。
だから、当たり前と思ってしまうことに抵抗を感じてしまうのです。
長くなりましたが、「誰かのの為に。」じゃないと、生きることすらできない人が存在し、その人に向かって、それは、自分の為煮でしょ?と、訊ねるのは、無自覚な悪意であると感じている私がいて、一つの言葉にムキになっているのは、一つの言葉の重みを知って欲しいと思うからなのです。
言葉は凶器になり得るのことを、もう一度、噛み締めて欲しいと思うのは、一つの言葉が、人の命を奪ってしまうことの怖さを知って欲しいのです。