終戦直後の話です。
国は空襲などで破壊された全国のあちこちの街を復興するために、戦災復興院(建設省の前身)をつくり、当時の建築家や大学の建築の研究にたづさわっている人を集め、各街の都市計画に参加するように伝えます。
その会議の時、参加者に自主的に手をあげさせたらしいのですが、広島の番になったとき、まだ終戦から1年後で「まだあの街には放射能が残っている」と信じられていたため誰も手を揚げなかったそうです。
そのなかで勇気ある2人が手を上げました。
1人は早稲田大学の教授の武基雄(たけ もとお)さんと
当時東京大学の助教授であった丹下健三さんでありました。
広島と呉はセットで、あったようです。

そして2人は広島に拠点をうつすのですが、まだ原爆から1年しかたっていない街は、まだガレキの山であり、死臭もただようような、巨大なゴミ箱のようであったと言い残しています。
地図や測量図のような資料は広島も呉も焼けて残っておらず、広島においてはどこが道路でどこが家の敷地なのかの区別もつかないほどで、
まずとりかかった仕事はガレキの街をくまなく調査し、地図づくりからはじめたそうです。

一応担当としては広島市が丹下さん、そして呉市が武さんだったのですが、同じ部屋でもあるので、どちらともが2人で話合いながらまとめたそうです。
そして都市計画員会で発表することとなるのですが、広島市はかなり採用してもらったが、呉市はあまり採用してくれなかったそうです。 
しかし全然不採用というわけではなくて、ところどころ呉市も丹下さんと武さんの提案したところが残っているらしい・・・・

そしてその後、広島市主催の「広島平和記念公園」のコンペに参加し、140点を超えるなかから、1位で入選という形で結実します。
他の設計案が、公園内のみを視野に入れた計画案にとどまったのに対して、丹下は広島市を東西に貫く平和大通りと直交する南北軸線上に、慰霊碑と原爆ドームを配し、
その計画案の都市的スケールが、コンペで高く評価されました。
広島の復興計画において、この市街地を十字型に貫く都市軸を通したことで、第二次世界大戦後の広島市の骨格を作り、
また、当時は単なる一廃墟に過ぎなかった原爆ドームにスポットライトを当て、中心性を持った都市空間として広島を再建する上での、
ランドマークとしての「原爆ドーム」を発見したのは、事実上、丹下さんであると言うことが出来ます。
また慰霊碑などのデザイン、資料館等の文化施設の構想、その軸線上に伸びるスポーツ施設や、子供の図書館、博物館、プールや美術館などの施設の構想も提案しています。



このころの丹下健三さんさんの言葉が残っています。

「終戦直後、戦災復興院(建設省の前身)の委嘱をうけたとき、私は率先して広島担当を申し出た。
当時、草さえも一本も生えぬであろうなどとうわさされていた広島だったが、
私はたとえわが身が朽ちるとも、というほどの思いで志願した。
楽しい高校生活を送った土地であると同時に、父母をほぼ同時に失ったそのときに、
大難を受けた土地であることに大いなる因縁を感じていたからである。
それから昭和24年(1949年)、広島市主催のコンペで一等に入選するまで、
私たちはさまざまな側面からこの都市のあり方を問うては答えながら構想を固めていった。」


この「たとえわが身が朽ちるとも」には、仕事に対する情熱的な想いもあったんでしょうが
実際に街には放射能が蔓延しているといううわさがあって、「生命の危険を承知で」という意味もあったんだなあと・・・

丹下健三さんは親は今治ですが、高校は広島高等学校(今の広大及び附属)にいて高校の図書館でコルビジェの作品集を見て感銘をうけ、建築家をこころざしています。
高校時代は繁華街であった中島地区(今の平和公園)によく遊びにいっていて色々思い出があったそうです。