とかくして越え行くまゝに、(一)阿武隈川を渡る。(二)左に会津根高く、右に(三)岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野[しもづけ]の地を境ひて山連なる。(五)影沼といふ所に行くに、けふは空曇りて物影うつらず。(六)須賀川の駅[うまや]に(七)等窮といふ者を尋ねて、四五日とゞめらる。「まづ白河の関いかに越えつるや」と問ふ。「長途の苦しみ心身つかれ、かつは風景に魂奪はれ、懐旧にはらわたを断ちて、はかヾしう思ひめぐらさず
風流の初めや奥の田植えうた
無下に越えんもさすがに」と語れば、脇・第三と続けて三巻となしぬ。
(一)白川の関の北を流れ、福島を過ぎて、仙台の南を太平洋に注ぐ
(二)会津の磐梯山(ばんだいさん)
(三)福島県の太平洋岸の南端に岩城の庄(平町付近)、北端に相馬の庄(中村町付近)、中部西寄りに三春の庄(三春町付近)がある。「庄」は中古時代の庄園のなごり
(四)今芭蕉が歩いている岩城の国から見ると、常陸との国境には八溝山脈が見え、下野との境には那須連山が見える
(五)白川から須賀川への途中にある沼。建暦年中和田胤長の妻が、夫の処刑を聞いて鏡と共に身を沈めたと伝え、「空曇る日は物影不見」(行襄抄)とある
(六)福島県岩瀬郡須賀川町
(七)相良伊左衛門。須賀川町の駅長。この地方の有力な談林派の俳人で、信夫摺・伊達衣などの俳書がある。正しくは等躬
