善導大師が絶賛されるであろう親鸞聖人のお言葉を

唯円がよくよく知っていたのではないか

知っていたのみならず

唯円自身も先に述べた親鸞聖人と同様のことを

実践していたということではないか

と思われるようなところが

歎異抄にはあるのです

 

親鸞聖人のお言葉から順に提示します

 

◆この信心をうるを「慶喜」という。

 慶喜する人は諸仏とひとしき人と名づく。

 「慶」はうべきことをえて後に慶ぶ意なり、

 信心をえて後によろこぶこころなり。

 「喜」はこころの内に常に

 よろこぶこころ絶えずして憶念つねなるなり、

 踊躍するなり、

 「踊」は天におどるという、「躍」は地におどるという、

 よろこぶ心の極まりなきかたちをあらわすなり

 

 ( 親鸞聖人 唯信鈔文意 )

 

“他力の信心を獲たことを「慶喜」というのである

「慶喜」する人は諸仏と等しいといわれる

慶とは、いま救われたことのよろこびをいうのである

喜は、常によろこぶ心が絶えないことをいう

天に踊り地に躍るほどのよろこびをいうのである”

 

◇「念仏申し候えども、踊躍歓喜の心おろそかに候こと、

 また急ぎ浄土へ参りたき心の候わぬは、

 いかにと候べきことにて候やらん」

 

 (歎異抄第九章)

 

親鸞聖人が信心獲得したことを「慶喜」といわれ

その喜びを「踊躍」と教えられているのに対して

唯円は

私には「踊躍」歓喜の心がありません

同じ「踊躍」という言葉を使って

親鸞聖人と一見すれば

正反対のことを言っているのです

歎異抄第二章では殺気さえ感ずるような親鸞聖人ですが

この第九章では

そのような雰囲気は微塵も感じられません

 

それどころか

「唯円もこの親鸞と同じ心であったか」

と微笑んでおられるお姿が目に浮かぶようです

 

善導大師のお言葉と

違って聞こえる親鸞聖人のお言葉を

知り抜いた上で

あえて同じような言い方を

唯円がしていたとするならば

我々も唯円に負けず劣らず

教えの光を身に加え

聖人の仰せと異なる聞き誤りを

正していかなければなりません

 

親鸞聖人教えについての

唯円の理解の深さについては

この歎異抄第九章だけでも

まだまだ考えられることがあります

 

それはそのまま

親鸞聖人の御教えが

いかに深淵であるかの一端でありましょう

またご縁があれば讃嘆したいとおもいます

 

先の2つの御文に限らず

親鸞聖人は善導大師と全く同じお言葉を使われて

全く違ったことを教えられているように思えるところが

他にも多数見られます

 

大心海化現の善導と聖人が絶賛されている善導大師が

「一字一言、加減すべからず

 一つ経法の如くすべし」

大自信で書き遺されたお言葉を

親鸞聖人は平然と読み替え

意味も全く変えてしまっておられるようにおもわれます

 

聖人が「騙されて地獄に堕ちてもさらに後悔しない」とまで

尊崇なされた法然上人に対しても

「背師自立」と疑謗破滅を受けられるのも

無理もないことでしょう

 

しかし

これら一切の親鸞聖人のお言葉に

善導大師が激怒なされるどころか

よくぞこの善導の心を一層鮮明にしてくれた

と称賛されるに違いありません

 

まさに親鸞聖人は世界の光であり

阿弥陀如来の御化身と拝さずにおれません

 

平生の一念に弥陀に救われてから

「生死の凡夫」であるのか否かについては

まさしく凡夫の智慧では矛盾としか思えない

不可思議の「二種深信」を説かれた善導大師ならばこそ

拍手喝采の大絶賛を祖師聖人に贈られることでしょう

 

凡夫のままで堕ちるに間違いなし

生死の凡夫ではなくなって助かるに間違いなし

この二つが同時に知らされるのです

 

 

 

🔳① 機相と法徳

 

◆超世の悲願ききしより

 われらは生死の凡夫かは

 有漏の穢身はかわらねど

 こころは浄土にあそぶなり

 

 (親鸞聖人)

 

◆「一つには決定して

 『自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫

 昿劫より已来

 常に没し常に流転して

 出離の縁有ること無し』

 と深信す」

 

 (善導大師)

 

善導大師が

阿弥陀仏の本願に救われても

現在の私は「生死の凡夫」であることに

全く変わりはない

死ぬまで生死の凡夫であると教えられています

対して親鸞聖人のお言葉では

弥陀の本願に救われて

「生死の凡夫」ではなくなった

と仰せになっています

これはどのように受け止めればよいのでしょうか

 

機相・・・煩悩具足の凡夫

法徳・・・正定聚の菩薩

 

 

 

「本願を信受するは、前念命終なり。即ち、正定聚の数に入る。

 即得往生は、後念即生なり。また必定の菩薩と名くるなり」

                     (愚禿鈔)

 

 阿弥陀仏に救い摂られた者は

総て正定聚の菩薩であるといわれている

 

 菩薩と聞くと

ご飯も食べず便所にもゆかぬ

腹も立てねばウソも言わぬ

石の地蔵のようなものと思っている者が殆どだ

 

如何に仏教に昏いことか

 

 菩提薩埵を菩薩という

 

現在が生死の苦海であることに驚き

なんとか助かりたいと仏道修行に励む者は

煩悩具足であっても

みな菩薩というと『仏教大辞典』に明記されている

 

 この世の名利に狂わされている機相から言えば

迷界の泥凡夫だけれども

法徳から言えば

弥勒菩薩より先に仏覚位を窮める正定聚の菩薩なのだ

 

 凡夫のままで行かれる処は三悪道だけである

 

 

 

 

◆天上天下に在します三世・十方の諸仏

「天上天下唯我独尊」

の「天上天下」とは

「大宇宙」のことです

 

お釈迦様の時代から2600年を経た今日でも

地球上で世界最大の偉人であり

自他共に認める仏は釈迦牟尼仏のほかには

おられません

 

ですからもしも

「この地球上では」

という意味ならば

お釈迦様ただお一人が尊い仏である

と言われたとしても

納得できます

 

釈迦の次に仏のさとりを開くのは

弥勒菩薩であるといわれますが

弥勒が仏の覚りを開くのは

56億7000千万年後であると

多くの経典に記されています

 

この年数は果てしなく遠い未来ということですが

敢えて実際の年月として解釈してみても

地球の寿命はあと50億年程度であるといわれていますから

地球上での仏は釈迦お一人といって過言ではないのです

 

今のところ一番エライ

という程度ではなく

まさに地球上で唯一といっていい存在なのです

 

しかし釈迦は

この「地上で」と言われたのではありません

「天の上にも天の下にも」

です

 

これを生後すぐに立ち上がり

右手と左手で天地を指さしで言われたとまで

説かれているのですから

「地球」上に限定された言葉ではない

ということは一層鮮明です

 

釈迦はこの大宇宙には

過去・現在・未来において

数え切れないほどの無数の仏が現れている

と説かれています

 

これを

「三世十方の諸仏」

(さんぜじっぽうのしょぶつ)

といわれます

 

日本でよく耳にする

大日如来とか毘盧遮那仏とか薬師如来などは

みな地球以外に現れられた仏方です

 

それらの諸仏はみな

釈迦と同じく最高無上の仏の覚りを開いて

三世十方を貫く真実の仏教を説かれているのです

 

天上天下・・・すなわち大宇宙からすれば

釈迦「独り」が尊いなどと

お釈迦様ご自身が言われる道理が無いのです

 

「天上天下唯我独尊」を

お釈迦様が大宇宙で俺一人だげがエライと言われた

という解釈には

あまりにもムリがあるのです

 

親鸞聖人の教えを知るには

「三世十方の諸仏」についてよく知らなければなりません

 

釈迦も親鸞聖人も唯一説かれた

阿弥陀仏の救いを知るには

阿弥陀仏という仏が

これらの三世十方の諸仏の本師本仏(先生・師匠の仏)

であるということをよくよく知らなければなりません

 

しかし

阿弥陀仏のこと以前に

仏法をよく聞いて人にも話しているような立場であっても

「十方諸仏のことさえ全然わかっていない」

と注意されることがあり

それはどんな仏法者もよく自戒しなければならないことなのです

 

天上天下には

三世十方の諸仏が無数におられるのです

 

「三世十方の諸仏」

のことがよくよく知らされれば

このような

「天上天下唯我独尊」

の誤解は

起こらないはずなのです

 

 

「天上天下唯我独尊」という言葉は

自分だけが一番偉いという意味だと思われがちですが

これは海外でも同じ誤解があるようです

 

仏法を知られない多くの人ならやむを得ないことですが

昨今でも

全ての人を救う阿弥陀仏の救いを

伝える立場の僧侶にさえ

同様に主張し

お釈迦様は偉そうにしていた方なのだ

と主張している者もあるようです

 

いくつもの方面から

その誤りを正すことができますが

そもそも「仏教」とはどんな意味か

ということから明らかにすることができます

 

「仏教」とは

「仏の説かれた教え」と読めば

この地球上ではお釈迦様の他には

自他共に認める仏はおられませんから

釈迦の説かれた教えということです

 

また仏教とは

「仏になる教え」でもあります

 

阿弥陀仏の救いはまさに

すべての人を必ずこの世から不滅の幸福に救い

死ねば極楽浄土に往生させて

仏に生まれさせるというお約束です

 

お釈迦様がこの地球上で仏となられた私独りが偉いのだ

というのが2600年前の時点では

ゆるぎのない事実であっても

それは地球上だけでのことであり

大宇宙の全ての人が仏になれる阿弥陀仏の本願こそが

本当の仏教なのですから

全ての人がそんな偉い存在になれるのだ

というのが

仏教の基本中の基本であり

阿弥陀仏の救済の広大無辺さなのです

 

阿弥陀仏の救済の相手は「十方衆生」

「十方」とは大宇宙のことです

 

大宇宙のすべての人を救うと誓われているのが

阿弥陀仏の救いですから

親鸞聖人は「弘誓」と言われています

 

仏教で

「一即多 多即一」

(いちそくた たそくいち)

という言葉も

大変有名で

一人の上に体得される真理は

そのまますべての人に体得される真理である

ということです

 

これは何も

現在の時間だけを切り取って

大宇宙の全人類のことである

というのみならず

過去・現在・未来の三世を貫く真理

でもありますから

過去・現在・未来のあらゆる人が

体得できる真理である

ということに他なりません

 

このように

いつでもどこでも変わらない真理を

教えられているのが仏教であり

いつでもどこでも釈迦独りが

偉いなどということは無いのであり

むしろすべての人がお釈迦様と同じ

仏陀に成ることができると説かれたからこそ

お釈迦様を尊いお方と尊敬せずにおれないのです

 

それを大宇宙でお釈迦様だけが偉いという意味だ

などと仏教学者が言っているとするならば

仏法がすべての人の成仏の道を説かれた教えであることも知らず

すべての人を必ず救う弥陀の誓願不思議を知らず

この世のことだけしか考えず

過去・現在・未来の三世を見通す

仏の智慧に昏いのだ

としか言いようがありません

 

お釈迦様は間違いなく

「すべての人の命は尊い」

なぜならば

「地球よりも重い命の目的があるからだ」

と訴えておられるのです

 

親鸞聖人が90年の生涯

明らかにしていかれたことも

これ一つでした

お釈迦様が御生誕なされた時に

「天上天下唯我独尊」と仰せになったといわれます

 

「天上天下」とは

一言でいえば

この大宇宙で

ということでしょう

 

地球上だけで

ということではありません

 

望遠鏡もなかった約2600年前の

お釈迦様の時代に

この大宇宙には

地球のようなものが大宇宙には

塵のように数限りも無く

浮かんでいるのだと

教えられているのが仏教です

 

「唯我独尊」とは

世間ではこれを

自分だけがただ独り偉い

と言われたのだと思われていますが

 

唯 ただ

我 人間にのみ

独 たった一つの

尊 尊い使命がある

 

人間にしか果たすことのできない

尊い人生の目的があるのだということです

 

「人身受け難し

 今已に受く

 仏法聞き難し

 今已に聞く

 この身今生に向かって度せずんば

 更にいずれの生に向かってか

 この身を度せん」

 

人間に生まれた今

仏法を聞き

救われなければ

一体いつ救われるというのか

 

のお釈迦様のお言葉からもわかるように

仏法を聞いて本当の幸福になれるのは

人間に生まれた今しか

永遠のチャンスは今しか無いのだ

ということです

 

「人命は地球よりも重い」

といわれることがありますが

なぜなのでしょうか

 

今も世界では戦乱によって

人間が虫けらのように殺され

人間に生まれなければよかったと

自殺する人も後を断ちません

 

地球より重い使命を持った命なのだと

知らされなければ

戦争・自殺・暴力・殺人などの

諸問題の対策も

空回りしてしまうのは

そのためなのでしょう

 

この尊い使命を

親鸞聖人は「業」の一字で表され

生きている現在

その使命を達成することができるから

一刻も早い達成を勧められたのが

「平生業成」(へいぜいごうじょう)

という言葉です

 

親鸞聖人がもし

お生まれにならなければ

平生業成という言葉は

この世にはなかった言葉です

罪の有る無しの沙汰をせんよりは

 信心を取りたるか取らざるかの沙汰を

 いくたびもいくたびもよし

(御一代記聞書)

 

罪悪の沙汰をするよりも

信心の沙汰をせよと教えられた蓮如上人のお言葉です

 

このお言葉はしばしば非常に大きな誤解をされています

 

その誤解とは

「苦悩の根元は真実の信心を獲得していない疑情一つなのだから

欲や怒りの煩悩が苦しみの原因であると思うのは間違いである」

というものです

 

真の知識は苦悩の根元を「疑情」一つであると教えられる

というところはその通りですが

だからといって欲や怒りの煩悩は苦しみの原因ではないのだ

というのは大変な誤りです

 

疑情が無くなって真実の信心を獲得する一念までは

欲や怒りの煩悩で造る罪悪を見つめることが大切であり

これを「罪悪観」といわれます

 

「罪の有る無しの沙汰をするな」

といわれているのでは断じてありません

 

欲や怒りの煩悩で造る罪の沙汰をすることは大切だが

後生の一大事助かるかどうかは

疑情の晴れた真実信心一つであるから

罪悪の沙汰よりもその信心の沙汰をせよといわれているのです

 

こんなことを蓮如上人が仰った相手も

仏とも法とも知らず罪の有る無しを

全く問題にもしていないような人ではなく

それどころか蓮如上人の側近といわれる

法敬坊に対しての御教化であったのです

 

最初から苦悩の根元は阿弥陀仏の本願を疑う疑情一つなのだ

と教えられて分かる人は誰もありませんから

まず私達のよくわかる欲や怒りの煩悩の罪から教えられる

善知識方の「方便」であり

断じて「虚仮」の仏教なのではありません

 

「真実」を「真」ともいわれ

親鸞聖人は

「真」とは「偽」に対し「仮」に対する言葉である

と仰せになっています

 

「仮」とは「方便」のことであり

我々を真実に近づけ真実を体得させるに絶対に必要なものを方便といわれるのです

 

世間では「ウソも方便」などと言われることがありますが

断じて「仮」(方便)と「偽」(ウソ)とは同じものではありません

 

煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は

 万のこと皆もって空事・たわごと・真実あること無きに

 ただ念仏のみぞまことにて在します

 (歎異抄)

 

世間には真実も方便もなく

一切が空言たわごと真実あること無しであり

そんな世界で「ウソ」とか「ホント」と分けていますが

空言たわごと真実あること無しの世界で

嘘と本当を分けているのも

私達の迷いに過ぎません

 

仏教に説かれる真実は

そんな世間で言われるウソでもホントでもない

三世十方を貫く真実であり

「真実でないならウソだろう」

「方便とはウソのことだろう」

と思っているのは

真実と方便が説かれる仏教の

キホンの「キ」が未だわかっていないということです

 

真実(真)と方便(仮)が説かれているのが仏教ですから

仏教のことを「真仮」ともいわれます

 

このような仏教の

99%以上が方便の教えであり

その方便とは

苦しみの原因が欲や怒りの煩悩である

という教えです

 

これは断じて空言たわごとでもなければ

外道でも邪教でもなく

苦悩の根元は疑情一つであると教える

真実の仏法へ導くために

必要な方便の教えであることを

よく知らなければなりません

 

※今回は特段「今の真宗学」としての内容には殆ど触れておりません

 もしご要望がありましたら

 その際にはここからさらに現在の真宗学はこれほど深いのだ

 という讃嘆のご縁もあればありがたいとおもいます

 

 

 

 

法然上人の弟子で耳四郎という人がいました

 

この人物は

かつての日本が舞台となっている

ある大ヒットアニメーション映画の

重要な登場人物の元になっているのではないか

ともいわれています

 

耳四郎は元は都で名の知れた盗賊でしたが

大変仏縁も深く

阿弥陀仏の救いを喜ぶ身になったのは極めて早かったそうです

 

耳四郎は大泥棒ですから

仏法を聞こうと思ってではなく

かつて法然上人の御法話会場で悪事をはたらこうとして潜り込んでいただけでした

 

法然上人は富楼那の弁舌といわれる大雄弁家で

御法話には多くの人が集まっていたのでした

 

その法然上人の教えの繁昌は

当時の仏教界が

日本中の仏教が念仏の教えに塗り潰される

との強い危機感から

後に上人を迫害し

親鸞法然両聖人は都から追放されてしまうのです

 

そんな法然上人の御法話ですから

人の多く集まるところには

金品も多く集まっているだろうとでも思ったのか

床下に潜り込んで上の様子をうかがっていたところ

法然上人が悪人を救ってくださる阿弥陀仏の大慈悲を説かれます

 

耳四郎はもしや自分が床下に隠れていることを

法然上人が気付いているのではと思うような悪人救済の御説法がきこえてくるので

それは集中して聞き耳を立てていたことでしょう

 

私達も仏法を聞く時は

自分の噂話をされているのを聞くように真剣に聞きなさいと言われます

 

他人事だと思っていては聞けないのです

 

耳四郎はその一座の聞法…とはいっても床下から聞いていたのですが

その一座で阿弥陀仏の絶対の救済にあずかったといわれます

 

歎異抄の言葉でいうならば

摂め取って捨てられることのない

「摂取不捨の利益」(せっしゅふしゃのりやく)に救われたということです

 

すべての人に必ずおとずれる死が来ても

絶対に崩れることのない不滅の幸福です

 

耳四郎のように阿弥陀仏に救われるのが非常に早い人を「頓機」といわれます

反対に阿弥陀仏に救われるのにひまのかかる人は「漸機」といいます

「機」とは仏教で人のことです

 

法然上人は

漸機の者は多く頓機の者は少ないと言われており

中でも耳四郎はわずか一座の御縁ですから

極めて珍しい人でしょう

 

耳四郎が自分のような悪人が救わたことを大変驚いたに違いありませんが

そんな耳四郎が驚いで床下から出て来たことを

知られた法然上人もまた大変驚かれたに違いありません

 

どちらの驚きが大きかったと思われるでしょうか?

 

その答えは後に譲るとして

歎異抄の真意を解明するには

耳四郎が法然上人のお弟子になってからも

盗みを辞められないでいたということを

よく知っていただきたいのです

 

法然上人のお弟子になっても

耳四郎はついつい人のものが欲しくなってしまい

盗んだ後で懺悔の涙に暮れるのです

 

法然上人のお弟子は400人余であったと言われますが

当然のごとく他のお弟子達からは

そんな耳四郎は破門にすべきだと声が上がります

 

しかし法然上人はそんな意見を聞き入れられず

上人の御前で懺悔に泣き崩れる耳四郎に

「そなたも業が深いのぉ」

とただ一言お声をかけられたのだそうです

 

阿弥陀如来は全ての人を悪人と見抜かれ

そんな悪人をそのままで救うと誓っておられます

 

これは歎異抄で最も有名な

「悪人正機」の教えです

 

「善人なをもて往生を遂ぐ

いはんや悪人をや」

 (歎異抄第三章)

 

これは日本の思想史上

最も有名な一文ともいわれます

 

この言葉は直接には

唯円という親鸞聖人の高弟が

親鸞聖人からお聞きしたと書き残していることですが

この言葉を先に言われたのは法然上人ではないかともいわれています

 

親鸞聖人のお言葉として有名になってはいますが

法然上人の教えを伝えることに生涯を捧げられたのが親鸞聖人です

 

先生の御心を正確に多くの人に伝える以外に

弟子の使命はありませんから

その意味でまさに親鸞聖人にとって弟子の本分でしょう

 

ただ「悪人こそが救われる」という“結論”は全く違いはありませんが

どうしてそういえるのか

という“理由”の説明は

法然上人の御言葉として残っている記録と

歎異抄とではお言葉が大きく違っていることに

注意が必要です

 

混同している人も少なくありませんし

どちらのお言葉の御心にも合わない解説ばかりが

横行しています

 

さて法然上人といえば

権力者の横暴により流刑にあわれた後も

多くの人から学も徳もある尊い僧侶と讃えられていますが

ご自身は

「愚痴の法然坊 十悪の法然」

と懺悔なされています

 

仏教で最も恐ろしいと説かれる

「阿弥陀仏の本願を疑う心」

は滅して摂取不捨の利益に与ったけれど

愚痴や十悪の煩悩は死ぬまで無くならない悪人だという告白です

 

その「愚痴」とは宇宙の真理である因果の道理がわからぬ愚かな心ですから

悪いことをすれば悪因悪果で必ず悪い報いが返ってくると

頭ではわかっていても

悪のやまない馬鹿な心です

 

また人間の造る様々な悪を十にまとめた「十悪」の中には

「偸盗」(ちゅうとう)があります

 

人のものを盗む罪です

 

偸盗はまた「不与取」(ふよしゅ)ともいい

与えずして取るということです

 

決して相手に誰も要らないものを与えるのではなく

相手に幸せを与え

代わりに自らの欲しいものを受け取る

 

世の商売はお金でこの取引を成立させていますから

万引きは偸盗であるというのは誰でもわかるはずです

 

しかし

相手の時間を奪うのも偸盗です

待つ身になっても待たせるな

といわれます

 

万引きはしたことがなくても

相手を待たせるという偸盗罪は

造ったことのない人は無いでしょう

 

有名な大泥棒

かの石川五右衛門の辞世には

 

「石川や

浜の真砂は尽きるとも

世に盗人(ぬすびと)の

種は尽きまじ」

 

と詠んでいます

 

この五右衛門の命が尽きても

第二第三の五右衛門が現れ

盗人は尽きないという確信は

これほど物質的に豊かになった現代でも

証明され続けています

 

ここで

「盗人」が尽きないのではなく

「盗人の種」が尽きないと言っていることは注目に値します

 

大晦日には108回の除夜の鐘が聞こえて来ますが

108の煩悩の数から来ています

 

ヘソの無い人があっても

この煩悩の無い人はありません

 

108の煩悩の中でも特に私達を煩わせ悩ませるのが

欲と怒りと愚痴の心の三つです


この欲と怒りと愚痴の心はまた

「十悪」のうち心で造る三つの罪でもあります

 

無ければ無い欲しい欲しい

あればあったでもっと欲しい

という際限なく求める欲の心が

盗人の種であると言うことができるでしょう

 

人のものでも欲しいという欲の心こそが

偸盗の最も大きな動機でしょう

腹が立つ相手を不幸にしてやりたいと思って

相手の大切なものを盗んでしまうこともあるかも知れません

 

また自分より幸せそうな人をみると

そこから引きずりおろしてやりたいという心から

そんな相手のお金や地位や名誉や恋人などを

盗んでしまおうということもあるでしょうが

こんな妬み嫉み憎しみの心も愚痴の煩悩です

 

これらの盗人の種は

泥棒養成所で泥棒修行をしているような人にだけあるのではなく

すべての人に尽きることがないのです

 

仏教では口や体の行いよりも

心を最も重く見るのは

盗人の種に限らず

あらゆる口と体の悪の種であるからです


これがわかれば

すべての人は「心の悪人」であると気が付きます

 

この欲と怒りと愚痴の

心の悪から

偸盗の罪を含め

口や体で造る様々な罪悪が出てきます


これら人間の様々な悪を十通りに教えられたのが

「十悪」です


また煩悩は先の三つの他にも105つあると教えられ

あらゆる人が108の煩悩の塊であり

これを仏教で悪人といわれます

 

仏教で「悪人」とは「人間」の代名詞であり

善人は一人もいないと教えられるのです

 

法然上人も例外ではないばかりか

上人ご自身がこの心の悪を阿弥陀如来の光明によって照らされ

深く懺悔なされていたからこそ

耳四郎にも同病相憐れむように親しい法の友よと親近され

「お前という奴はつくづく業が深いな」

ではなく

「そなた“も”業が深いなあ」

ただ一声かけられるばかりであったのです

 

この歎異抄を誤解し

阿弥陀さまは悪人大好き仏だから

悪をするほど助かるのだと好んで悪を行う「造悪無碍」とよばれる輩が現れ

「悪人製造の教え」などと

親鸞聖人の教えは特に非難されました

 

繰り事ですが

「悪人こそ救われる」という悪人とは

盗人の種でもある煩悩の塊である全人類の事です

 

心の悪を最も重く見るのが仏教ですが

心だけを問題にするというのもまた誤解です

 

心だけでなく

口や体で悪を造ればそれだけ鬼の所業を重ねることになります

この罪悪をよくよく見つめなさいという法然上人の教えを伝える立場でありながら

体で造る盗み癖の罪悪を隠すことができなかった耳四郎でした

 

しかし

それほど悪の染み付いた耳四郎のような者も救われ

また法然上人のお弟子として知られるということで

「私のような悪人など救われるものか」

と卑屈になっている人の

その疑いを晴らす縁にもなっていたに違いありません

 

かつて釈迦の時代にも

99人もの人の命を奪う無差別殺人鬼から

回心懺悔して仏弟子に生まれ変わった人があり

それをなぞるような師弟のやりとりが歎異抄にも記されています

 

悪人を救う阿弥陀仏の救済とは

人間を救うということなのです

 

どんな人も必ず救うということなのです

「弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて往生をば遂ぐるなり」と信じて
 「念仏申さん」と思いたつ心の発るとき
 すなわち摂取不捨の利益にあずけしめ給うなり

 (歎異抄第1章)

弥陀の誓願不思議を不思議と知らされたのが悟忍

往生をば遂ぐるなりと信じたのが信忍

「念仏申さん」と思いたつ心は

救われた喜びから仏恩報謝の他力の念仏称えようと思いたつ心であるから喜忍

 

 

阿弥陀仏の本願には「至心」「信楽」「欲生」の三つの心が誓われ

釈迦の観経には「至誠心」「深心」「回向発願心」の三心(さんじん)が説かれ

曇鸞大師の三不信に対して道綽禅師はより慇懃に「淳心」「一心」「相続心」の三信が教えられ

善導大師は「喜忍」「悟忍」「信忍」の三忍で明らかになされ

親鸞聖人のお言葉とされる歎異抄第一章では冒頭の流麗な御文によって

三つの心を教えられています

 

 

 

豊臣秀吉ほど日本において
この世の幸福のはかなさの知らされる人物はいない
といえるでしょう

天下を取り太閤と呼ばれ
大阪城や聚楽第を築き
また無類の女好きで寧々や茶々などをはべらせて
栄耀栄華を極めた人です

それとはまた対照的に
人生のむなしさを表す辞世の句もまた有名です

「露と落ち 露と消えにし 我が身かな
 なにわのことも 夢のまた夢」

生涯かけて築いた一切を
死ねば何一つ持っていくことはできない
という人生の悲劇さを知るのに
秀吉ただ一人の生涯を知るだけで
十分すぎるというほどです

彼の権勢を誇った大阪城は
かつて浄土真宗の中興といわれる
蓮如上人が建立された石山本願寺の地であり
まるで秀吉の人生を予見なされていたかのような
お言葉があります

夫れおもんみれば
 人間はただ電光・朝露の夢・幻の間の楽ぞかし

 たといまた栄華・栄耀に耽りて思うさまの事なりというとも
 其れはただ五十年乃至百年のうちの事なり

 もし只今も無常の風きたりて誘いなば
 いかなる病苦にあいてか空しくなりなんや

 まことに死せんときは
 予てたのみおきつる妻子も財宝も
 わが身には一つも相添うことあるべからず
 されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば
 唯一人こそ行きなんずれ


蓮如上人のお名前を知らなかったはずはない秀吉が
このお言葉を真実と聞いていたならば
彼の辞世は全く違っていたでしょう

日本の私達には
秀吉の生涯を通して親鸞聖人の教えを知るには
最高の反面教師となっていますが
そうではない場合はどうでしょう

海の内外のへだてなく
 みおやの徳のとうとさを
 わがはらからにつたえつつ
 みくにのたびをともにせん


真宗宗歌にもあるように
海外の人々に親鸞聖人の教えを伝えるには
秀吉を例示しても中々伝わらないでしょう

海外の方にも
そして日本の私達にとっても
この秀吉のような人生を望むことが
如何に愚かなことであるかが知らされる
『徒然草』に次のような因縁が記されています

大和国に久米寺という古い寺があります

昔、久米という仙人が雲に乗って
大空を自在に飛び回っていました

ある昼さがりのこと
得意満面の彼は
雲間から下界を見おろします

広い大和平野に一条の川が静かに流れています

その川に天女を思わせるきれいな娘が
だれに見られる心配もない気楽さから
おもいきり腰巻をまくりあげ
内股広げて鼻唄まじりで陽気に洗濯しているのを見てしまったので

相当の修行を積んでいた仙人ではありましたが
なまめかしい姿態をみてはたまらない

つい出してはならぬ妄念がわきあがったのです

と同時にたちまち神通力を失って
雲間から転落して二度と空を飛ぶことができなくなりました

仙人はそこに寺を造り
仏道修行に打ちこんだといいます

これが久米寺の伝説です

いくら仙人といっても
人間が雲に乗って自在に空が飛べるはずがありません

これは慢心をあらわしたものでありましょう

人は山のてっぺんに登ることはできても
そこに永く住むことはできません

地獄は有頂天から始まることを
決して忘れてはなりません

有頂天という言葉は
元来は仏教から出た言葉です

苦しみ迷いの六道輪廻の世界で
最も楽しみの多い世界が天上界ですが
その天上界の中でも最高の世界を
「有頂天」といわれるのです

迷いの世界の中でこれ以上は無いのですから
後は転落するだけです

有頂天という迷界では最高の境地から
最も苦しみの激しい無間地獄に堕ちることがあるのです

秀吉の臨終が「夢のまた夢」と悲劇的であったことも
蓮如上人が「三塗の大河をば唯一人こそ行きなんずれ」
と仰せになっているのも
すべての人に後生の一大事のあることを知らせるためであり
この一大事を助かるには阿弥陀仏の本願の他には無いと
明らかにする

このこと以外に
我々真宗人の為すべきことは他にありません

蛇足になるかもしれませんが
天上界に存在する有頂天と聞けば
何か我々には無縁のことのように思われますが
蓮如上人が「三途」と仰る三悪道
すなわち地獄界・餓鬼界・畜生界の衆生ばかりが
比較にならないほど多いこの迷いの世界で
人間界に生まれ一時の幸福を感じているのも
悪道の彼らから見れば有頂天のようなものです


人趣(人間)に生まるるものは
 爪の上の土のごとし
 三途に堕つるものは
 十方
(大宇宙)の土のごとし
  (涅槃経)

八大地獄で比較しても
一つ上の地獄は天上界のように楽しい世界に見えてしまう
といわれます

この世の一切は相対的であり
何かと比べて喜ぶ幸せしか我々は知りませんから
「有頂天からはじまる地獄」というのも
何も別世界のことでは断じて無いのです

「あなたの人生のピークはいつでしたか?」
などと尋ねられて
安易にいつどんな時であったと
すぐに答えることができてしまう人もあるでしょう

人生全体を通しての話ではなくとも
調子の良い時ほど注意しなければなりません

大型連休の旅行先で死んでしまうようなトラブルに遭った人がある
「わざわざ死ににいったようなものだ」
と嘆かずにはいられない

そんなことが毎年のように起きています

ものごとが割合順調にいっている時ほど
事故や事件に巻き込まれたりするものですが
いつ何が起きるかわからない
「火宅無常の世界」に生きている私達なのですから
次の瞬間には地獄という不安は絶えることがありません

がめつく生きても
無欲な生き方をしてみても
調子の良い時ほど気を付けようと
気を引き締めてみても
いずれもいずれも後生に一大事を抱えているのは同じであり
「生死の苦海ほとりなし」
と親鸞聖人が仰せになっている通りです