ゾウとアリの戦略論
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ピザソースから始まる朝と料理と右脳の特訓

本日で期末テストの最終日だ。
土曜日にテスト科目が1つだけ入っていたので最後にこれだけがぽっつんとあった。

ちょっと早起きしたから今からピザソースを作ってオリジナルピザを作ろうと思う。

ダニエルピンクの本を大前さんが翻訳してたので買って読んでみたけどもっと内容はぎっしりとした感じだと思ったが、読んでみれば拍子抜けした感じのラフさが残る本だった。かなり推して推薦していたような本だったから、内容を知らずに僕的に言えばもっと経営のマニュアル本とか参考書に近い内容か何かかな~と思って読んだだけあって読んでみるとギャップを生じた。

ハイコンセプトというタイトルの本だが、右脳をテーマにして書かれた本であって、これからのグローバル化した現代においては、左脳の論理型一片の分析型人間は先進国においての需要は激減していくという内容だった。その為、左脳的能力にプラスαで右脳的思考を持った感受性高く、そして創造的なタイプの人が必要とされるということだった。

もともと料理は趣味であるが、そのような経緯からで朝から右脳の特訓を料理で創造しデザインしてみようと思う。




※ダニエルピンクがハイコンセプト社会における六感の重要性を説いております。

天下無双

"天下無双"、この言葉は男の僕にとっては憧れだ。

宮本武蔵のマンガ、「バガボンド」を読んでいたのだが主人公の武蔵は小さな時から剣を振り、天下無双を目指し、常に鍛え自ら戦いに身を向け強さを追い求めた。ただひたすら剣を極め続け、当時の天下無双と言われた柳生石舟斎宗厳、宝蔵院胤栄に出会い、その後、名門吉岡一門の当主だった吉岡清十郎、その弟伝七郎と戦い、武公伝によれば切り殺されたとかされている。その後、吉岡一門の面子をかけて70人で武蔵と戦った一乗寺下り松での70人対1人の戦いは凄すぎる。一乗寺下り松の戦いは武蔵の勝利となるが、その後は「天下無双とは何か?」、果たして今までの戦いは勝ったということになるのだろうか?と疑問を抱き始めるというのがバガボンドのマンガの流れである。

昨日の懐疑論やウィトゲンシュタインの論理哲学論考の言葉「語りえぬものについては沈黙しなければならない」といったように、天下無双というのはその形なくそして意味でありかつ量的な物を推し量れないのである。つまり天下無双とは、人が生きている限りにおいて終わりのない探求と同じであり、かつ武蔵のように強さというものがある一定の度合いを超えて質的変化をした時にその意味や意義は変化するのである。そしてその変化の点に立った時、人は悩み苦しみ、そして考えるのである。

以上の事から、マンガ「バガボンド」で学んだことは、「人は悩み苦しみ、そして考えた時、それまでの自分を否定しかつそれを認めなければ成長はしないのである。」ということだ。

人はその変化の点に立った時、それまでの自分を否定し自らを認めることで成長するということは、「成長には"否定"と"受け入れる器"が必要な条件である。」ということに言い換えられるのである。


しかし私は思う、人は"天下無双"を形あるものと思い込み、形ある強さを追い求めるのである。それは現代においては、名誉、金、権力などの欲である。それは人の性である。
では、「"天下無双"とは何か?」をあなたに問いたい。



※名曲だ。

論理学、最後のテスト「遠塔近塔型の懐疑論」

論理学は思いである授業だった。

今日の最後のテストは遠塔近塔型の懐疑論の「正体とは何か」についての議論に対する反論を述べよだった。

遠塔近塔型の懐疑論とは、遠い所から見た塔の形と近い所から見た塔の形って、どちらが本当の塔の形なのか?という懐疑論である。


つまり遠くから見たとき塔の形は丸い円形の形をしていた、しかし隣にいた友人が「丸くて円形の塔だって?、あの塔の本当の形は四角い形をした塔だよ。近づいて見てみなよ、俺が言っていることが分かるよ!」って言ったのだった。
そして、本当に近くで見てみたら四角い形をした塔だった。「なーんだ近づいたら本当の形が分かったよ!」という具合の話である。


しかし、ここで本当の塔の形は、近づいたら本当の形が分かったのだろうか?懐疑論はこれを疑ってかかったのだ。なせならば、山の形って遠くから見たら「あっ、山だ!」という具合に分かるが、実際に近づいてそしてさらに近付いてその山の目の前まで来たら、目の前には小さな岩と木があった。山だと思っていたものが実際に近づいたら本当の形が分かるっていうならば、近づいて見てみたら小さな岩と木があるが果たしてこれが山だと言えるのか?ということである。そして近い、遠いではものの本当の形を知ることができないのではないかということである。そして、「本当の形とは何か?」という事がこの懐疑論では、議論されるのである。


私がこの問題に対しての解答について、単刀直入に結論から入るとこのような懐疑論自体、形而上の事を探求しているのと同じで、この懐疑論の「正体とは何か」など全くの無意味だと述べた。
なぜならば、本当の形なんて真理か真理でないかなど初めからなく、その本当の形なるものは各人の主観によって決まるものであり、このような初めから本当の形などという定義ができないものを議論するのは間違っており、かつ無意味だということである。


ウィトゲンシュタインという哲学者の論理哲学論考のある言葉を引用して表現すれば、「語りえぬものについては沈黙しなければならない」ということである。


その昔、形而上のような事を探求し議論していた当時の哲学に対して、絶縁状を送ったような言葉であった。そんな哲学の探求はもともと、無意味なことで議論することなどないということだった。


私は、懐疑論でも同じようにそれを置き換えて表現し解答した。


専門は経営学なのだが、大学3年になった時から広く浅く科目を取ることによりその結果、経営学を深められるように全体として科目をとることにしたが、その中でとても印象的でかつ重要だと感じた科目が「論理学」と「社会科学論」であった。受けてみるまで良く分からんが何か役に立ちそうなぐらいだったが、1年勉強してきてこんなに大事な事を良く認識せずに生きてきたのかと思った。論理学も社会科学論も言われればそんなこと当たり前だとって思うような事だがそれを理解しやすく、細かく分解して教えてもらえたので非常にラッキーだった。知識、情報の蓄積という授業スタイルではなく、知恵を育み人を成長させる内容の授業だったと思う。



※この大学生活4年間があと数日で終わるが、僕の気持はこんな感じだった。最大科目数を履修し受けれる限度数いっぱいの授業を全て受けてきたし、図書館や食堂でもひたすら勉強して頑張ってきたつもりだったから、生活の心の中にぽっかりと穴が空いてしまったような気分だ。




季節遅れのHAPPY NEW YEAR!

年末からブログをさぼり、遊び、寝て、読書して、仕事をしながら大学に通うという生活で大学生活4年目にして最後の期末テストが来週にあるのに備えて、プラグマティズムなるものを理解しようと図書館に通った。

まあ、結局は「プラグマティズム」について分からなかったので調べたということだ。

「プラグマティズム」という考え方は、パースという不出世の偉大な哲学者が提唱した考え方である。彼は確か、数学学者の父のもと教育を受け、幼少から科学や数学などの才がある神童であった。そしてハーバードを卒業した後は科学者として測量士の仕事をしながら広範囲の多岐に渡る学問を研究した。1870年にジェームスというその当時、世に名前を知られた哲学者がパースのその「プラグマティスム」なる考え方を聞き、感銘を受けて1894年だったと思うがジェームズはその「プラグマティズム」という考え方を講演会かなにかで発表した。

「プラグマティズム」とは何であろうか?その提唱者であるパース自身、科学者でありその考え方が根本にある。それは論理学の真理とは何であろうか?という問いにそれまでの論理学の考え方を否定して再構築しなければならなかった。

それまでの論理学は、アリストテレスから始まりそれが根本の考え方であった。アリストテレスの考え方は3段論法があるがこれは下記になる。


【アリストテレス3段論法】

①人間は動物である
②動物は必ず死ぬ。
③ゆえに人間は必ず死ぬ。

つまり上記の例が示す通り、これが成立するものが真理であるということだ。これは3つの別々の角度から同じ視点で物事を定義し成立させているのである。以前にも記載したがこの法則では、①同一律、②矛盾律、③排中律、の上に成立している法則であり、それらが一つでも欠ければ論理の破綻を招く。この法則は、違う角度から同じことを言っているということである。これがアリストテレスの三段論法である。

このアリストテレスの考え方を否定する考え方が「プラグマティズム」である。つまり、行為を成功に導く解釈を真理とするといった後件肯定の誤謬を認めるということである。

簡単に言えばそれまで論理学では実験という行為は無意味であった。つまり間違っている、実験から真理は得られないということである。

【後件肯定の誤謬、実験から真理は得られない。】
①ボールを投げる→ガラスが割れた。
②ガラスが割れた→ボールを投げた???

①砂糖を入れたら→コーヒーが甘い
②コーヒーが甘い→砂糖を入れた為???
コーヒーが甘くなったのは実は砂糖ではなく特殊なコーヒー豆でお湯と豆が反応してあまくなっってしまったのかもしれない?砂糖以外の可能性が存在してしまう。

そしてそれを否定する考え方として、プラグマティズムでは、行為を成功に導く解釈を真理とすることによってそれを認める考え方なのである。


まだ少ししか本を読んでないので細かくは分からないがとりあえず、科学者としてのパースらしい考え方であり、実験を認めるということで後件肯定の誤謬なるものを肯定した。


私の好きな言葉でウィトゲンシュタインの論理哲学論考、「語りえぬものについては沈黙しなければならない」という言葉がある。これは当時の形而上における哲学について完全に否定した。その当時は昔から哲学者の間で論争になって考えを巡らせそして探求し続けてきた形而上、つまり神様とか魂はどうとかこうとかという論争はそんなのは意味はないということであり、そんな語りえぬものについては語ること自体無意味でつまり沈黙しなければいけないとそれを表現した。でもまあ、神様自体は無意味ということはなくつまり語りつくしても結局、語りつくせない、形なきものなどはもともと語ること辞退できないのだよということである。神様は神様しか分からないんだからということだ。


ウィトゲンシュタインもパースも既成概念をブレークスルーして否定した事については共通のイノベーションを起こした人物である。



※アマゾンは逆流する。そしてそれをサーフィンする。いつかアマゾンのポロロッカの波に乗りたい。










男子は生涯一事を成せば足る

「男子は生涯一事を成せば足る」という言葉を司馬遼太郎の坂の上の雲の中でのある場面での言葉である。

男子とは生涯でたった一事を成せば足りるので常に身辺は単純明快になければならないということを説いた。
その一点あるのみであり、その為に身辺を単純明快に簡素であり質素にするのは生涯の大事の時に備えてのことである。るまり最低必要限度以上は、弊害になるということである。

その為、世界最強のコサック騎兵集団を破ったあの秋山好古は茶碗ひとつで食事をした。酒を酌み交わす時も飯を食う時もである。

その思想及び一点を成す為の信念というものは、どんな理論にも勝るのではないかと思う。

全て理論通り事は運ぶ事はまずない、常にその信念や思想などの揺ぎ無い人としての根本的な志みたいなものが勝敗には関係している。


理論とは机上で語られ成立するものであり、勝負とは幾度となく重ねた理論を信念や思想などの揺ぎ無い物に束ねて研ぎ澄まされた剣である。



どんなに理論に長けた能力ある人間もそれだけでは大事を成す事はできない。どこまでも研ぎ澄まされた剣のようなものを持っていなければ生涯、一事を成すことはない。世の中の偉人や英雄、伝説の人物は常に豪傑でありそして貧乏の淵から生まれた。ハングリー精神も別の視点から捉えた同じ事である。果たして私達はそのような精神を備えているのだろうか?

今後の日本の流通政策についての展開について

「今後の日本の流通政策についての展開について」というタイトルでレポートを作成している途中である。

百貨店法→大店法→大店立地法→中心市街地活性化法&改正都市計画法におけるまちづくり3法までの経緯を書いているだけでめんどくさくなった。

大体の流通政策がどのような目的で変化していったかの経緯は覚えているのだがこれらを詳細に1つづつ調べて書いている最中、こんな形式的なこと書いていて一体どうするのだと思った。

今の日本と同じで形式的に物事を求めすぎと思いながらもレポートだから当たり前かという正当ともいえる論理の壁が目の前にある。

以上の事から、少し休憩が必要なのではないかと思った。まあ、いいか、何か面白い内容にしてやろうと思う。



今日、森美術館に小谷元彦氏の「幽体の知覚」という展示を見に行った。2度目であるがやっぱりあの滝の作品は本当に凄すぎる。あの中に入って数日もしくは1日以上でも生活したら多分、ほとんどの人が気がおかしくなるのではないかと思う。それぐらい凄い空間でした。
私は特に森美術館の宣伝マンではないが、あの滝だけは凄かった。

学生割引だったらプラネタリウムとシティビュー(展望台)と美術館がついて1300円でした。

http://www.mori.art.museum/contents/phantom_limb/index.html

あの森美術館をプロデュースしている人は本当にすごい、毎回の展示が面白い。モダンアート好きの僕にとっては最高の場所です。

かくて中国はアメリカを追い抜く

「かくて中国はアメリカを追い抜く」という胡鞍鋼博士が書いた本を今、読んでいる。この本を翻訳した人が石平氏という人で中国人でありながら日本人として帰化されており、日中間の問題についている論客である。

胡鞍鋼博士は胡錦涛国家主席のブレーンであり、中国の経済政策に深くかかわっている人物である。そのような興味深い人物間に引かれ7年ほど前に出版されていた本を読んでいる。

まだ半分ぐらいしか読んでいないが特に中国における1つの中国に2つの制度があるといっている。すなわち戸口(戸籍)制度から生まれた都市部と農村部における格差問題を挙げており、またそれ伴って都市部の問題や中国経済の問題である労働力需要と農村部における中国の農作物買取価格の低下などにより国民の過半数以上の人口を占める農村部の国民の収入の低下が起こり、中国の経済発展と伴って格差が大きく広がりだしている原因があるというのだ。
そして都市部における非正規雇用などの枠を大きく広げたりして柔軟性を持たせ、農村部からの流入から戸口(戸籍)制度を緩和して格差をなくすと共に労働力の向上における生産性を上げて、中国の経済力を強めようとしている。

中国は資本主義を経過しないで社会主義を経験しており、マルクス的に考えれば通常は資本主義の次は社会主義である、そこを経過しないでいきなり社会主義を導入した為、今までうまく国が発展しなかったのである。しかし、現在の中国のような社会主義的市場経済を導入した新たな形は、その経過と推移が興味深い所である。その反面、現在の資本主義の生きずまり感を感じざるおえない。資本主義は桎梏の重みを背負い、量から質への転化をはかる時代なのではないかと感じるのである。

しかしながら中国においてもその他、世界においても知識創造社会でありそれらが経済の生成発展の原動力であり、知識の量ではなく質における競争であるから「アリがゾウに勝つ世界になる」はずである。物理的な大きさは、桎梏になるのである。





今日はまた新しい本が自宅に届いたダニエルピンクの「ハイコンセプト」だ。今、10冊併読してるが半分は参考書であり、あと半分は今回の本やダニエルピンクのような読みやすい本である。参考書は読んでて難しいと感じるがいつかすらすらと読めるようになりたいと思い、ずっと読んでいる。あと速読が出来るようになりたいなと思う。子供時代に本を読む習慣があまりなかったので、今は苦労している。



クリスマスも終わって、もう少し寝るとお正月だ。


競争同位性のパラドックス

競争同位性のパラドックス、これは先日に書いた内容の続きであります。

つまり、モジュール化の進展により製品はモジュール要素単位に分解され、インターフェースは標準化していれば簡単に効率よくひとつの製品を完成させることができる。

例えば良い例がパソコンである。パソコンは、モジュールの典型的な例であり、CPU、メモリ、ハードディスク、電源、ファン、など色々な部品をマザーボードに付ければ完成する、プラモデルみたいで簡単である。そこで重要なのは、インターフェースで、これはそれらを結合させ組み合わせる際の標準的な接続する部分のことで、その標準化されたインターフェースがあれば様々なモジュール部品は独立してそれぞれが製品開発が可能で、しかもあとでインターフェースが統一されているので簡単に接続してひとつの製品として機能させる事が出来る。

前回、取上げたのは製品モジュールではなく、例としてグローバル化の進展に伴って組織や産業などの構造がモジュール化してきたという事だった。これは競争の果てにこのようなモジュール構造を構築していったのだが、これがある一定を超えた場合、競争優位性ではなく差別化できない競争同位性に陥る可能性があるという指摘であった。

そして、今回はこの競争同位性のパラドックスについて、クリスマスなので簡単に説明したい。

前回から、しつこいぐらいモジュールや構造や最適化などを同じ事を言ってきたと思うが、組織を例にして言えば最初は、分業をして組織構造を最適化する事自体が競争優位性の源泉だったが、これは行きつく先は競争同位性を招く可能性が出てくる。それでは次のステージとしてそれらを回避する為には、より模倣困難性を持つものを組織構造に組み込まなければいけない。

それは、モジュール要素同士をつなぎ合わせる人間で言えばシナプス(神経)の経路を複雑化したり、真似できない情報量や質が流れるようにするのである。つまり、組織で言えば分業されたアウトソーシング先に対してよりシナジー効果が生まれるような使い方や情報のインタラクティブな流れを企業独自の能力で作るのである。

よりアウトソーシング先を120%ぐらいの力を出させる為に、どのような使い方をするのか?という事が必要なのである。例えば、良い部下がいてもそれを普通に使っていてる上司の生産性より、良い部下をもっとよい仕事ができるようにアドバイスをしたり、時には部下から上がってくる情報で通常は自分の部署には必要ない情報だが他部署には重要な情報になるようなものは他部署に情報をながしそれを活用してもらうように良い上司のもとではもっと生産性が上がる可能性がある。

ようは、モジュールのつなぎ方に対してより複雑な他社が真似できないような模倣困難性を持ち、かつそれらがよりシナジー効果と差別化が生じ競争優位性に変わるような扱い方をするという事である。

モジュールの戦略的概念も、情報の戦略概念の変化と同じで情報は昔は誰がどれだけ早くそして沢山の情報を得るという競争だったが現代においてはそれの情報をどのように解釈して判断、決定、検証、改善に役立たせていくかとい言う事が競争優位性の源泉になった。セブンイレブンはこの情報の利用性の追求という部分において競争優位の源泉を築いたのだ。すでに情報社会というぐらいに世の中に情報は溢れすぎている現代においては情報の利用能力が競争優位性の源泉に変わっている。モジュール化の行きつく先も然りである。

「ゾウはアリに負ける世の中になっているのだ」

図体の大きさは制約を負い、図体の小さなものは物理的な制約は小さい、そして知識というものは大きさに比例しないが時には大きさは知識を制約する。すなわち知識は無限の生産性を生み出す可能性を持っているのである。
それを証明したのは、イギリスで起きた産業革命であり産業革命により工業化が進みそれまで1人の人間が物理的に制約を受けていた限界生産生の度合いを遥かに超えた生産性を生み出した。それは知識の創造性から生じたのである。

モジュール化による競争同位性のパラドックスの回避には、そのモジュール要素間のつなぎ方による模倣困難性を備えた競争優位の源泉を生じさせる事により回避できる一つの策として選択すべきである。

メリクリ! コーヒーでも飲んで流通システム論のレポートでも作成するかー。



クリストファークロスの名曲、以前にビルボード東京でのライブに行きたかったなー。

競争同位性について

違和感を感じる言葉で「競争同位性」について私が好きな製品や組織などのアーキテクチャと一緒に考えていきたい。

最初に戦略論でよく聞く「ブルーオーシャン戦略」というものがある。これは、レッドオーシャン(血の海)、ブルーオーシャン(未開のフロンティアの海)というように市場における企業間の競争では、ニッチな部分や未開拓のフロンティアの市場に進んでいくべきであるということである。
そして、ニッチで創造され差別化された競争要因を持って市場に戦いを挑む方が、わざわざ成熟市場や同じ競争優位性のぶつかり合いで血みどろの戦いをするより良いというわけである。

しかしながらここで問題が指摘されるのである。例え、ブルーオーシャンの戦い方をしていてもそのような市場は最初はその競争優位性や先行者利益なるものを享受できるが、時間が経過すれば青い海も赤い血の海となってしまう。つまり、後発者がどんどんとその青い海を赤く染め上げるのである。とどのつまり、またブルーオーシャンを探しに旅に出かけるしかなくなる。そしてまた赤い海になり、そしてまたブルーオーシャンを探しに出かけるというように、これまた大きな別の角度の視点から見れば限りない血の海の戦い方である。つまり、この戦略論の問題はパラドックスが生じるという事である。

以上の説明をふまえて以下に競争同位性をなるものを説明していくことにより、より分かりやすくなると思う。

世の中は、特に企業経営においては競争優位性を持つ為に他社と差別化されたかつ競争優位性を努力し創造し、企業は市場という戦場で戦っている。これらの現象で、特に製品の構造や組織構造及び組織間の構造というアーキテクチャという概念のもとモジュール化が進行し続けている。

産業革命が起こり、それに伴って企業は経営というものを意識しだした。そしてテイラーの科学的管理法が世の中に広まると工業製品の生産性が目覚ましく、発展していった。私は思うにはテイラーの科学的管理法が誕生した時からモジュール化が急速に世の中を染め上げていく流れを作ったのだと思う。
テイラーは部品や作業手順を標準化したり、機械論的な考えを元に効率的なプロセスを追求していった。これによって熟練労働者は、ほとんど必要なくなり、飛躍的に生産性が向上された。このことから現代におてモジュール化が進行してきた。

このモジュール化の流れは、製品構造や組織構造や経営管理に限らず、自社のその枠を超えて世界という大きな枠の中で、ひとつの生命体としての構造を構築していくことになる。つまり、世界各国に子会社や支店ができ、国内生産だけではなく海外でより安く作れる海外生産にシフトするようになったり、自社の長所は自社で、短所は他社や国外にアウトソーシングしたりして企業自身も世界全体という枠の中でひとつの構造を構築してきた。

以上のように、企業は競争という資本主義経済の名のもとにおいて自由に世界中に最も効率的な企業にアウトソーシング、企業間提携、合弁会社、M&Aを繰り返し、企業間双方でお互いを補完し、もっと最適な企業として競争優位性を築こうとしている現状がある。企業はこのようにいつまでの効率性における競争優位性を持つ為に差別化されたモジュール行動を行うのである。しかしながら、このような競争の果てには力なきものは市場から排他され、競争力のある企業だけが生き残る。

そのように、構造の再構築が行われ続ければ、将来的には例えば、A社とB社は競合関係にあるライバル同士である、そしてA社は自社の不得意な要素である物流業務を世界で最もすぐれた物流会社C社にアウトソーシングする。B社も同じく最適なモジュール行動をするのでB社も同じように不得意な物流業務を世界で最も効率的に行う企業を探した結果、一番最適な物流会社のC社にアウトソーシングする事になる。

そすうると、とどのつまりA社もB社も競争優位性を求めて最適な行動を賢く選択したにも関わらず、実はA社もB社も「競争同位性」というこのモジュール化の行きつく先のモジュールのパラドックスに陥ってしまう事になる。

以上がモジュール化というアーキテクチャによる進行の果ての「競争優位性のパラドックス(競争同位性)」について述べた。

次回は、競争同位性という名のもとにおいての「競争優位性のパラドック(競争同位性)の回避」について考えていきたい。



僕の大好きなミュージシャン、hiromi ueharaです。Time outという曲を聞いたときは衝撃を受けた。即興の天才オスカーピーターソンを思い出す。



現代の企業経営において重要な課題について

「現代の企業経営において重要な課題について」ということで大学の課題提出がある。

ということは、課題というものを導出しなければいけない。

僕の物事の思考回路は、このような場合、求める答えである「現代の企業経営において重要な課題」というものを限りなく別のものに置き換えながら変化させて小さく分解していくのである。

まずタイトルなどから分かるように現代の企業経営において重要な課題とい言われても、大きな抽象的なイメージを持つ。

そして、この文章からまずキーワードの条件を抽出する。ここでは「現代」と「企業経営」とそれら2つの後に関係する「課題」である。

<キーワード条件>
①「現代」
②「企業経営」
③「課題」※これは①&②に影響するものである。

上記のように数値として捉えられるキーワードと用いてその次は、式をつくる。

<公式>
①「現代」+「課題」=答え
②「企業経営」+「課題」=答え



そして、上記の式部分はイメージとして長いとして捉えるのである。そしてそれを必要な部分、自身の出来る限りで変化させる。つまり下記のイメージで考える。
例:
   1+1+1+1+1+1-1-1+1+1-1+1+1=7 → ②2+1+3+1=7


ことばで「現代」を表現する式を作ると、下記になる。
例: 
  民主主義+英語+資本主義+無形価値+IT革命+中国=答え

そして、それらを短縮したり、用語を合わせて変化させたりして式を作り、答えを導出する。

【元の式】    民主主義+英語+資本主義+無形価値+IT革命+中国=答え
【変化させた式】 グローバル化+IT社会+サービス業+中国=答え

その変化させた式から答えを導出する。
※答えは「現代」の式と「企業経営」の式の答えは同じ答えであるようにしなければいけない。なぜならば、元々は「現代の企業経営」というように一つなりのものであるからである。

しかし、答えは共通であるがひとつの数字ように単純な一つではないかもしれない点に注意する。答えの部分もある程度、変化した短縮された式のような答えとなる場合もある。(単純な例:人材育成←単純なひとつの答えではない、答えは一元論的なものではなくどちらかと言えば多元的複眼思考で答えを導出しなければいけない。)


【変化させた式の答え】 

グローバル化+IT社会+サービス業+中国=答え

答え:グローバル環境の世界の中でも特に発展望ましくその進行途中である中国を市場として捉えてIT技術を用いたサービス業(無形的価値)のビジネスを展開するという風に答えを自らの想像力でつなぎ合わせ変化させて作っていくのである。



僕の物事を考えて答えを出すプロセスは、このように分からないような抽象的なものは分解して、そして自分流につなぎ合わせて変化させて、答えというものを作っていくという思考回路を用いている。

分かりにくいかもしれないが、要するに「分解してつなげて変化させて答えを出す。」そして、つなげて変化させて、それをどのように解釈するのかは自身の創造力というフィルタを用いなければならない。そして、自身の答えを出す。

こうすると、分かりやすく、なぜそのようになったのか、などの説明ができる他者と差別化した創造力を含んだ答えとなる。



僕の記憶、子供時代を思い出す。人は時間軸に対して線を描きながら軌跡を歩まなければいけないが、思い出や懐かしさというものは、時間軸に対してその時々で点として存在するものである。つまり、線となって軌跡を歩まないのである。人間の大事な部分は点である、大人になっても変わらない何かを持たなければいけない時もあると思う。