高校まで,とにかく社会科(日本史)が好きで

将来の夢は,社会科の教員だ!と信じて疑わなかったのだが

大学に入った途端,急速に興味を失った。

 

なぜだろう?

1 大学に入ると,社会科の免許を取れるせいか

 「社会科好き」が結構いた。

 自分と同じか,それ以上に詳しい人もいる。 

 その中に完全に埋もれて

 高校時代までのアイデンティティが失われた,と感じるようになった。

 

2 しかも,社会科を教えるとなると,地理も,政治経済にも

 詳しくならないといけない。

 途端に面倒に感じるようになってきた。

 

3 大学で学ぶ,東洋史,西洋史,日本史,地理学,倫理学,国際法などが

 概論的だったり,マニアックだったりと

 すごく面倒に見えた。

 

4 「大学で学ぶ」ということよりも

 「大学では遊ぶ」ということに重点が置かれるようになる。

 漫画やドラマで,大学生が堕落した生活をしたり,

 バイト三昧だったり,授業をサボりまくりだったり・・・

 という描写が多かったがが,そういうのに憧れていた。

 

5 そもそも,「学校教育」とりわけ「学校」という場が

 本質的には好きではないのかもしれない。

 大学時代は,かなり懐疑的に学校現場というものを見ていた。

 

結果,高校時代の勉強に対する態度,大学入試前の悲惨な状況を

ここでまた,すっかり忘れてしまって

また同じ過ちを繰り返すのだった。

 

後に苦労することになるのだった。

 

一方で,高校までの教科にないものに興味がわくようになる。

心理学や社会学といった領域。

どうして人は,偏見とか誤った認識をもつのか?とか。

消費社会論とか。

 

後に,卒論を書くテーマとなり

大学院に進学する際の基準になったりしていく。

 

だから,大学時代,院生時代は漠然と「社会科教員になりたい」と思っていたが

実は最も「社会科教育」から遠ざかっていたいた時期でもある。

 

そのツケは

教員になって1年目にも影響を及ぼすとともに

採用試験(中学社会)を受験する際の態度にも大きく影響を

及ぼすことになった。

 

取り返すのに時間がかかった。

 

そう考えると,

将来の職業「社会科教員」という目標なんて

かなり怪しいものだったのだろう。

 

「身近にあるもの」になりたかっただけなのだろう。

中学校時代は,中学校社会科の教員になりたいと思い,

高校時代は,高校日本史の教員になりたいと思い

大学時代は,よく分からなくなり

院生時代は,心理系の仕事・・・をする気にはなれず

中学校教員時代(前半)は,100倍の倍率なんて

                  どうせ受からないだろうと,ろくに勉強せず・・・

 

結果,受かりそうな(といっても当時は氷河期だったので,小学校でさえ10倍!)

小学校教員に転身することになる。

 

要するに,

「社会科は好きだけど,徹底的に追及するほどでもない」

わけで。

 

途中で挫折する性格は,小学校のような多岐に渡る方内容の方が

気分転換になって,よかったのかもしれない。

 

もっというと,アイデンティティを確立できるかどうか,なのかもしれない。

今,小学校教員をしていて「社会科が得意です!」というと

割合的には少ない。

だから,職場では重宝される。

どんどん前のめりで仕事ができる。

 

しかし,社会科の人達の集まり(研究部会とか,そういうオフィシャルな場)で委縮するのは

そういったアイデンティティが示せないからだろう。

 

これは,「私はベーシストである」「タンバリンが上手である」というアイデンティティと同じだ。

どちらも,できる人は限られている。

だから,職場では「珍しい」と認知され

大した技がなくても

なんかできるような気がする。

どう考えても,ピアノが得意な人の方が,音楽センスが高いはずなのだが

それよりも,目立てる。

 

大学時代から院生時代に,学校教育や社会科教育にはあまり関心をもたなかったことは

その後の人生で「負の遺産」となった。

心理学や社会学に興味をもったことは

人生の幅を広げるために役立ったが

学校教育を職業とする者としては

やはり早い段階でふれておくべきだった。

 

大学時代に,現場でボランティアをするとか

院生時代に,心理学を専攻するのではなく

社会科教育を専攻するとかしておけば

ずいぶん違った人生だったことだろう。

 

しかし,それは選ばなかった。

もしかしたら,今

その時代にタイムスリップしても

やはり,「学校教育」から一線を引き

社会学,心理学を研究するという

同じ結果を歩むかもしれない。

 

だって,その方が,楽しそうだから。

こうなると,そもそも,「学校」という場所が好きではないということにも関係があるのかもしれない。