前回、母の闘病記録にも関わらず、父も倒れて父の闘病記録になっていましたが、もう少し父の話しです。
翌日、見舞いに行ったら、もうリハビリを始めてて、指で摘む練習をしていました。
倒れた時は錠剤も摘めなかったのに、人差し指と親指の摘みは、既にできるようになっていた。ただ、人差し指から中指に変えると、摘みづらそう。訓練も治療も少しずつだけど、案外回復は早そう。
後遺症や麻痺も残らず、入院3日目からは歩行の練習も開始。手のリハビリと歩行リハビリを、無理の無い程度に一日おきにし、一週間の入院で無事退院となった。
麻痺も後遺症も無く、無事生還できる確率は10%らしく、父はかなり幸運の持ち主のようです。(その運、母にも分けてやれよ…)
一方、母はと言うと…緩和ケア病棟の部屋は個室で広い事に驚いている様子。しかし、全てを悟った様で、どこか寂しげでもありました。「もうすぐ死んじゃうねぇ…」と言う母。私は、ただただ見つめるしかできませんでした…。
この決断。正解だったのか、間違いだったのか、未だに分からないんです。たぶん、専門的な事は何も分からないですが、一生、考え続けるんだろうと思います。もしもあの時、抗がん剤治療を選んでいたらどうだったんだろう…放射線治療で少しでも小さくできなかったかな…などと。
確実にその時は近づいている。でも母を見ていると、まだ先の様な気がしてならなかった。遠い未来であってくれと思った。
7月中旬。母の在宅介護生活に向けて、一時帰宅の準備に取りかかる。一番の問題はトイレ介助だった。そこで、病院ではトイレの介助練習。自宅では補助手すりを設置した。この時点では、まだ介護ベッドは間に合わなかったが…。そして、7月18日19日。金曜日と土曜日に一泊二日の予定で一時帰宅となった。
帰ってきたその日は、帰って来られた事が嬉しかったらしく、よくしゃべり、夕飯も妹が買ってきたご飯を、しっかり食べてくれた。
悪い事は続くもので…夜中の3時半頃。今度は私の腰に今まで経験したことが無いぐらいの激痛が!
母も帰ってきてるし、父も慣れない介助で疲れて寝てるため騒ぐわけにもいかず、一人自室で朝7時まで痛みに耐え、朝になったら父に事情を話してロキソニンを貰い飲みました。薬を飲んだら少し痛みが治まったので、8時。すぐに母も入院している(その日は帰ってきてるけど)病院の救急外来に行き診てもらう事に。
下手したらまた家族揃って入院か?と思いながらエコーとCTを撮ったところ、尿路結石(尿管結石)だと判明。大きさは3mmと小さかったため、水を飲んで出してください。との事で、特に薬も処方されず(ロキソニンすら処方されず)、帰りに薬局でロキソニンを買って帰ってきました。その日からしばらくは、水をガブ飲みの日々です。
一方、母はと言うと…ずっとベッドに横になっているだけでしたが、帰って来られて好きにテレビを見られるので「楽しい」とは言うものの、やはり体力的に疲れるのか午後からはグッタリしていました。そんな母を見て、今後、在宅介護は難しいかも…と思いました。(もしかしたらこの時、脳の腫瘍が大きくなってたのかも?)
その日の夜、母は病院に戻りましたが、さらに疲れてグッタリした様子。
翌日になり妹が朝お見舞いに行くと、全く話せなくなってる様子だったらしく、私にもすぐに連絡が来たので、急いで病院に向かうと、目を閉じてずっと寝ているような状態で、呼びかけても頷いたり小さく首を横に振ったりはするけど、何も話せなくなっていました。
環境が変わると、ここまで悪くなるものか…と驚きました…。
その日の夕方。母のお姉さん家族がお見舞いにいらっしゃって、あまりの変わり様に驚いていらっしゃいました。(私も驚いていますけども。)
この日から出来ない事が日に日に増えていき、看護師さんにも「今の状態だと、在宅介護は無理だと思いますよ。」と言われましたが、施設に預けるにしても先立つものが無いし、母本人も帰りたがっていたため、残り少ない時間。在宅以外の選択肢はありませんでした。
一週間を病院で過ごし、翌週、7月28日の月曜日に退院。それまでに母の部屋を片付け、医療用ベッドと点滴棒搬入。トイレはもう行けないのでオムツを付けていましたので、トイレの改装はキャンセル。と、自宅もバタバタでした。
余談ですが…母の一時帰宅の時。私が尿結石で苦しんだ時。本当なら他県に住んでいる弟が帰ってくる予定でしたが、熱を出したから帰れないと連絡がありました。
あとから聞いた話し、弟は弟でコ◯ナで寝込んでいたようです。…だから、このタイトル「家族みんなどうした?」なんです。