今日は微妙な天気でやる気も無い週明けになってしまいましたが
みなさんはいかがお過ごしですか
さて今日は誰の特集をするかと言いますと
タイトルに掲載しているように前田 敦子ちゃん特集です 
 
AKBのセンター事、前田 敦子ちゃんを
紹介をしますね 
 
キャラクター 
 AKB48&チームAのエース。
これまでに全て(じゃんけん選抜は除く)のシングル曲で選抜メンバーに選ばれており、そのほとんどの曲でセンターポジションを務めることから、
“絶対的エース”とも呼ばれる。
総選挙では2度の1位を獲得。
 キャッチフレーズは無し。
無い理由は「思い浮かばなかった」から。それから5年間経ってしまった。と最近は答えているが、本当は恥ずかしかったから。
考えようとも思わなかったとか。
 ニックネームは「あっちゃん」。
これはAKBに入ってから付けられたものではなく、
子供の頃からのあだ名。
後輩からは「前田さん」と呼ばれる事が多い。
たまに番組では「マエアツ」が使われる事もある。
 特にキャラクターはない。
よく「何を考えているのか分からない」と言われる。
本人によると、そういう時は本当に「何も考えていない」。
MCなども特に何も考えずに出る。
もっと積極的になろうと考えた事もあったが、
「あっちゃんはそんな感じなので、それでいいよ」とメンバーやファンは思っており、前田も“これ”と言ったキャラクターは作っていない。
「それを許してくれるファンの人と、メンバーには感謝してますね」
 チャームポイントは、目。
 ダンスはあまり得意ではないらしく、「省エネダンス」と呼ばれたり、「松井珠理奈に負けてるよ」とか言われてしまっているとか。
 秋元康「前田敦子というエースは本当に不器用なんです。すぐ顔に出てしまう。心にないことは言えません。
だから、すごく誤解されます。やる気がないように見えることもあり、『ぶすっとしている』とバッシングを受けました。
でもそれでいいんです。もちろん他のメンバーのように、いつも挨拶できる子も魅力的ですが、でも前田敦子みたいな子がいてもいいと思っています。『秋元さん、前田敦子に注意しなくていいのか』と言われるが、まあいいと思っています」
幼少期 
1991年7月10日に生まれる。
「敦子」という名前の由来は、祖父が「敦」という字を絶対に付けたかったらしく、もし男に生まれていたら、前田敦(あつし)になっていた。
 幼稚園の時に、『ポンキッキ』や『天才テレビくん』などのテレビを見ていて、同世代の子供たちが出ていると「楽しそうだな」とは思った。
うらやましいとも思ったが、「自分も出たい」とかそういう事を言えるような子供ではなかった。
 中学生の頃、もともと目立つ事が苦手で、授業中先生に指される事さえ怖かったという、どこにでもいる内気な普通の女の子。
それがいつしか「女優になりたい」という夢を持つようになった。
 
2005年 
母と2人でいた時に「秋葉原48(AKB48)」というアイドルグループの
オーディションのチラシを見つける。
かなり怪しげなチラシだったが、懐かしのアイドル特集などで
「おニャン子クラブ」は知っており、そのプロデューサーだった秋元康が載っていたので興味を持った。
AKBの“それぞれの夢へと巣立っていく場所”というコンセプトに惹かれ、リアルなレッスン場のつもりで、このグループに入ってみたいと思ったが、母親にも「オーディションを受けたい」と言える子でもなかった。
そんな娘の気持ちを察してくれたらしく、母が「やってみれば?」と言ってくれた。
当然これが人生で初めて受けたオーディションで、秋葉原に来たのはAKBになってから。
テレビで知っていた程度の知識しかなく、
「行きたいとも思っていなかった(笑)」とか。
 10月、1次、2次と合格し、最終審査日。
当日の印象は、年上の人(小嶋陽菜のことらしい)や可愛い人がいて、すごい自分が場違いな感じがした。
すでに女の子同士のグループなども出来ていたが、自分は誰とも喋らなかった。
まずダンス審査で全然踊れず、それを引きずってしまい歌唱審査もダメだった。
絶対に落ちたと思ったら、自分の番号が呼ばれた。
でも、母親が喜んでいる姿を見て、ほっとした。
 戸賀崎の当時の印象は、
「ニコっと笑った時に、何か引っ掛かるんですよ。地味なんだけど、不思議な感じがしましたね。
ただ、特別にオーラがあった訳ではないので、将来センターに立つなんて思ってもいなかったです」。
 11月、デビューに向けてレッスンが開始。
振付師は、モーニング娘などの振付も担当した夏まゆみ。
かなりのスパルタで、1回無断欠席した子はクビにされ、レッスンの厳しさに耐えられず何人かは自主的に辞退した。
1期生は24人が合格したが、デビューまで残ったのは20人だった。
前田が耐えられたのは、『桜の花びらたち』の立ち位置を決めるとき、この曲は5人しかマイクがもらえないが、自分が貰えたからだった。
嬉しさと、他人には負けたくないという事でがんばれた。
同じく『スカート、ひらり』というユニット曲のメンバーにも選ばれた。
最初に前田を推したのは秋元康ではなく、夏まゆみだった。
 12月8日、AKB48劇場のグランドオープンで劇場公演デビュー。
初日は70人近くお客さんがいたが、これには関係者も含まれており
実際は7人。
2日目、3日目、進んでいくと、お客さんの数は数人という日もあった(ステージのメンバーよりも少ない)。
不安から、泣いたり、辞めたがるメンバーもいた。
季節は冬だったが、寒空の下、メンバー自ら何度かビラ配りなどもし、客を増やそうと努力した。
「なんで人気が出ないんだろう。これ以上人気が出なかったらみんなでやめちゃおうって話をしていました」。
2006年 
 2月1日、インディーズではあるが『桜の花びらたち』でCDデビュー。
 2月8日、初の満員御礼を達成。
「初めて満員御礼になって、席が埋め尽くされた時は、すごく嬉しかったです」。
 2月下旬、すぐに追加メンバー(2期生)のオーディションが開始される。
「オーディションをやるよって言うのを聞いて、すごい嫌だったんですよ。ここまで頑張ってきたのに、なんで増えるんだろうって。
もともと増えるコンセプトだったけど、不安で、私たちの居場所が無くなるんじゃないかと思って」
 2月26日、19人が合格し、新たなAKBのメンバーとなる。
「『先輩たちに負けないように、頑張ります!』ってすっごい強い意志を持っている子たちだったんで、そこでみんなすごい刺激を受けたんだと思います。私も負けてられないって。
最初はチームAとチームKはライバルでした」
 4月15日、チームA2nd「会いたかった」公演が開始。
これは前回の1stに比べ、よりメンバーのポジションに格差があるような作りになっている。
それはメンバー自体に格差が出来はじめたということ。
それまで、なんとか皆でお客さんを増やそうと一致団結して
頑張っていた直後。
チームAメンバーにとってはこのセットリストが一番辛く、「2nd公演の事は思い出したくない」と言っているという。
 前田はこの公演の『渚のCHERRY』という曲で、
初めてソロを担当する事になった。
正確には4人のユニット曲だが、実際にはソロとバックダンサー3人という構成であり、明確な差がある(衣装の色も違う)。
前田はソロを任されると知ったとき、
「一人だけ目立つのはイヤ」「やりたくない」と言って大泣きした。
それは同年代だった、峯岸みなみや平嶋夏海、増山加弥乃が自分のバックダンサーを務める事になったからで、
前田が直接言われた訳ではないが、彼女たちも負けず嫌いな性格で、
「2人が嫌がっている」という話が前田の耳にも届いていたからだった。
平嶋「3人で事前に仮歌を聴いて、『多分あっちゃんが歌う箇所が多いよね。覚悟しておこう』って」。ところが現実はもっと厳しかった。
パート表を見ると、「前田」と「オール」という名前のみ。
「センター」と「それ以外」という扱いだった。
しかも3人が担当する歌詞は
「チェーリチェリガール」と「チェーリチェリボーイ」だけ。
つまりただのコーラス。
平嶋「この曲をステージに出て歌ったら…私の事を応援してくれているファンの人たちはどう感じるんだろう」。
悔しさと申し訳なさで胸はいっぱいだったが、
スタジオでは涙を見せなかった。
だが、「スタジオを出た瞬間、他のレコーディングで来ていた戸島花ちゃんと会ったんです。その顔を見た瞬間、私とみぃちゃんは、花ちゃんの胸で泣きました。
そうしたら『あっちゃんがもうすぐ来るよ。この姿を見せたらダメだよ』ってトイレに連れて行かれて。
でもあっちゃんも、そのパート表を見て泣いたんだよって聞かされました。
その後も『渚のCHERRY』の練習をやったんですけど、
歌のパートの話は4人とも一切しませんでした」。
 当初は夏まゆみには評価されていたが、秋元康からはそんなに評価は高くなかった。
オーディションの時は、ほとんど眼中になかったと聞かされた。
印象は「ヘルメット」。
しかしなぜそんな子をいきなりセンターに抜擢したのか。
秋元「『PARTYが始まるよ』公演をやった時に、
『AKBは面白いけど、誰が誰だか分からない』という声があったので、スターを作らなきゃと…。
“前田スター化計画”の第一歩としてソロ曲にしたんです。
そしたら前田が猛烈に泣いて。
レコーディングの時に、僕をスタジオに入れてくれなかったくらいでした。
ここから前田の葛藤が始まるんですよね」
 8月11日、2ndの千秋楽。
そこで秋元は、メンバーにお互い思っていたことをすべて言えと命じた。
あるメンバーはファンの前で「辞めようと思った」と言い、
あるメンバーは「あっちゃんの後ろは嫌でした」と言う。
それに対し前田も「『渚のCHERRY』はやりたくなかったです」とセンターを任される重圧を語った。メンバーはみんな号泣しながら思いの丈をぶちまけた。
前田「スッキリしたというか。改めてファンの人たちにも自分たちの気持ちを分かってもらえたというか」。
 この時は観客も一緒になって号泣したとも伝えられているが、ある雑誌にその公演に参加していたファンはこう書いている。
「そんなはずないでしょ。もちろん自分の推しメンが泣きながら話している時はウルウルしましたけど、客はチームAの他のメンバーには興味がない訳だから、どうしてお金を払ってまで演者の愚痴を延々と聞かされなくちゃいけないのかと。
ものすごく微妙なムードが劇場全体を包み込んでいましたね。いたたまれない感じっていうのかな。早く劇場の外に出たかったというのが本音ですよ」。
 チームKはじょじょに人気を上げ、チームAとライバル関係になっていた頃、チームA内ではさらに“メンバー格差”という新たな戦いも始まっていた。
Aのメンバーにとっては非常に辛い公演となったが、この「会いたかった」はAKBの代表曲とも言える曲が入っており、今ではメンバー間に格差があるというのはAKBでは常識なので、後に出来たチームBやSKE48チームKIIなどでも使用されているという人気のセットリストとなっている。
 9月29日、チームAとチームKの組替え発表を行うと告知される(「ばら組」「ゆり組」構想)。
不安はまったくなく、「新しい気持ちになろっかみたいな(笑)。また違う自分になれるかなみたいな」と非常にポジティブ。
 10月、『会いたかった』でメジャーデビュー。
「ビックリはしなかったです。CDを出すっていうのも、どういう事だかよく分かっていなかったので」
 2007年 
 4月、将来の希望は女優で、映画『あしたの私のつくり方』で夢でもあった女優業の活動も開始。
準主役の大抜擢だった。
その年の第81回キネマ旬報新人女優賞候補にもノミネートされている。
実は「すっごく嫌でした。怖くて、自信がなさ過ぎて。実際、現場に入っても『早くAKBに帰りたい』とか、そんな事ばかり言ってました」。
夢の女優業だったが、あまりにもどうすればいいかのわからず、それが「嫌だ」という感情に繋がってしまった。
 7月、大島優子、小野恵令奈と共に太田プロダクションに移籍。
 7月1日、チームAとKのメンバーがシャッフルされ「ひまわり組」として劇場公演を行う。
「ひまわり組は辛かったけど、自分のためには大きかった。最初は『チームがバラバラになっちゃう。このまま戻らないんだろうな』ってみんな思ってました。
でも、ひまわりをやった事で、すごく成長したと思います。
私も優子と絡む事が増えて、影響されたんですよ。
あの子は明るいから、見ているうちに『自分をこんな風に出していいんだ』『こうやれば楽しくなるんだ』って」
 10月、雑誌『ビッグコミックスピリッツ』で初の単独表紙を飾る。
 10月16日、フジテレビ系「スワンの馬鹿!~小遣い3万円の恋~」にて、初の連ドラ出演。
 12月、チームAとKのメンバーをシャッフルするという「ひまわり組」公演のスタート。
「みんな一番自分のチームが大好きで、台風が来たみたいに荒れました。嫌だ嫌だ嫌だってみんなで泣いて。でもなんだかんだでレッスンが始まっちゃうと、すんなり(笑)」
 12月、AKB48として『NHK紅白歌合戦』に初出場を果たす。
 

2008年 
 1月、ドラマ『栞と紙魚子の怪奇事件簿』で、南沢奈央とのダブル主演を務める。
 この年の前半は役者仕事もこなし、AKBから離れている事が多かった。
AKBがこの年に出したシングルは、昔インディーズで発売したセルフカバー曲『桜の花びらたち2008』であり、運営側はなんとかCDの売上を伸ばそうと色々な特典を付けていたが、所属レコード会社からは違法性が高いと指摘され、さらに契約も解除されてしまった。
これらはニュースとしても取り上げられ、AKBのアンチからは悪質な「AKB商法」とも言われる様になり、
次第にバッシングなども大きくなっていった。
 6月、次にリリースされたシングル『Baby! Baby! Baby!』は、
レコード会社も決まっていなかったため、CD販売はされず、ダウンロード配信のみのシングルとなった。
この頃がAKBの低迷期と呼ばれており、
「『これからどうしよう』『もうこれ以上、上には行けないのかな』って思ってる時期だったような気がします。
自分たちも、スタッフの方たちからよく言われるんですけど、『もうこのまま終わっちゃうんじゃないかな』って。
多分それは私たちの意識が薄れてきちゃったからで…」。
 7月、フジテレビ系列の月9ドラマ『太陽と海の教室』に、船木真由役で出演。
 10月22日、『大声ダイヤモンド』をリリース。
この曲では、8月に結成されたばかりのSKE48から松井珠理奈が選抜メンバーに選ばれている。
しかも前田とのダブルセンターでデビューすることになった。
珠理奈の存在について。
「別に余裕があった訳じゃないんですけど、年齢も違うし、あまり意識はしてなかったんです。
でも思った以上にファンの人からすごい言われたというか、比べられていたというか。それを知った時はちょっとビックリして、焦りましたね。
私はどうしたらいいんだろう…と思って。
秋元さんにもその時期、怒られた事が何度かあったんです。
『このままでは松井に抜かされますよ』って言われた事もあったし。
『大声ダイヤモンド』から秋元さんに毎回意識を聞かれるようになりました。
『どうしますか? 前田はできますか?』ってメールで聞かれるんですよ。
『できます! やりたいです!』って。
それまではセンターにいるけど、でも『どうせみんな私の事なんてなんとも思ってないな』っていう気持ちでした。
でもこの曲から、自分のいる場所(センター)の意味が少しずつ分かってきた気がします」
 秋元「今後、前田がどうなっていくのかっていうのは、これだけセンターになって、
自分がセンターなんだと気付いた。
色んなドラマが出るようにになった。
それで、これからどうなるか? だと思います。
でもね、そこでファンの反応で面白いのが、“深読み”するんですよね。
PVで珠理奈と前田の方がぶつかったりするところで、あれが新旧交代を意味するんじゃないかとか。そんな事ないのに。
あのPVは全部、監督に任せてただけなんですよ。全部を僕がやっていると思われてるけど、そんなに時間ないから(笑)」
 
たかみな同様にある程度分けて更新をしていきますね 
 
続きを楽しんでください 
 
えもん
 
    
